十字架の甘美
- 2009/04/24 18:05
- Category: 信仰
主イエスは「わたしに従いたい者は、自分の十字架を負って、わたしに従え」と言われた。この自分の十字架は自己否定を要求するが、それは自己疎外ではない。難行苦行でもなく、やせ我慢でもなく、自分を鞭打つことでもない。それは単純にあらゆるモノの見方、判断の基準、行動の原則、これらすべての物差しを神の側に置くことだ。私たちの人生の主権者がどなたであり、その方は何をなして下さったか、また何をなして下さるか、そして私たちに何を求められるのか、それらを知ることができた者は幸いだ。すべての基準は私たちの側にはなく、ユニークにただ神にある。私たちはただ主の主権に服すること。
主こそが宇宙のあらゆる秩序と美しさの基準であり、しかもこの方は客観的に存在することではなく、私たちの人生にきわめて個人的な形で介入することを願われるお方である。そのための法的根拠はすでに十字架で成就した。すなわち私たちは神の子羊の血によって買い取られた存在であり、すでに所有権も主権も私たち自身にはない。神は私たちの人生において、すなわち私たちの弱くかつ脆い人間性において、ご自身が現されることを願われる。「わたしがあなたの主であり、わたしが主権者であることを、自らの自由意志によって受け入れ、その事実の中に生きよ」と主は言われる。
もともとキリストの十字架は私たちのためのものではなく、三位一体の神がその三人格の交わりの中でご自身を証された手段と場。私たちはただキリストと結合されることによってのみ、その三位一体の祝福された交わりに、キリストの人性にあって参画することを許され、キリストの死と復活の効力に与ることができる。この四次元時空体の中に束縛された人間性にあって生じるあらゆる事態にあって、私たちが神のために何をなし得るかを考えるのではなく、神が私たちに何をなされるのかを知ること。そしてその御旨と主権に服すること。これだけが私たちの肉体に宿った霊的いのちを保ち、かつそれを経験的に味わうための秘訣である。
この世界において生起する事態に対して、まったく何もなし得ない私たちの無力な人間性。それはあまりにも弱くかつ脆い。しかし神はこの人間性をあえてご自身で取られたのだ。その小さな領域の中に無限なる神が閉じ込められ、肉体を持つ者として、あらゆる弱さ、苦しみ、葛藤、痛み、そして裏切りを経験された。私たちはしばしば強さを求めるものだが、しかし主は言われる、「あなたの弱さにとどまりなさい。その弱さをもっと知りかつ誇りなさい。あなたの人間としての弱さをわたしは経験し、熟知している。その弱さのゆえにわたし自身も十字架につけられた。ゆえにそこがあなたの居場所でもある。ただその死に留まるように。なぜならわたしの恵みはあなたに対して十分である」と。
十字架は自分の弱さを知り、弱くなられた主を知り、味わう甘美な手段と場所。マダム・ガイオンは当時のカトリックの牢獄に幽閉され、何もなし得ない中で言った、「私は私の甘い十字架に口づけする」と。ウォッチマン・ニーも、20年の労働改造所生活の果て、そこから終に解放される直前、持病の心臓発作の苦しみにあえぎつつ、山道を行くトラクターの上で震える文字を書き残した、「神が人となり、死んで、三日目に復活された。この事実は宇宙で最大の価値ある真理である。私はその真理のために召されて行く」と。
神は彼らがあえて拘束されることを許された。彼らが幽閉されて、彼ら自身は何もなし得ない時、神ご自身が大いなる業をなされ、その証を打ち立てられたのだ。それはマダム・ガイオンの証でもなく、ウォッチマン・ニーの証でもない。ただ神ご自身の証。故に私たちは、ただ主を拝するのみだ。
エシュコルさとやん
ああ主よ、私はまだまだ主のいのちも十字架も知りません。ただあなたの前にひざまずき主権に服します。この私を生きた供え物とさせて下さい。そして受け入れて下さいます様に。
B、S、G、Fなどの自称牧師連中の被害者達を、主イエスただそのお方だけに目を注ぎます様に。