Utility

Calendar

< 2014.9 >
S M T W T F S
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
- - - - - - -

WORLD CLOCK

COUNTER

    Access.....
    Yesterday......
    Today.............

KF_SITE

FOR MEMBERS

KF_PODCAST

YOUTUBE ARCHIVE

OUR WORSHIP

TWITTER UPDATE

INSTAGRAM UPDATE

PRAY FOR ISRAEL

KINGDOM FAITH(UK)

NEW LIFE CHURCH(UK)

QRcode

BIBLE SEARCH

Entry Search

Recent Entry

Recent Comment

未承認
2017/08/07 18:42 未承認
Re:聖書をキリスト教から解放せよ!
2015/04/22 09:49 菊千代
Re:「当たり前」が崩れる時代
2015/04/20 07:42 Luke
Re:出版への状況
2015/04/20 07:41 Luke
Re:出版への状況
2015/04/19 21:55 toshi

Recent Trackback

PJ 高橋清隆氏の記事が出ていました。
2008/06/25 20:45 AAA植草一秀氏を応援するブログAAA
負のレガシー
2008/06/18 16:03 リチャードの日記
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:21 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:12 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
産声を上げたKFC、、、、、
2008/05/05 12:10 thelongstreamingully

タグ一覧

Link

Entry

トップ > 2014年09月01日

権勢によらず、能力によらず、わが霊によって

すでに2007年ころから紹介しているが、英国のKFM出身のリチャード・ジョージのノーウィッチのCornerstone Churchでは、いわゆる礼拝堂もなければ、日曜日の礼拝儀式もない。彼らのスタンスはクリスチャンをボックスから解き放つこと。このボックスの意味は建物ももちろんだが、キリスト教の伝統や習慣なども含まれる。ニッポンキリスト教では午前10時からの礼拝こそが正統な礼拝であるとする向きもあるそうだが、まあ、ご苦労様なことだ。

かくして私たちも2007年くらいから事ある毎に訴えてきたことだが、いわゆるキリスト教の伝統と習慣による日曜日の礼拝厳守なるものからエクレシアを解き放つ必要がある。エクレシアとは召し出された者たち、つまり宗教組織でもなければ、教団とか教派でもない。一人ひとりがエクレシアの肢体なのだ。

コリントにある神の教会(エクレシア)へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。-1Cor 1:2

この点、キリスト教なる人工的な宗教がいのちの君を排して、宗教の教義や実行を行い、真理とエクレシアをその中に拘束してしまっている。これは当時のユダヤ教がいのちの君であるイエスに対してなしたことの再現である。ゆえに私はキリスト教からエクソダスせよ、としつこく訴えてきた。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。-John 5:39-40

兄弟姉妹たちが、ただ主イエスの御名の中へと集まるとき、主イエスもそこにいて下さり、それがエクレシアの地上での顕現なのだ。

ふたりでも三人でも、わたしの名へと集まる所には、わたしもその中にいるからです。-Matt 18:20

では、いわゆる宗教組織から離れて二人または三人がイエスの名に集まると宣言していれば、それでOKかというと、これがまたひとつの罠になる。「御名へと集まる」とは、スローガンではない。それはイエスの人格と名はひとつ。つまりその方の中へ集まる霊的リアリティなのだ。具体的には、ただキリストの御霊のみがそこを覆い尽くし、私たちはただその権威の元に服すること。この時、主の臨在に満たされ、包まれ、私たちと主との交わり、さらに肢体同士の交わり(コイノニア)を楽しむことが出来る。お互いに共有するのはただキリストのみ。

この実行において大切なことは動機*1。その純度だ。何のために、何を求めて集まるのか。自分の何かを主張する者が存在するならばその場は汚される。自分を退け、ただ神を賛美礼拝し、主イエスのみを求める者たちが集まる時、それは実に麗しくかつ平安と安息が満ち、3時間半のセレブレーションもあっという間に感じられる。否、むしろもっとそこに留まり、その臨在に浸っていたいと名残り惜しくすら感じられる。そう、時間の感覚を忘れ、同時に自己からも離れ、自分のあれこれをも忘れている。まことに至福のひと時。まことの神の国に生きることは時空間の制限から解かれて、神の中に生きることに他ならない。これが永遠のいのちだ。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。-John 17:3

エクレシアはいつでもどこでも出現する。それは礼拝堂とか、主日礼拝とか、教団や組織とか、キリスト教のあらゆる伝統や儀式などに一切関わりのない霊的実際なのだ。このキリストの復活のいのちを吹き込まれたいのちの有機体であるエクレシアがさらに束縛を解かれ、主イエスの御言葉と御意志のままに活動するならば大いなる神のワザが現れるであろう。それは人手によらず、ただ神の霊による。そしてそのような時はすでに来ている!

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。-John 14:12

これ、現代的知性なるものに汚されたわれわれに対するチャレンジである。あれこれ知的に誤魔化さず、エクレシアがそのままに受け取るべき時が来ているのだ。

すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」-Zech 4:6-7

God bless you!

*1:特に人数やリーダシップに対する野心は致命傷となる。

Access: /Yesterday: /Today: