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ポスト・ミレか、プレ・ミレか?

ブレズレンのダービーによるディスペンセイション主義ではプレ・ミレ。つまり千年期前にイエスは再臨され、地上に文字通りのご自身の統治による御国を設立する。一方、ラッシュデューニーの再建主義によるとポスト・ミレ。つまり現在が千年期であり、全世界が福音化された後、イエスは再臨する。再建主義の旗手富井健氏によれば、AD70年にイエスはイスラエルを裁き、旧経綸を終わらせるために最初の再臨をされ、千年期後に二回目の再臨をされる。

ポスト・ミレの根拠はマタイ24章(Matt 24:34)でイエスが言う「この時代(genea)」とは70年間を指すものであるから、マタイ25章の終末予言はAD70年のローマのタイタスによるエルサレムの裁きのことであるとするのだ。さらにパウロは「主が再び来られるときまで生き残っている私たち」(1Thess 4:15)と書いているのだから、主の(最初の)再臨はパウロが生きている時代であると(そうでないとパウロは偽預言者となる!)。ゆえに黙示録の19章まではすでにAD70年に成就している。理由は黙示録が書かれたのはネロの時代、つまりAD60年代であるからだ、とする。私たちは通常、ヨハネの晩年であるAD90年代と考えている。*1

ここで私がプレ・ミレに立つ根拠を二つほど述べておきたい:

1.パウロは「生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ」と書いている。これはイエスの最初の再臨の時、つまりAD70年に起きたと再建主義者は言うわけだが、実はパウロはAD70年には生きてはいない。彼はAD60年代にネロにより斬首されているのだ。つまり再建主義の立場に立つのであれば、彼の預言は外れたことになるのだ。彼は確かに切迫再臨の感覚を持っていた。が、それは彼においては成就しなかった(再建主義者の立場においてすら!)。

2.千年期については黙示録20章に書かれている(Rev 20:6)。しかし、黙示録16章にはこうある:

第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。」-Rev 16:4-5

ここには「やがて来たる方」とは書かれてない。つまり第三の御使いによる鉢の裁きの前までには、主は来ておられるのだ(Rev 14:14-16)。それはもちろん千年期のである。再建主義によれば、これが最初の再臨ということなのだろうか?すると二回目の再臨は黙示録20章以下のどこに書かれているのだろうか?そもそも再臨が二回あるって???

とりあえず、この二点を指摘するに留めるが、しかし、同じ聖書を読んでいて、これだけ解釈に差が出る論点もめずらしい。そしてこの違いは、まさに「今、ココ」における私たちの生き方そのものに影響するのだ。

*1:この論点についてはすでに論駁している→「666の正体は?」。cf.「黙示録は誰に対して書かれたか

法王フランシス、伝道するな、と!?

いや、これはオドロキ。ついに彼、失われた人々に改心を迫るな、と言い出した。

彼の提示する幸福な生き方の10のヒケツ:

9. Don't proselytize; respect others' beliefs. "We can inspire others through witness so that one grows together in communicating. But the worst thing of all is religious proselytism, which paralyzes: 'I am talking with you in order to persuade you,' No. Each person dialogues, starting with his and her own identity. The church grows by attraction, not proselytizing," the pope said.

一見、他人の信条に敬意を払い、改宗を迫ることばの争いに陥ることなく、魅力によって教会は成長すると、もっともらしいことを言っているようだが、本質は妥協である。彼の、モスレムもクリスチャンも同じ神を拝するとか、すべての人は信仰の有無によらず救われているとか、いわゆるエキュメニズムや万人救済のスタンスからその霊の本質は明らかである。すなわち、十字架と血潮の否定なのだ。なるほど、これならば世と折り合いをつけることができ、ハッピーになれるかもだ。迫害も受けずに・・・。しかしパウロはどうだったか?そもそもイエスはどうだったか?

パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」と言った。
するとパウロは次のように言った。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。
王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。
アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」
するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。
パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」-Acts 26:24-29

この福音のゆえにパウロはネロによってAD60年頃に斬首された。

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。-Luke 12:51-53

イエスは神の国をことばとわざにより証したゆえに十字架につけられた。背教の時代、今後共バチカンとカトリックには十分に注意する必要がある。サタンは光の天使にすらマスカレードするのだ。鉄壁の守りを固めていたかのトロイアを滅ぼしたのは、自分たちで城壁の中に運び込んだトロイの木馬だったのだ。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。-Acts 18:9-10

もがかないこと-脱力する者は救われる

なんと爽快な朝。肌をなでるそよ風が実に気持ちいい。軽く汗を流して、熱いシャワーを浴びたところ。

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で、今朝のニュースによると、伊豆沖で遭難した男性が、仰向けに浮きながら鼻と口だけを水面上に出して、伊豆半島沖を白浜海岸まで流されて救助されたとのこと。面白い。彼は一切手足をばたつかせることなく、ただ浮いていたのだ。ポイントは呼吸していること。よって体力は温存され、季節柄低体温症になることもなく、助かったというわけ。

コレ、信仰生活のヒケツでもある。ニッポンキリスト教には自分を自分で救おうとしてもがき、クルシチャン化する者が多い。しかし、主はこう言われるのだ:

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」-Isa 30:15

何かの事態に追い詰められても、自分ではもがかないこと。言うべきこと、すべきことはした上で、ふっと力を抜いてしまうこと。そして霊の呼吸を維持すること。まさに「脱力する者は救われる」のだ。すると御霊は霊の奥深くから語って下さるのだ。この時、直覚的に、分かる。あ、解決されている、与えられた、満たされた・・・と!これが信仰の瞬間だ。あとは、時の流れの中で実体化されていくのだ。

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。-Ps 121:1-8

■参考:信仰と希望

主の大いなる恐るべき日のしるし?

まず前提として聖書をそのままに取る立場の私としては次の聖句を認めるものである:

ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。-Gen 1:14

さてここで次の聖句を見てみよう。もちろん使徒行伝のものは一部言葉が異なるがヨエル書の引用である。

主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。-Joel 2:31

主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。-Acts 2:20

私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。・・・御怒りの大いなる日が来たのだ。-Rev 6:12;6:17

まず第一に、これらの三つの聖句は同じ事象を語っていると思われる。極私的には、文字通りにここから子羊のみ怒りの日、すなわち大艱難期に入ると考えている。ちなみにダニエル預言(Dan 9:27)の最後の1週(7年)の前半は人類の罪が満ちる期間(艱難期)、後半は神の裁きの期間(大艱難期)である。これは黙示録6:12から見ると第六の封印が解かれる時だ。そして第七の封印の内容が七つのラッパ、第七のラッパの内容が七つの鉢の裁きである。極私的には第七のラッパが最後のラッパであり(1Cor 15:52)、この時に死者の復活と一般の携挙が起きると考えている。

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つまり、大艱難期に入る時には、太陽は暗くなり月が赤くなるのだ。上の創世記の聖句をそのままに取るならば、この天体事象が起きるときがまさにその時となる。そこでNASAのサイトを見てみよう。すると、2015年3月20日(ユダヤ宗教暦の新年)に完全皆既日食が、同年4月4日(過ぎ越しの祭り)に赤い月が出現するのだ。つまり太陽は暗くなり月は赤くなる現象が続いて起きる 

うーん、するとだ、すでに最後の1週に入っている?*1前にメッセでも語ったが(2010年に開始した「時代を聖書で見る」シリーズ全24回を参照)、最後の1週の条件となる年は2011年、2014年、2017年、2019年などがあり得るのだが、2011年の秋頃から入っているとすれば、2015年の春はちょうど3年半後となるのだ・・・。艱難前携挙説を採る人々はまだ教会が残されているから大丈夫と判断すると思うが、これは罠に落ちる。うーん、ヤバイかも、だ少なくとも言えることは、かなりニアな時期に入っていることは間違いないであろう*2

