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ニッポンキリスト教vs.サンダーシング

今朝は、やや雨がぱらぱらしていたが、いつもどおり走る。生きる喜びは世の中や教界で大いなる業を達成する事によるのではなく、日常の小さなこと、目の前の風景が季節ごとに変わること、同じ木の枝が一日の間でも太陽の角度によって微妙に変化を見せること-こうしたところにある。実に「神性は天地創造からこれまで被造物において明らかに知られる」のだ。大衆から出て、山に篭った主イエスの気持ちがますます分かるようになってきた。むしろ大衆の間で生きることは、十字架を負わされ、十字架に向かうことを意味するのだ。トマス・ア・ケンピスも「人々の中で過ごした後は良心の汚れを覚えないことはない」と書いていたと思う。

愛知県のさっちゃんのBlogに紹介されていたが、これはまったく実に端的に言い得たことばだ。ちょっと転載させてもらいましょう:

山の中では、水は自由に流れ、好きな道を切り開く。それが平地にくると、水を引くために人の手で水路を苦労して掘らなければならなくなる。そのように、神とともに高き所で生きる人々の間では、聖霊は自由に流れている。だが、祈りと神との交わりにほとんど時間をとらぬ人々は、組織の運営で苦労することになる。

サンダーシングのことばだそうだが、彼のことはよく知らないが、このことばにはまったく共鳴。おそらく御霊の流れがもっとも貧困なところは教団の理事会や伝道団の委員会であろう。ニッポンキリスト教には実に種々のこういった組織があるが、中には世界一の伝道団体となり、自分たちの中から政治家を送り込み、NASAの専用スペースシャトルを飛ばすと言う大いなるヴィジョンの実現を目指して奮闘している人々もいる。何と言う愚かさと虚しさ・・・。ちなみに二重派遣で営業停止となったグッドウィルのあの方もキリスト教徒。

再度道元の師の如淨禅師のことばを紹介しておこう::

城邑聚落に住さず、国王大臣に近づかず、深山幽谷にあって一箇半箇を接得せよ。

 * * *

あと数日で冬眠生活に。今日の映画はブラッド・ピッド主演の『ジェシー・ジェームズの暗殺』。彼も中々渋い役者になったので期待値大。心理的な葛藤を描いた心理サスペンスだとかで、私のフェイヴァリット。感想は後ほど・・・。

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