Entry

トップ > 信仰 > 主イエスの渇き

主イエスの渇き

それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。-John 4:5-7

サマリアの女に永遠に渇くことのない命の水を与えたイエスは、彼女と会う前に、ご自身が渇きを覚えておられた。今、終末の様相を深めている中で、主イエスの深い渇きを感知する。主が渇いておられる。主は何を求めておられるのか。主はご自身の御心を、それを託すことのできる心の状態に至ったご自身の花嫁に少しづつ披瀝して下さる。一枚一枚、ベールが除かれるように、主の心が露にされるとき、いかに私たちは見当外れなところにいて、主から離れて自ら勝手なことをなしていたか、ようやく気がつくのだ。

ある老齢な主のしもべが言われたそうだ、真に主に従う者にとっては、殉教も携挙も同じことだと。私たちが求めるのは、ただ主の御心。その結果がたまたま殉教であり、携挙であるだけなのだ。殉教を嫌い、携挙を求める者は、まず100%携挙されることないだろう*1。得ようとする者はそれを失い、失う者はそれを得るのだ。残された地上での生活において、主イエスの渇きとその求めにどこまで応えることができるだろうか。絶えず、その時々の新鮮な主の招きに応え続ける者は幸いだ。サマリアの女は主の渇きによって、自分の渇きを満たしていただけたのだ。それは実に甘美な経験だったはずだ。

*1:日々、自分を否んで十字架を負うことは、主とともなる死と復活を経ること。それは小さな殉教なのだ。その小さな殉教の積み重ねの結果が携挙であり、あるいは文字通りの殉教なのだ。自称キリスト教徒たち(いわゆるキリスト教会)が7年の艱難前に自動的に挙げられて、地上の混乱を高みの見物することなど、決してあり得ない。

Trackback URL

https://www.dr-luke.com/diarypro/diary-tb.cgi/2769

Trackback

Access: /Yesterday: /Today: