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宗教とグローバリゼーション

と題するセミナーをTony BlairとIpsos MORIのCEOのBen Pageが開催した。Blairはカトリックに改宗し、Rick Warrenと組んで世界平和運動を目論んでいることはすでにここでも書いたが、今回のセミナーでグローバリゼーションの実現のためには宗教をどう扱うかが非常に大事であると指摘している。欧米では宗教のウェイトがきわめて高く、35歳以下の約7割が宗教を重んじる回答している。しかし政治とは一応切り離している。

興味深い点は、モスレムの人々たちの方がクリスチャンたちよりもはるかに自分の信仰のみが真の自由と救いへの道であると信じているのだ。クリスチャンがいわゆるイエスの名の権威を毀損し、父なる神までも否定する傾向に対して、モスレムはその信仰に対して忠実。その数字がすごい、モスレムでは61%、クリスチャンでは19%だ。クリスチャンと自称する者たちの19%のみが救いの名はイエスのみであると信じているに過ぎない。
続き
Blairは最後にまとめている:

"This survey shows how much religion matters and that no analysis of the contemporary world, political or social, is complete without understanding the relationship between faith and globalisation. The evidence is that, though people fear the prospect of religious strife, even here in Britain, there is much to encourage the view that people can learn to respect those of another faith and live with them peacefully. Inter-faith dialogue and action today is not just an interesting but peripheral minor subject, it is the essence, central to creating greater social cohesion and harmony.”

グローバリゼーションを実現し、社会の団結力と調和をはかるためには宗教が本質であると。英国においても互いの宗教を理解し、尊重し合いつつ、平和に生きるためにはInterfaith Dialogueが本質的であると・・・。お分かりになるだろうか、すでにクリスチャン信仰がモスレムに対して屈していることが。英国においてはモスレムは確実に社会とクリスチャン信仰を侵食しているのだ。平和とか調和とかの物差しを置くことにより、イエスの排他性や聖書の独自性が損なわれ、カトリックのように救いに至る道はいろいろとなるわけだ。

先にアメリカにおいて、ヤーヴェとアッラーは同じ神であり、クリスチャンとモスレムが共に礼拝することを宣言した300名の有名どころの指導者たちのサインがなされたことに触れたが、この傾向はますます強まることであろう。残念ながらすでにクリスチャンたちは負けているからだ。というより、真理を妥協し、霊的領域を譲ってしまっている。かくして終末の欺瞞はさらに隆盛を極めることであろう。まことに時代は背教の時代、聖書の予言どおりだ:

しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。-1Tim 4:1

ちなみに9月までにカルテットによるPA国家樹立の脅威に晒されているイスラエルは、オバマによる67年国境への退去要求を拒否しているだけでなく、シナイ半島の再獲得を視野に入れているようだ。

さらにトルコはますます反イスラエルの方向へと向かっている。今回もイスラエルによる海上国境線の提案を拒否。ガザ地区への支援艦隊を送っている。

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かくして世界平和を物差しとする人々からはイスラエルの姿勢はあくまでも頑なであり、自国の利益優先と見えるわけで、今後さらにイスラエルは世界の悪者とされ、孤立するだろう。イスラエルを巡る情勢はきわめて微妙なバランスの上に立っているわけで、このバランスが一度崩れると一挙に戦闘が開始される。エゼキエル37-38章へと入る。

世界情勢を見るときに、何を物差しとするが鍵となる。この選択を誤ると目の前の現象によって躓き、信仰から脱落し、篩い分けられてしまうだろう。私たち人間界では平和とか調和とか、つまり私たちが快適に暮らす、それぞれが自己実現できる社会を目指すわけ。その根底にあるのはセルフの生存の担保。しかし霊的世界では神のご計画とそれを阻止する者との相克が展開している。神はご自身の計画を地上においてはイスラエルとエクレシアによって進められる。しかしこの二つは人間の物差しから見ると何と頑なで、排他的で、独善的で、すなわち人間の計画にとっては大いなる躓きとなるのだ。

あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。-Luke 12:51

かくしてセルフにとって快適な物差しか、神(キリスト)の物差しか。その選択がすべてとなる。主に従うためにここで十字架が働く(Luke 9:22-23)。すでにティッピングポイントを超えた現在、霊的領域の相克が直接的に地上に現出する。よってその表現はこれまでの私たちの経験をはるかに逸脱するし、過激であるし、悲惨でもある。これは人間社会にとってはまさに災いである。これをどちらの物差しで測るのか。背後にある神の意図・意思を測ることができれば、それは神のご計画が着々と進行していることの証左なのだ。それは大いなる励ましとなる。

すでに何度も書いているが、時代は有視界飛行モードではなく、視力に頼らない計器(み言葉)飛行モードによるべきなのだ。自分の感覚とか自分の理解、自分の何かに頼るならばたちまち墜落してしまうだろう。イスラエルがオン・ザ・エッジにあるようにエクレシアも同じ。よくある譬え話だが、エッジの上を歩み続けるには、3つの要素の順序が重要。先頭は事実、すなわちすでに神がキリストにあって達成された事柄(1Cor 2:9);次は信仰、信仰は目に見えない事柄の実体化(Heb 11:1)-それは霊による;最後に私たちの経験あるいは感覚だ(Rom 8:6)。この順序を間違ってとんでもない処に逝ってしまう所謂ニッポンキリスト教徒が何と多いことであろうか。

しかしそもそも神の主権を認めず、聖書の霊感性を信じない者たちがどうして霊的歩みをなし得ようか。魂の領域にある虚しい言葉による不毛な議論に落ちるだけだ(1Tim 6:4-5)。これがニッポンキリスト教の現況。いずれこのギュウカイは自己崩壊するか、あるいは獣の印を受けるだろうと、私は何度も言っているとおり。真理を逸脱することの当然の帰結であろう。繰り返すが、神の主権に服すること、主の血と十字架、そしてみ言葉に戻ること、内なる霊によって歩むこと。この死と復活のダイナミクスによる生活のみが私たちを守り導くのだ。

PrepareStand against the evil and deceptive age!


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  • 2011/07/08 17:41
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Luke

あ、どうもです。iPhoneですか、私はもうついて行けてません(涙)。

そうですね、いつまでここに残るのか、最後の最後まで残されたくはないのですが・・・。その日はいつでしょうか。ただマラナタと祈ります。

その際はよろしくです^^

  • 2011/07/08 19:53
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