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本日の一冊

ファイル 681-1.jpgチェ・ゲバラ-革命を生きる』(創元社)。写真が実に豊富。チェ自身のカメラの腕もかなりものだったようで、しかも記録魔。ありとあらゆる事柄を文字と映像で記録していた。アメリカ帝国主義の欺瞞と戦いつつ、あくまでも民族の自立を目指した彼の精神と活動の歩みがコンパクトにまとめられている。

運命の出会いをしたカストロがやや狂信者のようなオーラを醸しているのに対して、チェはかなりの知性派であり、医師でもあり、サイエンティストとしての姿勢に私的にはかなり共感できる。ファイル 681-2.jpgしかもカッコイイ。彼自身が映画俳優のように渋い。歩き方などもかなり意識していたようであるし、また国連での演説でもオリーブ色のゲリラ戦闘服だったが、これはかなり計算がある。

つまりはエルネスト・ゲバラ・エ・ラ・セルナは、英雄的革命家「チェ・ゲバラ」を演じたのだ。先のヴァン・ダムが「ヴァン・ダム」を演じたように。地位と権力を得ながらも、カストロに別れを告げ、あえて戦場に向かって処刑された彼の生と死は、確かに祖国に捧げられたのであるが、実はこの演じられた「チェ・ゲバラ」に捧げられていた。しばしば英雄は自己愛性および演技性人格性向を有するものなのだ。彼はその英雄的な死をもって、自ら書いた「チェ・ゲバラ」のシナリオを閉じたのだ。かくしてジョン・レノンをして、「20世紀でもっともカッコイイ男」と言わしめた。

彼の人生にはカストロとの出会いが決定的な影響を与えているわけで、こういったある時代にあって、正反対の、しかし目的を同じくするパーソナリティが出会うと言う事件が世界を変えるわけで、私的には絶妙に働く神の摂理を覚えるのだが・・・。ユング的にはシンクロニシティか・・・。対してここでも少し触れたが(→三島とマルロー)、同時期の日本、「盾の会」のメンバーと共に腹を切った平岡公威は残念ながら「三島由紀夫」を演じ切れなかった。それは何とも意味づけの困難な中途半端な死だった。共に武士たらんとしたが、時代と社会はチェをして武士を全うさせたようだ。いずれにしろ男の価値はその死様にあるようだ。綺麗な死に向かった生を歩みたい。

で、今、カストロ死亡説が流れているとRSSに入ってきました(→記事)。時代が大きく変わりつつあることを感じる。

追記:Salt氏がコメントされていました:

2000年前の十字架が、私の最期であり、始まりでもある。実は本当のカッコよさはそこにしかなく、すべての憧れは十字架の影なのだと思う。

そうですね、私が大石内蔵助や三島由紀夫、そしてゲバラに惹かれるのも、実は十字架の影を見るからでしょう。もっとも惨めで格好の悪い死を主イエスは経られたのであり、実はそれが最高にカッコイイ。よって彼こそは実は真の大石であり、三島であり、ゲバラなのだ。

主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。

本日の二冊

正月に真澄のあらばしりをちびちび飲りながら楽しんだ二冊。

ファイル 671-1.jpgまずは、ここにお立ち寄り下さるオジサン・オバサンたち、「チョリ~ッス!」って知ってます?「加湿器」に「空気清浄機」の意味は?「メタリスト」、「ヤカリスト」、「らいがん」、さらに「しゃみ~す」・・・と。もうひとつ「モナる・ユダる・リチる」(これらは簡単か・・・)。これらはみな「ギャルサー」などの渋谷に生息する若者のコトバで、「渋谷語」と言われるもの。その辞典が『渋谷語事☆典2008』。いや~、実にオモシロイ。このようなコトバを生み出す感性が実にミズイのだ(これはDr.Luke語)。まあ、私の場合は彼女たちと会話する必要性もあって研究しているわけだが、オジサン・オバサンたちも読むだけで楽しめますね。お正月もそろそろ終わりですが、時間がある方はまったりとどうぞ。

