Entry

トップ > 信仰 > 十字架の甘美

十字架の甘美

主イエスは「わたしに従いたい者は、自分の十字架を負って、わたしに従え」と言われた。この自分の十字架は自己否定を要求するが、それは自己疎外ではない。難行苦行でもなく、やせ我慢でもなく、自分を鞭打つことでもない。それは単純にあらゆるモノの見方、判断の基準、行動の原則、これらすべての物差しを神の側に置くことだ。私たちの人生の主権者がどなたであり、その方は何をなして下さったか、また何をなして下さるか、そして私たちに何を求められるのか、それらを知ることができた者は幸いだ。すべての基準は私たちの側にはなく、ユニークにただ神にある。私たちはただ主の主権に服すること。
続き
主こそが宇宙のあらゆる秩序と美しさの基準であり、しかもこの方は客観的に存在することではなく、私たちの人生にきわめて個人的な形で介入することを願われるお方である。そのための法的根拠はすでに十字架で成就した。すなわち私たちは神の子羊の血によって買い取られた存在であり、すでに所有権も主権も私たち自身にはない。神は私たちの人生において、すなわち私たちの弱くかつ脆い人間性において、ご自身が現されることを願われる。「わたしがあなたの主であり、わたしが主権者であることを、自らの自由意志によって受け入れ、その事実の中に生きよ」と主は言われる。

もともとキリストの十字架は私たちのためのものではなく、三位一体の神がその三人格の交わりの中でご自身を証された手段と場。私たちはただキリストと結合されることによってのみ、その三位一体の祝福された交わりに、キリストの人性にあって参画することを許され、キリストの死と復活の効力に与ることができる。この四次元時空体の中に束縛された人間性にあって生じるあらゆる事態にあって、私たちが神のために何をなし得るかを考えるのではなく、神が私たちに何をなされるのかを知ること。そしてその御旨と主権に服すること。これだけが私たちの肉体に宿った霊的いのちを保ち、かつそれを経験的に味わうための秘訣である。

この世界において生起する事態に対して、まったく何もなし得ない私たちの無力な人間性。それはあまりにも弱くかつ脆い。しかし神はこの人間性をあえてご自身で取られたのだ。その小さな領域の中に無限なる神が閉じ込められ、肉体を持つ者として、あらゆる弱さ、苦しみ、葛藤、痛み、そして裏切りを経験された。私たちはしばしば強さを求めるものだが、しかし主は言われる、「あなたの弱さにとどまりなさい。その弱さをもっと知りかつ誇りなさい。あなたの人間としての弱さをわたしは経験し、熟知している。その弱さのゆえにわたし自身も十字架につけられた。ゆえにそこがあなたの居場所でもある。ただその死に留まるように。なぜならわたしの恵みはあなたに対して十分である」と。

十字架は自分の弱さを知り、弱くなられた主を知り、味わう甘美な手段と場所。マダム・ガイオンは当時のカトリックの牢獄に幽閉され、何もなし得ない中で言った、「私は私の甘い十字架に口づけする」と。ウォッチマン・ニーも、20年の労働改造所生活の果て、そこから終に解放される直前、持病の心臓発作の苦しみにあえぎつつ、山道を行くトラクターの上で震える文字を書き残した、「神が人となり、死んで、三日目に復活された。この事実は宇宙で最大の価値ある真理である。私はその真理のために召されて行く」と。

神は彼らがあえて拘束されることを許された。彼らが幽閉されて、彼ら自身は何もなし得ない時、神ご自身が大いなる業をなされ、その証を打ち立てられたのだ。それはマダム・ガイオンの証でもなく、ウォッチマン・ニーの証でもない。ただ神ご自身の証。故に私たちは、ただ主を拝するのみだ。

Comment

エシュコルさとやん

ああ主よ、私はまだまだ主のいのちも十字架も知りません。ただあなたの前にひざまずき主権に服します。この私を生きた供え物とさせて下さい。そして受け入れて下さいます様に。
B、S、G、Fなどの自称牧師連中の被害者達を、主イエスただそのお方だけに目を注ぎます様に。

zion

イザヤ書 66章 1〜2節

天はわたしの王座、地はわたしの足台。
わたしのために、あなたがたの建てる家は、
いったいどこにあるのか。
わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
これらのすべては、わたしの手が造ったもの、
これらのすべてはわたしのものだ。
ー主の御告げ。ー
わたしが目を留める者は、
へりくだって心砕かれ、
わたしのことばにおののく者だ。

