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This is 日本

ちょっと感動した、この速さ。美しさ。これこそまさに日本だ*1

*1:もうここの読者はお分かりと思うが、私はニッポンと日本を意識的に区別して書いている。

見え過ぎた三島由紀夫

ファイル 4014-1.jpeg

彼のこれらの言葉は現在を正確に射抜いている・・・

・世の中って、真面目にしたことは大抵失敗するし、不真面目にしたことはうまく行く。

・未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがえのない現在をして、すべて革命への過程に化せしめる。

・崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力がある。

・守るという行為には、かくて必ず危険がつきまとい、自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。

・言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に堕する。

・日本で言論と称されているものは、あれは暴力。

・人間はどうせダメだと思うと、非常に理想が観念的になるわな。どうせダメだと思う人間の思っているユートピアは恐ろしいよ。

・生きるということは、自己が美しいものになることを否定することだ。

平和と退屈

金曜日には花を買って主題歌

今朝の日経の「春秋」欄がちょうど昨日のエントリーとリンクしている。堤氏の死去についてのエッセイだが、なるほどだ。

春秋 2013/11/29付

テレビドラマ「金曜日の妻たちへ」のシリーズが始まったのは1983年だった。ちょうど30年前になる。視聴者をもの憂くおしゃれな空気に浸らせた、この不倫物語は大ヒットした。関川夏央さんによれば、戦後40年の「平和と退屈」の所産である(「家族の昭和」)。

登場する男女はニュータウンに住み、よくホームパーティーを開く。庭でバーベキューをやる。ワインを飲む。社会が70年代まで引きずっていた貧乏が消えたのだ。当時の西武百貨店のコピー「おいしい生活」ほど、そういう時代の感性を表すものはない。それを先導したセゾングループ創業者、堤清二さんが亡くなった。

70年代に引きずっていた貧乏が消え、80年代バブルへと突っ込む直前のドラマが「金曜日の妻たちへ」シリーズだ。これについては何度も触れているので、そろそろ食傷気味とも思うので繰り返さないが、「平和と退屈」の所産であることにはまことに同意だ。家族と友人との楽しい時間をエンジョイするあのドラマの世界は私も大いに憧れたものだ。そしてバブル。実に楽しかった。所詮幻想ではあるが、幻想もそれなりに人生を生き抜くモチベーションとなる。

そして失われた10年、20年を経て現在。いかがだろう、やはり三島の言う「生の倦怠」が蔓延し、しかもそれがバラ色の夢、「おいしい生活」的な幻想ではなく、きわめて疲弊し、荒んだ形で社会を包んでいる。そうなのだ、貧乏は消えたが、貧困が蔓延る時代となった。再び食うにも困る人々が220万人(生保受給者)も出現している。それは戦後すぐの時代に匹敵するか、下手をすると超える。現在、株価が好調。円も安い方に触れている。雰囲気的には若い子達もバブルファッションで、なんとなくバブル直前の感じも漂うが、社会の根底が変質してしまっていると思えるのだ。

あののどかだった時代は再びは来ない。これからはむしろサバイバルゲーム化するだろう。世の中は「籠に乗る人・担ぐ人・そのまたわらじを作る人」からなるが、昨今では「そのまたワラを集める人」が出現しているのだ。ミレーの「落穂拾い」はルツ記に根拠があるが、これは神の憐れみの実に美しい物語だ。しかし神を排除した現代は、落穂ではなく、実を抜かれたワラを集めて生業とせざるを得ない人々がいる。働くことが建設的かつ喜びではなく、自分が搾取されることと引き換えにその日の糧を得るだけの労苦となる。つまり身を切り売りするだけなのだ。まことにサタンの配下にあるこの世の究極の姿が今後展開する。否、すでにしている。

さて、11月ももう終盤、そして金曜日。本日はどう過ごそうか・・・

追記:田中宇氏の国際ニュースから。これはニッポンの近未来の姿でもある。

嗚呼、猪瀬知事・・・

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今般の猪瀬知事の件、つい87年の伊丹監督の『マルサの女』を思い出した。権藤商事の社長が儲かり過ぎたために、関東蜷川組の蜷川組長に五千万を借りたことにする*1。マルサの女はそれを出処不明金として追求、組長に証拠の金銭消費貸借証書を見せるように迫る。すると彼はこう言うのだった、「そんなものはない!ないと言ったらない!おい、テメエ!それともなにかい、友達に5千円貸したら、いちいちその金銭消費貸借証書とやらを取るのかい。バカにするんじゃねえ!オレは関東蜷川組の蜷川だ。オレたちゃ、信義則でやってるんだ、信義則でっ!!!」。この"名セリフ"はほぼそのまま再現できるほどに覚えている*2。逆に今回の猪瀬氏の借用書は五千円レベルのものだ・・・。

