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荒野に宴をもうけ

ファイル 3738-1.jpg


ウォッチマン・ニーの黙想


 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」-創世記21:6

 神は不可能を完全に支配される者として現れ、サラの笑いは歓喜の驚きとなりました。その以前に笑ったのは、アブラハムでした(17章17節)。しかし彼の笑いは不信感の笑いでした。ただ、それは神に向けられたものではなく、身を低くして服するべきそのお方自身に対するものではなく、自分自身に向けたものでした。それは神を侮るものではなく、完全に不可能な事柄に対する感覚だったのです。
 過去の彼の信仰はどこにあったのでしょうか?それは真の信仰であったかもしれませんが、なお、ある種の「現実主義」、すなわち自分を頼りとするたいまつの火が混入していました(訳注:イザヤ書50章11節参照)。それは、あえて言えば、神・プラス・アブラハムの信仰でした。そして、今や、ついに「アブラハム」の寄与分は完全に終焉を迎えたのです。信じるべきは神御自身以外に残されていないのです。ここに至って、彼の信仰は新しい性質を帯びました。いったい好ましい状況は信仰に役立つことはなく、むしろしばしば信仰を阻害します。状況が安楽な時は信仰は困難なのです。状況が困難であれば信仰は容易になります。ついに状況が不可能な段階に陥るならば、荒涼たる絶望からの信仰は、ただ神のみを頼りとしつつ、ついには神の約束をしてあの歓びの驚きへと実現させるのです。

この夏のチャレンジ(その1)

先の『大秦帝国』では、残念ながら始皇帝まではカバーしていない。法家思想による商鞅の変法の英雄譚だ。今で言う改革派として、既得権益者たちと対立しつつ法治国家の基礎を築いていく。恋愛ドラマと政治的葛藤、そして最期は英雄的な死。仕えた孝公の死後、後ろ盾を失った彼は、既得権益者たちにより酷刑である車裂きに処される*1。かくして中國最初の統一国家秦の基礎がなるのだ。

ファイル 3740-1.jpg

で、今回は、秦を飛び越えて一挙に漢。つまり前漢の武帝のドラマ『漢武大帝(全58話)』。司馬遷の『史記』に基づいた作品。漢の武帝(前156年~前87年)は漢王朝七代皇帝として、漢を全盛時代に導いた。16歳で即位、その在位期間は55年。北では匈奴の侵入など、外敵との緊張もあったが、この時代の漢は全盛期を誇った。儒教を国教化し、楽府を興し、神仙世界に憧れた。次の詩は武帝44歳の時の作品で、李白にも影響を与えた。楚辞の流れを汲む。最後の二句にソロモンを彷彿とする。

秋風辞
秋風起って 白雲飛び
草木黄落して 雁南に歸る
蘭に秀有り 菊に芳有り
佳人を懷うて 忘るる能はず
樓船を泛べて 汾河を濟り
中流に橫たはりて 素波を揚ぐ
簫鼓鳴りて 棹歌を發す
歡樂極りて 哀情多し
少壯幾時ぞ 老いを奈何せん

*1:実際は逃亡の果て、秦の討伐軍により殺され、その後死体を車裂きにされたようだ。

逐涼-一石

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(七絶・平起式・上平声一東韻)

祝融 扇を揮(ふる)ひて 熾(さか)んに烘(た)くが如し
濕暑 無風 炎帝の宮
坐(そぞ)ろ冷(ひやや)かにして 漿(しょう)寒たり 深樹の下
苔逕(たいけい)に涼を逐(お)う 茂林(ぼうりん)の中

キリスト教は崩壊する

Salt氏の"Chapter29"が配信されてきた。いや、面白い。テーマは「成熟を目指して」であるが、キリスト教のあほらしさが喝破されている。むしろキリスト教が成長を妨げるのだ。ぜひお聴き下さい。iTunesがあればPodcastされます。

ここでも繰り返し指摘していること、いのちなるイエス・キリスト御自身と歴史の流れの中で形成されてきたキリスト教、i.e.,神学をはじめ、教団・思想・文化・習慣・価値観・儀式・実行などなど・・・は似て非なるものである。むしろキリスト教の体系そのものがいのちなるキリストに対立し、その流れを阻害していると言える。福音のもっとも狡猾な敵はキリスト教なのだ。

再建主義ではプレミレ・ディスペンセイション主義はイルミナティによるキリスト教の破壊を目論む陰謀であり、ロスチャイルドなどを通して聖書翻訳の底本なども改ざんされ、今日キリスト教は堕落していると説く。なるほど現状はそのとおりだが、すべてをイルミナティで説明し得るのか、私は大いに疑問である。ダービーやスコーフィールドがキリスト教の破壊を目論んでいるとは思えないし、現在のハル・リンゼイやティム・ラヘイがイルミナティの走狗として働いているとも思えない。もちろん私もイルミナティのメンバーであるはずもない プレミレ・ディスペンセイションが問題なのではないのだ。そもそもキリスト教そのものが問題なのだ。ちょうど地上にイエスがおられたとき、彼に対立したのがユダヤ教であったように、今日はキリスト教なのだ。

かくして私はキリスト教をエクソダスせよ、とこれまで繰り返し語ってきたが、すでにその時期は過ぎた。今後キリスト教は崩壊する(否、すでにしている)と同時に、エクレシア、すなわちキリストの復活のいのちを吹き込まれた有機体(John 20:22)は、地上の物理的あり方としては地下教会化する。そもそもエクレシアはキリストの奥義であり(Eph 5:32)、人間的な組織や制度などによるものではない。それらのものは確実に崩壊する/している。要するに奥義とは隠されているもの。そう簡単に明らかにされるものではない。Salt氏の言われるとおり、「キリスト教-このくだらないもの・見苦しいもの」なのだ。奥義は奥義だ。神の書いたことは書かれたとおりにしておくこと。これが人の分。真のエクレシアの在り処は神がご存知である。これで十分だ。キリスト教の改革だとか再建だとか、人の手が入れば入るほどそれは汚される。神はこの点において人の手の業などは必要とされない。まことに-

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:27-29

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。-Ps 127:1

Salt氏が指摘されている通り、エクレシアとは死と復活の原則に従って、贖われて新しい創造とされた存在であり、宗教組織などとは何ら関わりがない。この復活の領域・新創造の領域において生きる存在がクリスチャンなのだ。いわゆる「清く・正しく・貧しく」などとは何ら関わりがない。

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。-Gal 6:15-16

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