  • 2009/04/25 15:08
  • Edit

無名の罪人

しかし、この文章に表れている信仰もまた、認識であり、自己意識の一種だとしか思えません。
そして、自己意識は常に自分と他人を区別することによってエネルギーを得ますが、それは神のエネルギーではない。
認識でも自己意識でもない福音の根源は、神が徹底的に本当に愛であることです。そして神の愛という親心に生かされることです。
そこには、もはや私たちの信仰のあり方をする人とそうでない人という区別はありえません。
だから、パウロはそのことをこう言い表しました。
「私の同胞、イスラエル人のためには、この身が呪われるものとなることさえ願いたい」。
それは、イエスご自身の言葉と同じことです。「彼らは何をしているのかわからないのです。父よ、彼らをお赦しください。」

  • 2009/04/26 19:08
  • Edit

無名の罪人

家族という人間的三位一体の単純な現実が、永遠の三位一体のもっとも美しいたとえとなることに注意を向けていただきたい。理想的な家族とはどんなものであろうか? 妻に向けられる夫のまなざし、夫に向けられる妻のまなざし、子どもたちに向けられる父と母のまなざし、両親に向けられる子どもたちのまなざしでなくて何であろうか。まさにおのおのが、相手のため、相手のうちに生きる

分かたれ得ない調和のうちでの互いの息遣いでないなら、家族の幸せや喜びや一致は何なのだろう? そして、この幸せな家族の幸せはだれに属するのか? それはだれか一人のものではな

い。父親は自分が家庭の中心、源泉であるとは言えない。母親もまた、一致や愛や子どもを自分が独占することはできない。この幸せは相互のコミュニケーション(相互付与)、相互の絶え間ない無所有、自己放棄によってしかあり得ないのだ。まさに、知性と心に源を持つ真実の幸福、人格的な幸福、精神の幸福は、だれも自分独りで所有することのできない善なのである。真理を所有したいと望むと、それを失う。それを独占したいと望むなら、真理を醜いものにし制限してしまう。愛を所有したいと望むなら、愛とは無関係な者となってしまう。三位一体という神的生命は所有し得ないものである。神はこの上ない無所有であり、反所有であり、反ナルシスであって、神が神であるのは、まさにこの無所有のゆえなのである。

神の貧しさの中により深く入る度合いに応じて、そして神の喜びが完全な譲与の喜び、何も自分のために保たず何も自分のために所有しない者の喜び、その認識と愛が永遠のコミュニケーション、永遠の無所有である者の喜び、完全に自分を空にした者の喜びであることを知る度合いに応じて、また、最高の人間的愛の表れとして、母が自分を空にして子どもの人生を生きるように、愛が他者を生かすために相手と一つになる能力があるということを見いだす度合いに応じて、この優しさの深淵に身を沈める度合いに応じて、人は神の弱さをよりよく理解するであろう。この神は私たちを支配するファラオではない。私たちを所有する所有者ではない。神は永遠に自分を与え、愛以外の何ものでもない方である。永遠に自分を空にした愛、各ペルソナが他者に向かう清い飛翔である愛!

キリスト者の神、イエス・キリストによってご自身を啓示される神は、永遠に自分を失った神であり、それゆえに何も失うことのできない方なのだ。神は永遠にすべてを与えられたので、これ以上与えることができない。この譲与こそ、アガペそのものである神の姿なのである。この神、人が考えているのとはまったく違う神、預言者でさえ考え及ばなかった神、ただイエスのみがユニークな方法で生き、キリストただ一人があかしされた神が、神とは人間を制限し、脅し、罰し、人間の価値を下げて
しまうものだというイメージから私たちを解放してくださるであろう。神のうちに、私たちが隷属している主人を見る代わりに、私たちと愛の契りを結んでくださった神を見なければならない。私たちは神との婚姻の喜びのうちにいるのであり、それだけが大切なことなのだ。

  • 2009/04/26 19:21
  • Edit
Access: /Yesterday: /Today: