陶淵明とジーザス
一日の仕事を終え、風呂でリラックスした後、ビールでホッとしているところ、面白い漢詩の意釈を見つけた。
而も車馬の喧しき無し
君に問ふ何ぞ能く爾るやと
心遠ければ地自づから偏なり
菊を採る東籬の下
悠然として南山を見る
山氣 日夕に佳く
飛鳥 相與に還る
此の中に眞意有り
辨ぜんと欲して已に言を忘る
注:当時、菊は薬草として用いられていた;南山は永遠不変の山で長寿を表す
誰にも煩わされることのない庵を結び、心が名声などから離れていれば、穏やかな人生が送れる。薬草の菊を採取しつつ悠然と南山を見ると、飛ぶ鳥(からすであろう)が群れを成して帰るところだ。こうして一日は終わる。この何気ない光景に真理があるのだ。しかし、もうあえて語るまい・・・と、この詩人は人間にとって必要なものは、当たり前の生活における命(長寿)と安息だよ、と何気に教えているのだ(石川忠久:『漢詩の講義』)。ここでまことにイエスの言葉を思い起こす:
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。-Matt 6:26-34
主は朝から働いている者にも、午後5時ころに雇った者にも同じ賃金を払って下さるお方(Matt 20:7-9)。ならば、午後に雇われる方がよいであろう。何も朝からテンパって、神のためと称してあくせくするまでもない。かえって
それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし・・・-Ps 69:9
私の熱心は私を滅ぼし尽くしてしまいました。-Ps 119:139
とあるとおりだ。熱心さは信仰生活にとってもっとも狡猾な罠だ。対して、主にあるアイドリング生活-これ、かなり安楽で、しかも楽しく、満ち足りる人生が送れるのだ。右脳的脱力のコツを学んだ者は幸いなのだ。
神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:26-29
改めて-