ついでに、今は昔、国家議員も武人だった頃、三木武吉に妾が四人いると非難された際、彼は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。・・・なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。・・・ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」との名言で議場を沸かせた。対して猪瀬さん、元愛人に「この小男はぶちこむべき!」とダメ出しくらってしまった・・・。

前から言っているとおり、私は愛に満ち、優しく、カネに淡白だがメスの切れない里見タイプの外科医より、野心に富み、荒々しく、カネに汚いがメスの切れる財前タイプの外科医に切ってもらう。わがニッポンもニッポンキリスト教も、共にオメデタクも共同幻想を追いかけているのだ。政治家もこの幻想の中に閉じ込めれてしまっている。猪瀬氏も蜷川組長か三木武吉の爪の垢でも煎じて飲んだほうがよいだろう*3

参考:閉鎖社会の共同幻想に思う

*1:権藤さんは摘発された後、無邪気に遊ぶ子供たちを見て、つぶやくのだった。心は安らかな方がいい・・・。これも沁みるセリフだった。
*2:ちなみに、不肖Dr.Lukeも昨年の申告内容の誤りについて税務署からご指導を受けてしまった。もちろん言われたとおり修正申告して、素直にキチンとお払いしたが・・・。
*3:私が5,400万借りた時にはやたらメンドウな手続きと書類作成を必要としたものだ。私、実は猪瀬氏のファンなのだ。彼のメルマガ「MM日本国の研究」はずっと愛読していた。栄光の後に奈落があるものなのだなぁ・・・・。

日本の発見

提供精子による人工授精で誕生した人は、その事実を知った時、自分の存在が揺るぐように感じるらしい。自分はいったい誰なのか。そもそも人は、自分がどこから来てどこへ行くのか分からないままに、自分でコントロールできない誕生と死の間を生き抜く存在。元々不条理なのだ。が、少なくとも私たちには明確な両親がいる。しかし彼らには父親がいないのだ。自分は誰の子供なのか・・・?これは相当に深刻な苦悩であるようだ。

78年ころ、アレックス・ヘイリーの『ルーツ』が話題となった。黒人クンタ・キンテが自分のルーツを探す旅。現在の経綸において、肉にある私たちにはやはりルーツが必要なのだ。再建主義の富井氏をはじめとする一部のニッポンキリスト教の人々は、日本人がユダヤをルーツとしており、特に神道はユダヤ教の書き換えであるとする。新約では秦氏による伝道が古代日本になされており、いろいろな形で暗号として刻まれているいうのだ。アマテラスはイエスのことであるとか・・・・。私も宮とか寺は大好きであり、あの空間は実に心が落ち着く。三島が予言した空疎なニッポンにおいて、神的なルーツを欲する彼らの気持ちは痛いほど分かる。

・・・という話題は話題としておいても、私は古事記(712年)や日本書紀(720年)の世界に憧れを抱いている。要するにアノ世界は何なのだ。何を読者に告げようとしているのか。一説によると蘇我が打たれた時、すべての公文書を焼いてしまったと言われている。残るのは伝承。これがようやく8世紀にまとめられた。この間、いわゆる歴史的時系列としての事実あるいは事象は封印されてしまった。実に不思議なことである。

これらの文書を単なる神話として読めば、『指輪物語』のようなファンタジーとして十分楽しめる。しかし、解釈しようとするとたちまち何とも言えない茫漠たる気持ちに陥るのだ。これは一つの解を前提としている理系オツムにとっては耐えきれない。正直、ものすごく不安になる。一部の人が言うように、聖書の書き換えとしておければ、それはそれで安心もできるが、そこにハマりたくはないとも感じるのだ。そして三島があれほどに入れ込んだ天皇。これはいったい何?天皇なしの日本はあり得ないのか?つまり、国家=天皇?

ま、こういった問題意識を覚えるのは、やはり私が立派な日本人だからだろう。ルーツを知りたいのだ。窮極にはアダムとエバに行き着くわけだが、もっと近いところでルーツを見出したい。最近の私が古代史に憧れるのも多分この辺が動機になっていると思う。今年の冬は『三国志』だったので、年明けはローマ史を、同時に古事記・日本書紀の世界にハマってみたいと思っているのだ。

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といったことを思い巡らせていると、あるところで紹介されていたKITAROの映像とサウンドに惹かれた。タイトルは"Matsuri"。アマテラスが岩戸隠れした時に、外で踊り明かした場面を表現しているとか。なるほど身体が疼く。ディスコチックでもあるし、トランス系とも言える。何か自分の深いところにあるあの懐かしい感覚を呼び覚ましてくれるリズムだ。私の内なる日本の発見とでも言えるかもしれない。

思うに、今のニッポンキリスト教がこんな有様であるのは、もともと日本人は知性で神を知る人種ではないのに、西洋経由のキリスト教が文化や思想・哲学・習俗・儀式などとして入ってしまったことにあると考えている。そもそもパウロですら言っているではないか:

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。-1Cor 1:21

自然の(Gk.魂の)人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。-1Cor 2:14

このギョウカイはあたかも小学生がスリーピースでキメルかのような鹿鳴館外交の違和感をそのままに継承しているのだ。私のオツムは元々かなり左脳的理系頭脳ではあるが、しかし一方でディスコやトランス系が好きなのは、その左脳的束縛を解いてくれるからであろうと思う。海をボーっと眺めつつオツムをアイドリングすることや自家製の脳内ドラッグでトリップすることも大好きであるし、森や鳥の声に囲まれるのも大いなる喜びである。古事記・日本書紀の日本はどれほどに美しい世界であったろうか。そこに限りなく惹かれる自分がいるのだ。嗚呼、わが内なる日本よ、お前は何を求め、どこへ向かおうとしているのだろうか。

追記:富井氏のこの論は興味深い。クリップしておこう。

tomi 2013/11/16(土) 22:10
世界の希望は日本にある
(1)
次の流れは、これまでなぜか知られていなかったために、イスラエルと日本が関係しているなどと言うとトンデモ扱いされてきた。
すなわち、
イスラエル→スキタイ→夫余族→解夫婁(ヘブル)王→日本移住→天皇
北朝イスラエル人はアッシリアに捕囚されたが、スキタイ人が解放した。
スキタイ人は騎馬民族で、ヒッタイト人とも関係があり、モンゴル系の騎馬民族夫余族と混血し、両者がシルクロード一帯を東西に移動していたのは史実。
メソポタミアの文物の影響が日本に及ぶ可能性は十分にあるし、韓半島ではスキタイの遺物が多数発見されている。
高麗本記では、夫余族の王「解夫婁(ヘブル)」が東海の五穀のよく実る地「迦葉原(カバラ?)」に移住して東夫余国を作ったとある。
古墳時代の墓から馬具や馬の須恵器が多数出土していることから、天皇家の祖先は夫余族の辰王であるとは故江波東大教授の騎馬民族説。
仁徳天皇陵など古墳からリュトン(角杯)が出ればもう決定的だ。
実際、次の写真の4000年前のメソポタミアのリュトン(上)と出雲で出土した須恵器の装飾(中)が同じ「相撲する二者」というテーマで酷似している。
http://www.millnm.net/qanda4/sumouryuton.jpg
イスラエル人がスキタイと混血し、スキタイと夫余族が混血し、その夫余族がセム系の名前を持つ王を持ち、その王が日本の王、つまり、天皇になったということであれば、イスラエルと日本をつなぐ十分に検証可能な可能性が見えてくる。
このテーマは、もはやトンデモでもなんでもない。

