2014年のチャレンジ2
- 2014/01/05 17:43
- Category: 信仰
- Tag: 神の国 老子
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。-Matt 18:20
ここの「において」のギリシャ語の単語は"eis"。普通、英語では"into,unto"と訳される。そしてこの小さな前置詞が実に重要なのだ。私たちは誰の名にintoして集まるのか?名とその実質は分離不可能だから。この名を誤ると主ご自身不在の集まりと化す。その時、先に書いたとおり、『パーパス・ドリブン』だの、ドラッガーだの、小賢しい人間の手の業が侵入するのだ。終末に生きる私たちが地上の歩みを進める上で、この点、きわめて重要にして致命的なものとなるだろう。老子にいわく-
企(つまだ)つ者は立たず
跨(また)ぐ者は行かず
自ら見(しめ)す者は明らかならず
自ら是とする者は彰(あらわ)れず
自ら伐(ほこ)る者は功なし
自ら矜(ほこ)る者は長ぜず-老子二十四章
かくして今週のニーの黙想にあるとおり"idle(無為)"でいること。自分が用いられているとか、神の業に預かっているとか、自分では何も知らないことは幸いなのだ。
無為を為し、無事を事とし、無味を味わう-老子第六十三章
それは真の道(タオ)であるお方の業なのだ。
神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:29-29
かくして兄弟姉妹、ブラザー・ローレンスの言う「聖なる怠惰」を楽しもうではないか。