ファイル 671-2.jpg二冊目は『禅と武士道-柳生宗矩から山岡鉄舟まで-』。禅の歴史はお釈迦さまに始まり、唐時代に禅として一応の完成を見、今日まで営々と続くわけだが、鎌倉時代に禅はあらゆる分野で花開く。すなわち剣道、花道、茶道、画道・・・と。ある意味、唐代の野生的な禅が日本的に繊細なあり方へと昇華されていくわけだが(この辺は鈴木大拙の『日本的霊性』に詳しい)、特に武士たちは絶えず死と直面し、死と生を超える生き方を模索して、禅に行き着く。宮本武蔵から柳生宗矩まで、彼らは剣禅一如を目指した。その究極が前にも紹介した柳生但馬守のとどまらぬ心である。何にも執着せず、絶えずさらさらと流れている心。死と生と言う二元的世界ではなく、死の時は死だけ、生の時は生だけと言う道元の『正法眼蔵』の「生死」に説かれている生き方である。

「寒暑到来、如何が回避せん」と問われて「寒時は闍梨を寒殺し、熱時は闍梨を熱殺す」。寒さには寒さになり切り、熱さには熱さになり切る。すなわち熱いとか寒いという分別を超えた世界に生きること。ブラザー・ローレンスが言うとおり、苦も楽も同じものとなる世界。これが「無」である。そして生と死を超えるのは「大死一番、絶後再蘇」。己を退けた時(=死)、復活があるのだ。そもそもこの世界に寒いとか熱いとか、楽とか苦とかはない。それは己が勝手に作り出しているだけ。この自己が生み出す価値判断の世界に、ぶつぶつと生きているのが人間なのだ。そのぶつぶつ言う己を離れよ、そうすればいのちのままに自由に生きるであろう。

自分を縛っているのは己自身と知った人は幸いだ。かくして禅者は「水月道場に坐して、空華の万行を修す」のだ。これを西田幾多郎は「わがこころ/深き底あり/よろこびもうれひの波も/とどかじと思ふ」と詠んだ。実は十字架はまさにこの己を対処してくれるのだが、己を生かさんとする現代のいわゆるキリスト教徒にはほとんど届かない世界ではある。

と、書き出すとキリがなくなるので、今晩はこの辺にて、バッチャ~ッス!

本日の二冊

ファイル 665-1.jpgジャズ批評2009.1月号』。「最新ジャズ・ヴォーカル読本」とあるように、ヴォーカリストのディレクトリ。これは重宝する。

ファイル 665-2.jpg二冊目は元MI6諜報員でクリスチャンのジョン・コールマン博士の『コールマン博士は知っていた』。彼はすでに現在の世界の有様を予測し、警鐘を鳴らしてきたが、妄想的陰謀論者のレッテルを貼られて、社会生活と生命を脅かされてきた。が、彼はあくまでも語り続けたが、このような本が出版されるのはなんと日本だけ。他国ではいわゆる禁書とされ、出版すら妨害される(上のリンク参照)。真実を語る者に対する彼等の策は、クリスチャン・トゥデイの山谷少佐、ローカルチャーチの私に対してなされている事を見れば明らかであろう。

しかしながら、彼の説は妄想か否かを問う段階を過ぎ、現実がすべてを証明していることを認めるべきであろう。特にナイーブ(原義的意味で)なニッポンキリスト教徒たち、真実に目をつむるのはもうやめるべき時であろう。今年の最後のメッセージでも語ったが2009年は社会も教界もさらなる混乱に見舞われる。かくしてまことに主の栄光を求める者と自分の栄光を求める者が仕分けされるであろう。今年はまだまだ序章に過ぎないのだ。

参考:同氏が1999年に書いていた警鐘を紹介しておきます(この崩壊を2007年としていますが・・・):

次に起こる大暴落の破壊力は1929年の大暴落の10倍も大きく、恐慌が起こって恐怖の波が世界中に広がるだろう。それはなぜか?現在のアメリカ経済の規模が1929年当時より10倍も大きく、平均株価が10倍も高いからである。

いったい誰がリーマンやビッグ3の破綻、トヨタの赤字転落を予想し得たでしょう。黙示録にあるように、"バビロン"はまさに一夜にして崩壊したのです。この辺りは今年の1月から開始した私のメッセージの「時を見る目シリーズ」をご参照下さい(バビロンについて語っています)。私は年初から今年のキーワードは「混乱」だと言ってきました。このシリーズと同期するかのように経済破綻が起きてしまったことは驚きでした。

本日の一冊

ファイル 660-1.jpg日本人とユダヤ人(注)で一世を風靡したイザヤ・ベン・ダサンこと山本七平氏の『論語の読み方』。古典なき世界が今のニッポン。アメリカの思想暴力によってかき回されるだけの現代。ここでもキリスト教神学の幼稚さを指摘しているが、やはり東洋知ははるかに深い。内村鑑三とも間接的に関係があることも書いたが、彼も論語を愛読した。BC500年代にこのような思想があったのだ。一億総白痴化と大宅荘一氏は予言したが、古典なきギョウカイの有様は、今日のニッポンキリスト教を見ても分かるだろう。

(注)本作品については日本脱カルト協会会長の浅見定雄氏が『にせユダヤ人と日本人』と題する書で痛烈な批判を加えている。

本日の一冊

ファイル 643-1.jpg異才の碩学小室直樹氏の『日本人のための宗教原論』。彼いわく「宗教とは恐ろしいものと知れ」。キリスト教は「予定論」、仏教は「空」、儒教は「官僚」、そしてイスラム教は「宗教の手本」と評し、ニケア信条、ペラギウス論争、カトリックの腐敗の歴史、ルターの宗教改革など、キリスト教神学もかなり正確に網羅している。彼のキリスト教理解はややカルヴァン神学に傾いているが、その彼の言葉で言えば、中世のカトリックの腐敗の本質は「信徒に祈祷書を読ませ、讃美歌を歌わせるが、摩訶不思議なことに聖書を読ませることをしない。ここにキリスト教の正体を垣間見ることができる」だ。けだし名言だ。

そしてこれが実にカトリックだけではないこと、今日のいわゆるキリスト教すべからく的問題なのだ。あの油塗りの器やこのアメリカの先生の教え、あるいはこの神学者の理論は知っていても、なんと聖書の御言葉を知らない。しばしば私のメッセージを聞いて初めてその御言葉の存在を知ったと言う感想を私は何度も聞いている。私の定義するキリスト教とキリストご自身の相違がお分かりいただけるでしょうか?私はキリスト教徒などではないのだ。小室氏もイエス自身とキリスト教が別物であることに気がついている!?宗教の本質は恐ろしいものと知れ-小室氏はその博識と知性からみて、ある意味で異能の天才かもしれない。

なお、仏教の理解などについても感想があるが、それはここではオミット。またの機会に。

本日の二冊

ファイル 640-1.jpg
ウェブスター・タープレイの『オバマ-危険な正体』。私がオバマ大統領誕生についていだくに至った懸念の根拠は、彼の熱狂的支持者たちの目だった。彼らの目は逝っていた!私は精神保健学の講義でも、タレントが結婚すると、何年もつかを予測する。たいていは当たる。私がどこを見ているか、それは目である。多くの場合、目が宙に浮いているのだ。
ファイル 640-3.jpg

これは大脳辺縁系の海馬の先端にある偏桃核が興奮し、それを前頭前野が制御し切れていない兆候だ。つまり「アバタもエクボ」状態。かくして真実を見ることができず、脳内の幻想に恋する状態となる。これがオバマにも起きている。「オバマもエクボ」なのだ。それが醒めるときは・・・(言わない)

本書でもオバマ型ファシズム(ポストモダン・ファシズム)の台頭を予測する。ファシズムの本質はトップダウンの独裁社会ではなく、むしろ誕生期には大衆の不安や欲求不満を吸い上げ、ボトムアップの形で台頭するのだ。つまりファシズムとは、大衆が自ら作り上げるものなのだ。彼らの内的願望を投影されて、それを実現に至らせるかのようなパフォーマンスのできるキャラクターが、たまたま独裁者のロールを果たす。本来彼も大衆の集合的無意識が作り上げた幻想なのだ。大衆は自ら作り上げたその幻想を「メシア」として"恋"をする。そして自分の不安や欲求不満に彩られた現状から脱するために、喜んで彼の束縛を受けるのだ。ここで一種の共依存的共同体が成立する。つまりはロールプレイングゲーム。ナチの台頭もまさにこのメカニズムによった。このBlogでも

表に見える現象はアメリカ国民が"CHANGE"を選んだと言うわけだが、私的にはメセージでも語ったが、ソドム&エジプト化の方向へと大きな一歩を踏み出した印象を持つ次第。まあ、時が明らかにするであろうが、どうも社会においてもキリスト教界においても、時代の霊は主の十字架を否定したいようだ。十字架抜きの「すべては赦され、愛され、何でもOK、われらはひとつ、YES, WE CAN!」と言う霊的フェイクの時代が到来したと感じている。

とすでに書いた()。この数年、私は「現代、私たちは巨大なフェイクを見せられている」と書いているが、オバマはその最終段階に選ばれた器であるようだ。そしてニッポンでも派遣切り、ソニーですら16,000人のリストラ。近々職も住居も失って30,000人が路頭に迷う。それはまだ序の口。本書によれば、「ファシズムとは一般の意思を体現する指導者」なのだ。愚かにしてナイーヴな大衆が「メシア」を待ち望む下地ができつつある。小泉氏もその一人だった。時代はいつか来た道。そのキーワードは「ソドム&エジプト化」、すなわち「ポストモダン・ファシズム」である。

 * * *

ファイル 640-2.jpg
二冊目は五木寛之の恋愛小説『スペインの墓標』。小作品がいくつか収録されている。五木の恋愛小説は、前にも書いたが、さらっとした無機質な、そして何とも言えない世界が展開するのが魅力。どう表現してよいか分からないが、とにかくその世界に惹きつけられ、憧れるのだ。自分が主人公として代償満足を得るのかも知れない。

私たちが人生で遭遇する男と女の関係は、そのシチュエーションも展開もきわめて限定的であり、むしろひとつの道を選ぶことは、他の無数の道を捨てることなのだ。この捨てられた無数の道は私たちの無意識に沈殿し、絶えず代償満足を求めている。上のファシズムの成立の病理とも似ている。五木はこの選ばれなかった忘れ去られている無数の道に生命を吹き込み、ヴィヴィドに描き、その私が投影する対象である登場人物により、実に危険で魅力的な恋愛過程をシミュレーションさせてくれるわけ。これも林住期のとりあえずは無害なアソビなのかも知れない^^

面白い雑誌発見

ファイル 638-1.jpg電車の吊広告で見つけ、早速購入。月刊『Will』。元『週刊文春』編集長にして、「ナチのガス室はなかった」とする記事を掲載したがために、ユダヤ人権団体の逆鱗に触れて廃刊となった『マルコポーロ』編集長だった花田紀凱氏が編集長だとか。問題の田母神論文も本人の独占手記も、さらに支援者たち、京大教授中西輝政氏、上智大学名誉教授渡辺昇一氏、民主党の西村眞悟氏、「新しい歴史教科書を作る会」の西尾幹二氏、と言った面々が執筆している。田母神氏論文を「ぞっとする」と揶揄した朝日新聞の方が北朝鮮的でぞっとすると批判する中西氏・・・。それぞれの論客の主張にけっこう同意しているDr.Lukeを見出すことができた。

田母神氏も前にここでも紹介したアメリカによるニッポンのMC策"War Guilt Infomartion Program"について触れていたのが興味深かった。加藤周一氏の指摘どおり、実にわが国民は羊のごとくナイーブ(注)なのだ。アメリカからの自立、果たしてなし得るか。精神病理的に診ると、すでに3度も去勢されたニッポンには到底無理である、と結論せざるを得ないのだが。もし精神性を捨てても、なお経済的に生きたいのであれば、アメリッポンとなっているしか手はないであろう。

【注】naive
-[形]

1 (特に若いために)世間知らずの; 単純[素朴]な; 純真[うぶ]な; だまされやすい.
2 【P】 〔+of+【(代)名】 (+to do) / +to do〕〈…するとは〉〔人は〕単純で; 〈…するとは〉〈人は〉純真で
It's naive of you [you’re naive] to trust everyone. だれでも信用するとは君もうぶだ.
Ⅱ (特定の分野に)未経験な; 先入的知識のない.

1 〈考えなど〉単純な, 甘い, 素朴な.
2 〔美〕 素朴な, 原始的な.

本日の一冊

ファイル 631-2.jpg"TIME"誌に面白い記事があった。ハリウッドの中国系アクションスターのジェット・リーが自身の真の召命を見出すまでの人生をレポしている。2002年の『ヒーロー』でアクションスターとして不動の地位を確立したリーは、現在はカメラに背を向けて、フィランソロフィー(慈善事業)にすべてを捧げている。すでに11歳のときにニクソンと会った際、ニクソンが「自分のボディガードを頼むよ」とからかったところ、彼は「僕は個人を守る気はない。10億の中国の民を守るのだ」と真剣に答えたとのエピソードがある。

彼は役者としては世界的にも登りつめたわけだが、その中で何か満たされないものを感じたようだ。34歳のとき中国映画界の頂上に登りつめ、世界へと羽ばたこうとしている時に、「自分は人生を考えるようになった。人々が求めるものは何か。カネか、権力か、名声か。それともTIME誌に記事になることか」と。そして20人以上の仏教の導師にたずねて回り、ついに仏教の真髄を見出した。「人は自分自身のことを人生の優先順位の下位におけばおくほど、ますます幸福になれるということが仏教の教えだ」とリーは言う。かくして彼は先の四川の震災でも大いなる働きをなした。

ファイル 631-1.jpg今読んでいる本に五木寛之の『人間の覚悟』(新潮新書)がある(私はつねに4,5冊を同時進行で読んでいる)。この中で彼は「個人の人生も登りの時期と下りの時期がある。登りの時期は高度成長期の日本であり、それは一種の躁状態だったが、今は社会も壊れ地獄の門が開いている時期であり、欝の時代である。個人の人生も学生期(0-25)、家住期(25-50)、林住期(50-75)、遊行期(75-100)と分ければ、前者の二期は登りの時期、後者二期は下りの時期である。ここで覚悟が必要となる」との主旨を述べている。

そして他力の風に任せることの必要性と、下りの時代には人々に仕えることの重要性を唱えている。古の道元、栄西、法然、親鸞、日蓮などはみな仏教界において登る道を放擲し、比叡山を降りた。彼らはあえて野に下る道を選んだのだ。対して山に残った者たちにはあまり・・・だったのだ。かくして人間の真骨頂は、「下り」において明らかとなると言うわけだ。しかるニッポンキリスト教では上昇志向と言うか、高められたい人々が多いようではあるが・・・。

ちなみに五木氏自身も人生の節目節目で鬱病を患っているようだが、すでに齢70を超えて、依然として人生を追求する気力に敬服する次第。頭の中で彼の博識が空回りしている感じだ。これはかなり辛いだろうなあ、と。しばしば鬱病の人は粘着性が高い。私などはすでに主に任せるのみで、そのような苦悩する気力もあまりないのだ(微笑)。

この二人の思想について、やはり東洋人だなと感じると共に、いわゆる思想や哲学、あるいは宗教と言われるものは、実体にして真理なる方の影なのだ、と再確認する。「真理とは何か」と、イエスを裁いたピラトは、イエスに尋ねたが、自分の裁きに着かれたその方がまさに真理そのものだったのだ。真理とはひとりのパースンであり、いのちの充満なる存在なのだ。その方は究極までに自分を低くされ、自分を放棄され、自分を捨てられ、自分を裂いて、自分を他人のいのちとして提供された。この死ぬことによる贖いと復活による救い(いのちの分け与え)の過程が真理なる方のなされたすべてであったのだ。

かくしてジェット・リーも五木寛之もまさにその方の影を唱え、また実践しているわけだ。『葉隠』に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とある。武士は常に死と隣り合わせで生きていた。イエスはまさにその実体だったのだ。五木氏は「日本人はキリスト教の価値観で構成された洋魂を持ち得ず、今は外面の猿真似だけになっている」と指摘している。彼はやはりイエスとキリスト教を同一視してしまっているのだ。かなり聖書も読み込んでいるようだが、キリスト教のフィルターを通して読まれているようだ。そこで「21世紀は一神教の時代ではなく、多神教の時代である」と言われる。しかしそのフィルターを外すならば、イエスこそまことの禅者にして仏教徒であり、まことの武士であり、まことのジェット・リーであり、最も東洋的な生とを死を経たお方と言えるのだ。五木寛之氏の理想的生き方と死に方をされたお方が、実はイエスその人であった。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

本日の一冊

ファイル 622-1.jpg続けて五木寛之の『レッスン』。紹介文を転載しておこう:

クルマ、ゴルフ、ファッション、レストラン、セックス、マナー…そして人生と死について――あのひとはぼくの最高の教師だった。愛の名作、待望の改訂新版。

本作品は92年に光文社から出たようだが、今回幻冬社から再刊。映画化されている。男と女のあり方を描く小説家は谷崎潤一郎から渡辺淳一まで、実に幅広いのだが、五木寛之の作品は男と女を描きつつも、ある種の無機質な印象がある。渡辺淳一などはしつこくてやや辟易なのだが、五木の作品は男女のあり方・関わり方をサラッと描きつつ、人生の不条理や葛藤を描くように見える。男女を描きつつも、その筆の客観的かつ冷徹なタッチが、どうもDr.Lukeの嗜好とマッチするようだ。

そもそも私たちは人と人の出会いのネットワークの中で生きている、否、生かされているわけで、それは予測できず、また僅かな初期値の違いが大いなる結末の差を生むと言う意味である種の「カオス」であり、「複雑系」と言える。もしそこに神の摂理を信じていなければ、とてもではないが、自分の人生をそのネットワークに委ねることなどは怖くてできない。人と人の邂逅-げに絶妙にして不可思議なもの。

ちなみにこの年齢になると、人間関係に飲み込まれることはほとんどないかも知れない。どこか醒めているメタの自分がロールプレイングをしている当事者の自分を見ているのだ。だから格好つけることもなく、無様を晒すこともできるのかもしれない。

本日の二冊

ファイル 620-1.jpg政治評論家森田実氏の『崩壊前夜日本の危機』。フリードマンの提唱した市場至上主義の非情さと新自由主義の非人間性をかねてより警鐘を鳴らしていた同氏。私も99年にその過酷さを指摘し、日本人はそれに耐え得ないであろうと書いている(→こちら)。彼は06年の小泉氏の総選挙のやり方に異議を唱えたところ、テレビからパージされたとのこと。当時のマスコミ各社に対する政治的圧力は想像以上のものがあったようだ。小泉氏はニッポンを壊したのだ。そして今般、その結果を身に背負わされて歪んだ"義憤"にかられたコイズミが、またニッポンを壊した。かくして悲劇は連鎖する(ネット上で官僚に対する脅迫が多発しているようだ。いずれ大学教員などにも牙が向けられるかも知れない)。

例の「ミラーマン」と揶揄された植草一秀氏の冤罪性についても、私の内ではかなり確度が上昇し、ほぼ100%に至っている。植草氏には今後ともあくまでも真実を語り続けて欲しい。またそのことによって同氏は自らの潔白を証明することができると考える。ここ数日、同氏はマスコミの偏向的小沢叩きについて論じておられるし、ここでも前に紹介したが森田氏も小沢氏に対する期待と共に、民主党に対する5つの提言をしている。森田氏は日本再生の道はアメリカからの自立と「道徳」であると言う。これはここでも前に書いたが、二宮尊徳の道である。しかるに、現状は、前に「希望的観測をこめて、麻生氏はけっこうやってくれるかもしれない。が、前々から言っているとおり、私的には小沢氏に一度はやらせてみたい気持ちも抑え難しだ」と書いたが、やはりどうも麻生氏は「希望的観測」に終りそうだ。だいたいアキバでオタクのご機嫌伺いをしているようでは・・・ね。

ファイル 620-2.jpg二冊目は、ガラっと雰囲気を変えて、五木寛之の『燃える秋』。先に紹介した『凍河』に続く1977年の作品。紹介文を転載しておくにとどめよう:

祇園祭の宵山の雑踏で、岸田と出逢った亜希。初老の画廊主の恋人がいながら、亜希は岸田に惹かれてゆく。暗い性の深淵か、真摯で穏やかな結婚生活か。どちらからも自由でいることを選び、亜希はイランへと旅だった。

女性が自立することの意味を二つの恋愛に引き裂かれた亜季の生き方を通して描く作品。この頃の五木寛之の作品は何故か好きなのだ。若い頃に読んだ印象とまたずいぶんと違って読める。しばらく五木寛之の作品を辿ってみたい。

本日の一冊

ファイル 616-1.jpg岩波明著『狂気の偽装-精神科医の臨床報告-』(新潮社)。この人の本『狂気の隣人』はすでに一冊紹介してある(→こちら)。精神医療の臨床の現場が今おかしくなりつつあることを臨場感を持って報告している。最近では「アダルト・チルドレン」、「トラウマ」、「PTSD」などの専門用語を乱用する傾向があり、同時に患者の方も自らの心の病や心の傷を誇らしげに他人に語ることさえも一般化しつつある。これにはインターネットの普及が大きく関連している。彼の患者の何と半数以上が自分のサイトを開いて、自分の病気振りを公開していたとのこと。かくしてネットではビョウキが当たり前の世界になりつつあるわけ。しかし岩波氏の言葉で言えば、所詮「彼らは病気なのだ」。

同氏は、昨今の、おかしな人々、狂気を偽装する人々を次の10パタンに分けている:

 ・偽りのPTSD
 ・トラウマ狂い
 ・うつ病の黒い犬
 ・恐るべき子供たち
 ・オン・ザ・ボーダー
 ・自傷系・自殺系
 ・殺人精神病
 ・アルファ系衛星の氏族たち
 ・物質関連障害
 ・困った人々・故障した脳

私もカナリ以前から「ヒーリング・ブームの落とし穴」と警鐘を発し、同時に「律法は罪の力、ネットは病者の力」と指摘している。特にニッポンキリスト教では「真綿ぐるみ」で病者を増長させる傾向が強い。最近でもある研究会の会誌に、欝病者がいわゆる「福音主義」の問題を告発する記事をモノしていた。彼らを基準にして福音主義の問題を論じてどうするのって、私などは思う次第だが、これがニッポンキリスト教の悲惨な現状である。