*1:それとも聖句にある事象は通常の天体現象とは異なる特殊なもの、か?
*2:もちろんポスト・ミレを採る再建主義の立場からはトンデモなことになるのだが・・・。

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 そして・・・幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。-マタイ2:11

 マタイ福音書は王の福音です。「私たちは礼拝するために来ました」と彼らは言い、そしてまず御子の正統な権利を確立しました。なぜなら礼拝こそがすべてだからです。礼拝すればするほど、神はそのことの根拠を私たちに見せて下さるでしょう。祈る前に、まず礼拝しましょう。宣べ伝えることにおいても礼拝しましょう。あらゆることにおいて主に心から礼拝を捧げるのです。これこそが今日地上における教会の仕事であります。すなわち神への礼拝を確立すること。私たちが礼拝することなくして、神はこの世において礼拝を受けることはできません。もちろん他の奉仕も忘れてはなりませんが、なお、まず礼拝を捧げるのです。賢者たちは自分の宝の箱を主に対して開きました。私たちは何も留保すべきではないのです。私たちが捧げるべきは香であり、香料ではありません。その香は、解き放たれる前に、香壇において完全に聖別される必要があるのです。これこそ真の礼拝です。今日、神は真の礼拝者たちを求めておられるのです。

信仰放談

何とも気温が高いが、気持ちのイイ走りだった。朝はサイコウ!

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まこさんがこの度の『信仰放談イン・チバ』を文字に興して下さっています。聴く間のない方はぜひどうぞ。

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またそれぞれの兄弟姉妹方も感想を書かれております。丁寧にリンクをたどってみてください。ある兄弟はこんなクリスチャン同士の交わりのあり方は初めてだったとか。とにかくプログラム無し、一見たらたらと、何気に交わりつつ動いているだけ。宿の主が、「この団体さんはどういったスジのみなさんですか?」と困惑気味だったようだ。しかし不思議と内側には潤いが満ちるのだ。

Special Talk:千葉温泉オフ会対談LIVE

Salt氏のChapter29にても聴くことができますが、こちらでも紹介しておきます。Salt氏の司会により、小生、Dr.Kさん、ゆばるさん、電気屋さんが思いのままに発言しております。それぞれかなり濃いキャラの面々ですので、そのつもりでお聴きくださいませ

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改宗か、死か-ISIS

ここ数年、時代はカインの霊とアベルの霊の相克、つまり神に拒絶された者と受け入れられた者の対立と言ってきた。あの者のターゲットはイスラエルとエクレシア。イスラエルは世界の悪とされ、そして、ついにこういう時代に入ったようだ・・・

バグダッド(CNN) イスラム過激派組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」に掌握されたイラク第2の都市モスルで、キリスト教徒が「改宗か死刑か」の選択を迫られ、逃亡を余儀なくされている。

ISISは18日、モスル市内のキリスト教徒に対し、19日正午までに改宗しなければ、55万イラクディナール(約4万8000円)の人頭税を納めなければならないとの通告を出し、いずれにも従わない場合は「剣で死刑にする」と言い渡した。

これを受けて19日早朝、計52世帯のキリスト教徒が自宅から逃げ出した。改宗や納税を拒否する住民は市外への退去を認められたものの、身に着けた服以外、現金や貴金属などを持ち出すことは禁じられた。

CNNが独占入手した現地の映像には、黒いペンキで「ISIS所有」と書かれた空き家がいくつも映っている。

一部の家族はクルド民兵が支配するイルビルを目指したが、大半はモスルから北へ約140キロ離れたドフクへ向かった。

ISISは本拠地のシリアからイラクにまたがるイスラム国家の樹立を一方的に宣言している。国際テロ組織アルカイダさえ距離を置くほどの残虐な組織とされる。17日には、シリア中部ホムスの天然ガス田を襲撃して270人を殺害したと発表した。

