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和光同塵-老子

 道は沖なれども
 これを用うればあるいは盈たず。
 淵として万物の宗に似る。
 其の鋭を挫き、其の粉を解き、
 其の光を和し、其の塵に同じくす。
 湛として存するあるに似る。
 われ誰の子なるかを知らず。
 帝の先に似たり。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。-Phil 2:6-8

生まれながらの(魂の)人は自分の才や力をひけらかすもの。対して老子は説く:鋭く尖ったものを鈍くおだやかにし、縺れたものを解きほぐし、まばゆい光はやさしくやららげ、至る所に舞う塵とひとつになること。これが「道(タオ)」の機能であると。まことにガマリエルの薫陶を受けた、当時のエリート中のエリートにして迫害の急先鋒だった才長けて尖ったサウロは、あの光に打倒されて後、パウロとなり自らを塵芥であると証しているのだ(1Cor 4:13)。真の「道」に出会った彼の何という変わり様、それはまさしく神の栄光!

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