ニッポン社会もニッポンキリスト教も、お互いに合せ鏡になっており、その病理を互いに反映しつつ、倒錯が進行していることは間違いない。おそらく今後ニッポンキリスト教はその病理性をますます露わにし、悲惨な病状を呈することであろう。社会とシンクロしつつ。本書は今後の10年、20年を占うであろう判断資料を提供してくれる。

本日の三冊

ファイル 605-1.jpgドナ・ローゼンタール著『イスラエル人とは何か-ユダヤ人を含み越える真実-』(徳間書店)。イスラエルとエクレシアの問題は、「置換神学」云々と言うレベルから、感情論まで、ニッポンキリスト教でも実にかまびすしい。しばしばエキセントリックな議論に落ちるのだが(病理の共鳴現象)、私の見解はこちらに示してある。地的イスラエルの選びは「経綸的選び」、エクレシアの選びは「本質的選び」であって、選びの次元が異なる。よって私は「置換神学」を唱えるのではなく、「元から神学」と称しているわけ。・・・と、まあ、こういった議論は置いておいて、現在の地的イスラエルの実情をきわめて詳細にレポしているのが本書。なんとイスラエルではセックス革命が進行中で、ゲイも続々とか・・・。資料として使える。

ファイル 605-2.jpg二冊目は養老猛司先生と池田清彦氏の対談集『正義で地球は救えない』(新潮社)。いわゆる環境問題もCO2排出削減や排出権マーケット云々といった話で、これもまたヒステリックに状況だが、実はCO2問題は科学的根拠が薄弱であると。単なる「正義」の錦を振りかざしてもなんら本質的対策にならないことを力説する。元同僚の副島氏も同様の本を出しているが、どうもこれも今回の田母神論文問題と同じ病理によると思われる。つまり一種のMCによる大衆を覆う空気の一元化現象。ニッポン人がある方向へと雪崩を打つことは実に怖いのだ。

かくしてニッポンキリスト教界のイスラエル問題議論も、ニッポン社会の環境問題議論も同じ臭いを醸している。こういった場合、私のとるスタンスとは、大衆の流れる方向をあえて避けること。養老先生も「世の中が変なのか、私が変なのかと問えば、そりゃ変なのは私に決まっている。世間は多数で、私はひとりだからである。若いときからそう思ってきた」とおっしゃっているとおり、私もまったく同感。Dr.Luke的には『正しい神学で人は救えない』、「ニッポンキリスト教が変なのか、私が変なのかと問えば、そりゃ変なのは私に決まっている。ニッポンキリスト教界は多数で、私はひとりだからである。若いときからそう思ってきた」だろうか(笑)。「日本民族総福音化なんとか」などと聞くと、怯えが走るのだ。

ファイル 605-3.jpg三冊目は五木寛之の『凍河』。これ74-75年の作品で、私も高校と浪人時代に読んで、かなり好きな恋愛小説なのだ。最近再刊されたので、ふと懐かしくて買ってしまった。Dr.Lukeが恋愛物を?と思われる向きもあろうかと思うが、ハーレクイン的な物はご遠慮ですが、けっこう実は好きでして・・・。本書は精神科医と精神を病んだ女性の恋愛と、深刻な過去の罪をいだく病院長の人生を絡めた作品。私の経験を投影できるのだ。

五木寛之は高校時代に放送部のラジオ演劇で『蒼ざめた馬を見よ』の老人役を演じてから、それなりに親しんでいるわけ。最近は先に紹介した『林住期』はまだしも、『神の発見』とか『霊の発見』となると、ややスピリチュアルであるが、小説はけっこう楽しめる。「3人のパブロが死んだ」のコピーが流行った『戒厳令の夜』などは、クーデターの状況が実にリアルで、何とも言えない臨場感を味わったものだ。これも再読リストにあるが・・・。(あと、今はズンドー化したが、あの頃はクビレがすごかった松坂慶子が主演した『愛の水中花』とかも・・・^^)

かくして濫読の秋の夜は更けるわけ。

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