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう。-2列王記4:43

 神への奉仕において信仰は最も重要な要因であり、それなくしては真の霊的働きはなし得ません。しかし私たちの信仰は訓練と強化を必要とします。神はその目的のために物質的な必要を用いられるのです。漠然とした曖昧な事柄に関して信仰を告白することはそれほど困難ではありません。このことに関しては自分自身を欺むくこともあり得るのです。それは実際的な私たちの信仰がどのように欠如しているのかを明らかにすることができないからです。しかし、いったん経済的問題、飲食物やお金の問題になりますと、事はきわめて具体的になり、私たちの信仰の実際が試されるのです。もし私たちがそのような働きのための必要を神が答えてくださることに信頼していないのであれば、どうして霊的な必要を語ることに益があることでしょうか?私たちは人々に神は生きていると宣べ伝えます。そして神が生きておられることを物質的領域の具体的取り扱いにおいて証明するのです。このように神への内なる確信が確立されていなければ、改めて霊的な必要が生じる時が必要なのです(訳注:それはより困難な信仰の訓練となることを示唆している)。

7月4日、アメリカの旗は振られているか?

同日付けのHal Lindseyのメッセージは重要。いわゆるアメリカキリスト教のメインラインが、聖書をそのまま神の言葉と信じることをやめたことにより、クリスチャンは力を失った。そこに残るのはいのちの抜けた形のみの抜け殻。ニッポンキリスト教もいずれ同じ道を辿る。否、すでに、だ。日基などのリベラルや左系からカトリックまで、すでに聖書を侮り、それは人間が神について書いた記事だとする輩も多い。むしろみ言葉をそのままに信じる者たちを原理主義カルトや狂信者とする傾向が広まっている。同時にイスラエルに対する態度も聖書から逸れてきている。ヒューマニズム的な評価により、霊的次元が見えなくされている者たちが出現してる。依然として、創世記12章(Gen 12:1-3)のアブラハムに対する約束は生きているのだ。これらは重要な終末の兆候なのだ。

Hal Lindsey Reportから

ダニエル書の預言に基づき、現在の世界情勢を分析しており、今後の中東情勢の行く末などを気にかける人々にはかなり参考になる。それと共に、今回の私のメッセとも関連するが、いわゆる罪責感で束縛されているクルシチャン向けのメッセもある。私たちの過去・現在・未来のあらゆる罪はすでに赦されている。ならばどうして告白する必要があるのか。それは時間の中で生きる私たちが現在の主との交わりを維持するためなのだ。私たちの良心が汚れると交わりが絶たれる。このゆえに告白するのだ*1

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。-1John 1:9

まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。-Heb 9:14

*1:告白のギリシャ語"homologeo"の意味は「同じことを語る」こと。神のなされた事実に従って、それを語り出すのだ。それは刑事による取調室での白状するといったこととは全く異なる。むしろ、告白は十字架の赦しと血による良心の清めを実体化することだ。つまり主観的にはとても甘い経験なのだ。もうひとつHalが指摘するポイントは、「意識されている罪」を対処すること。この基準は人それぞれに異なる。交わりの障害となる事という視点を外れて、「何でもかんでも吐け!」的になる罠に落ちてはならない。

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。-2コリント4:7

 ここに実際的クリスチャン信仰の、おそらく最も明確な定義が示されています。クリスチャン信仰とは、地上の器でもなく、宝物でもありません。それは土の器の中にある宝です。人間的な弱さが神の力を制限することがないことのゆえに、私たちは大いに神に感謝するのです。
 私たちは、容易に、土の器には力が欠如していると考えるものです。しかるに、祝された主ご自身が「弱さのゆえに十字架につけられた」のです。弱さを覚えることはなんら悪いことではありません。私たちは自分の感情を氷のように凍結させる必要などはないのです。しかし、感情を発散する人々は、しばしば、周りの人々を捌け口として感情をぶつけますが、それでも彼らは人間関係を良好に保つために、その生まれながらの嗜好による感情の問題を何とか取り繕おうとするのです。これは違います。私たちはむしろ、私たちの感情を御霊に委ね、そのご目的のために用いていただくべきなのです。もちろん、主が命じられるのです。もちろん、私たちは神聖な宝を持っています-そうです、しかし、それは冷蔵庫の中にではありません!

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