(2)
北朝イスラエル人がやってきた可能性はこれで説明がつくが、南朝はどうか。
この相撲の須恵器が出土したのが出雲である点に注意。
出雲は、物部王国のあった地。
物部氏は、北朝で、旧約聖書の民。
南朝イスラエル人も、同じ騎馬民族化してバビロン捕囚後日本にやってきた可能性はあるから、物部氏には南朝の血も入っている可能性はある。
また、パレスチナに戻った2万人の南朝イスラエル人の来日については、次の可能性がある。
1.失われたイスラエルのもとにイエスの福音を携えてやってきた弟子たち。
イスラエルは契約の民だったので、「必ず」イエスの福音は届けられた。
なぜならば、神は誠実なお方だから。
契約の民=「救われるべき民」なので、必ず救い主の到来を伝えなければならない。
実際、パウロもペテロも「まずイスラエルのもとに」伝道した。
ペテロはバビロンに伝道した。
トマスはインドから中国に行ったと言われる。
保険の契約を結んだ人に、条件がそろえば保険金を払うのは当然。
弟子たちは、契約の民であった人々に救いの条件であるイエスの十字架と復活を伝えて、「イエスを信じるならば契約は成就する」と言わなければならない。それが彼らの使命であった。
だから、日本に契約の民がいたならば、弟子たちは必ず日本に来ていた。
2.イエスは、紀元70年の来臨において、この契約の条件を受け入れた人を救い、受け入れなかった人を滅ぼされた。
それが、マタイ25章の羊と山羊を分ける記述である。
イエスを受け入れた人々は羊、拒否した人々は山羊。
羊系ユダヤ人(つまり、イエスを信じて救われたユダヤ人)が日本に渡った可能性がある。
私は、日本は救いを受け入れた契約の民の地、つまり、新エルサレムだったのではないかと思う。
だから、日本には、エルサレムの陥落後にわたってきた羊系ユダヤ人が集まったのではないか。
救われたにもかかわらず離散していたら、それは、滅亡の状態と同じである。
世界のどこかに救われたユダヤ人の集合場所があったはずだ。
平安京など昔の都が川を中心に作られ、その両脇に薬効の樹木が植えられ、12の門を持つなど、新エルサレムにかたどって作られたからか。
平安京をヘブライ語になおすと「エル・シャローム」、すなわち、ヘブライの聖地「エル・サレム」である。名称の類似だけでなく、聖地エルサレムの「城塞」は12の門を持つなど、構造が平安京と、よく似ていることが指摘されている。
(Wikipedia―日ユ同祖論)

おそらく黙示録に記された新エルサレムの城壁が60メートルの非現実的なものであったのは、海を示すのであろう。
日本は、海という天然の城壁に囲まれている。
(3)
日本は、救われた契約の民の集合地であった。
古代の日本人がもみあげを伸ばしてミズラとしたのは、律法の記述どおり。
衣服のそでに紐をつけた、もしくは、紐で結んだのも、律法の命令どおり。(この紐は、今でも神主の衣服に見える。)
塩や水で聖めるなども律法どおり。
物部氏は動物犠牲を行っていたが、秦氏はそれを禁止した。
かわりに秦氏が建てた稲荷神社などでは、赤い鳥居が「贖いの血」を示している。
古代において、日本人は聖書どおりの生活をしていたのだろう。
大化の改新あたりから、物部氏や秦氏の聖書的な生活は陰に回り、天皇家の儀式の中に封印されたようだ。
しかし、陰に回っただけであって消えたわけではない。
(4)
日本人がアジアの解放のために戦い、欧米列強の奴隷支配からアジア人を解放したのは、血において神につながっているからだろう。
イルミナティのレオ・ザガミが、「日本はわれわれの計画をことごとく妨害してきた」と告白した。
日本人は、無意識のうちにサタンと戦ってきたのであろう。
これからも、世界の希望は、日本にある。
ルーツを自覚して、これからは意識的にサタンの陣営と戦うべきである。

日本は敗戦もその目的は達した

富井氏のサイトに紹介されていたクリップ。一見の価値はある。

愚かさに殉じること

三島の命日が近いこともあり、このところ続いているが、Salt氏も三島に惹かれた者として「三島由紀夫を殺した平岡公威」としてその見解を披露している。いわく

「ことば」が肥大した虚弱児であった三島は、その青年期のコンプレックスを跳ね返すため、精神よりも筋肉のリアリティーを信じ愛した。そして、自分の美意識の中にいのちを封印した。的外れの栄光よりも理性による嘲笑を欲し、怠惰よりも苦痛を、そして、退屈よりも死を選んだのである。

三島文学という嘘に騙されるほど平岡公威(三島の本名)は馬鹿ではなかったということ。

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三島はすべて知っていた。この世も天皇もみな虚構であると。では、リアリティとは何か。彼にとっては肉体だった。筋肉の動きと筋肉の痛み。その肥大化とフォルムの形成。そこに彼は自分のアイデンティティの根拠の確かな手応えを覚えた。そしてその究極があの痛みと苦痛だったのだ。もちろんナルシシズムもあろう。しかし確かに言えることは、彼は自分の腹に5cmも短刀を突き立てたのだ。そして引き回し、最後に上に向けて切り裂いた。これは誰も否定しようもない厳然たる事実だった。解剖所見からの次のような推測が可能である
続きを読む

三島と道元

ここまで見えてしまうと、当たり前の日常性の妙に留まることはできないであろう。肥大化した魂はひたすら空転し、自身を滅びへともたらす。

対して道元は詠う:

かくして心身脱落し得たものは幸いだ。つねにどこにでも新鮮な感動が満ちている。自分をあえて主張するまでなく、ただ任せて、その世界に憩うだけ。

仏道とは自己をならふことなり、自己をならふとは自己を忘るることなり。-現成公案

英霊の声

どうも金曜日に夜遊びが過ぎて風邪を引いてしまった。熱はないが喉がひたすら痛む・・・。

さて、shigeさんが指摘されるとおり、相対の世にありて、絶対を求むるならば、自らを滅びへと追い込んでしまう。三島と紙一重だったあの私が、幸いにもここまでチャラけることができたのは、ひとえにこの世は所詮浮世狂言と知ったからなのだ。

老子も曰く:

天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は仁ならず、百姓をもって芻狗となす。天と地の間は、其れ猶お槖籥(たくやく)のごときか。虚しくして屈きず、動きていよいよ出ず。多言はしばしば窮す。中を守るに如かず。-第五章

2014年、しるしの年(続)

今年は紅葉が期待できる。暑さから一挙に寒くなっている。今朝も木々が黄色に色づき出している。これから1か月半、実に楽しみだ。この季節になると、毎年のことだが、五木寛之の『燃える秋』を読みたくなるのだ。この3枚目の岩、なんとなくネコに見えると極私的には・・・。

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さて、最後の7年の開始条件を満たす年として2011年、2014年、2019年などがある、とすでにメッセージでも語っている。特に2014年は日食や月食とユダヤの祭りが重なることはけっこう知られてきている。天のしるしを観るわけだ。

ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。-Gen 1:14-15

地的には、国家も本人もレイムダック化しているオバマが、2014年にはイスラエルとパレスチナの和平交渉を何としても成立させたがっている模様。

さらにネオコンの旗手ボルトンは、イスラエルは手遅れにならないうちにイランに決定的決断をせよ、と。

イスラエル側は「強制」と受け止めているが、すでに指摘した通り、中東はロシアの覇権が強くなりつつある中で、オバマの焦りが感じられる。そのオバマは、この度、ドローンによる殺人について、「自分は人々を殺すことは実に気分がイイ」と発言したことをすっぱ抜かれている。

そのアメリカで今もっとも隆盛を得ている宗教は何か。すでにキリスト教の衰退は激しいことは前にも紹介したが、それはイスラム、否、それ以上にオカルト・魔術なのだ。ニッポンでも最近やたらとハロウィーンがもてはやされているが、無知のなせるわざ。ただニッポンでは所詮「世紀魔II」レベルで終わるのが幸いだが。

かくして2013年、「ターニングポイントの年」、「イヤ・オブ・ウォー」は残すところあとわずか。イスラエルがシリアを空爆しているが、シリアはいつまで堪えるだろうか。ロシアも空前絶後の軍事演習を行い出した。中国も着実にわが国を狙っている。動き出したら一挙に、だ。時代の明日はどっちだ!

なぜ私は六本木とディスコが好きなのか

論文を提出し、ノルマはこなした。ちょっと一息。で、来週はディスコで打ち上げだ。それにしてもなぜ私は・・・なのだろう。そう、どうも80年代の雰囲気に憧憬があるようなのだ。あの当時はバブルで毎日理由もなく何かワクワクした時期。あれは何だったのであろう。極私的には結婚して田園調布の一戸建てに住んだことも懐かしい。かくして『金曜日の妻たちへⅢ』を観て、郊外に瀟洒なパティオ付き一戸建てか、広いルーフバルコニー付きのマンションを買うことを夢見て、とにかく稼げるだけ稼いだ*1。とにかくあの頃はパワーがニッポン全体にみなぎっていた。イルミナティがどうとか、陰謀がどうとか、まったく知らなかったのどかな時代。単純にアメリカはキリスト教の善意の国と思っていたものだ・・・・。

・・・かくしてあの無邪気な時代を追いかけているのだろう、多分。で、何度も恐縮ですが、このクリップ、実に当時の雰囲気を伝えている:

そしてYoutubeで見つけた堀ちえみのコレも懐かしい。伊豆のガススタンドで何気にテープを買って、ノリがよかったのでよく車の中でかけたものだ。ついDLしてCDに焼いてしまった。「教官!ドジでノロマの松本は・・・」も今は昔だ*2。このドラマもアノ頃の無邪気さを象徴している。そのJALが潰れるとは、当時の誰が想像し得たであろうか?

しかし、まぁ、極私的にはまったく変わっておらず、ポリシーは一貫している。面白くないことはしたくない。つまらない人々とは付き合いも避けたい。とにかく楽しいことを求める。歯を食いしばるなんてことは逃げ出してしまう。ニッポンキリスト教的な「きよく・まずしく・ただしく」といった生き方には窒息感を覚える。とにかくこのギョウカイの人は、熱心であればあるほどつまらない。しかし、なぜか、感謝な事に、長い付き合いをさせてもらっている方々は実にユニークかつ枠をはみ出た人ばかりだ。しかもみなキリスト教からは相当外れていてもキリストご自身からは外れていない。これがまた不思議で面白い。最近また交わりの範囲が広がっているようだ。まだお会いしていない方々もおられるが、極私的には兄弟姉妹と六本木のディスコで踊りたいと願っている。いつ実現するだろう、と楽しみにしているのだ。そこんとこ、ヨロシク!

このクリップ、MAHARAJAH FRIDAY NIGHT GLOBAL MIX。極私的に燃えてしまうのだ。

で、株が動いている。30分ほどの間にまたちょっと小遣いをゲットできた・・・・。

追記:本日の学生からの差し入れ・・・懐かしいといえば懐かしい・・・

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*1:最近の若い子はダイヤル電話を知らないらしい。「ダイヤル回して手を止めたぁ~」の詩の微妙な意味が理解できないのだ。
*2:最近『クロコーチ』に風間杜夫が出ていたが、一言、老けたなぁ~。

Tarzan的生活

防災訓練は無事終了。いや、かったるいこと。これで分かるのはいざというときには行政や地区は頼りにならないこと。ここでも自己責任・自助努力だ。串田氏も11月17日辺りに警報を出しているようだし、ここしばらくは予断を許さない*1

いよいよ今週から本格的に新しいスポーツクラブに通う。これまで20年以上にわたってお世話になったスイミングクラブに一応義理を立ててたのだが、昨日挨拶を済ませて、きれいに終わった。

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ボディをさらにシェイプアップすることを目標とし、いかに若くおれるかにチャレンジするツモリ。同級会でも私が多分一番若いし、疲れてるオーラを発散していない。人生、この時期にはいろいろ負い込んでしまうもの。私はむしろあらゆることから解かれつつあるわけで、論文もメドが立ったし、来週は六本木のディスコ/クラブ、12月はBillboardでのLive*2。で、その前にYAZAWAのチケットがどうなるか。ともあれ、わが愛読のマガジン『Tarzan』と共に、さてさていかなるエクササイズ・ライフとなりましょうか。ちなみにここはメニュは豊富。月に何度でもフリー。スパもサウナも完備。ショッピングも便利、書店もUNIQLOもある。ただ前にも書いたが、映画館が残念なのだが。

地上の生活もいつまでか・・・その時まで

ENJOY THE LIFE ON EARTH!

*1:私のポリシーは、帰無仮説:「近いうちに地震は起きない」とする場合、統計的に帰無仮説が正しい時にそれを棄てる第一種の過誤の方は許されるべきと考える。逆に帰無仮説が間違っているのにそれを取る第二種の過誤はリスクが大き過ぎる。つまり「オオカミ少年」は許してあげるべきと考えているのだ。ま、これは人それぞれなわけだが・・・。
*2:Hah? with whom? ...it's highly classified:-)

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