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トップ > 信仰

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 あなたがたもまた互いに足を洗い合いなさい-ヨハネ13:14

 ここで言われている「洗足」は状態が新鮮にされるためのものであり、罪との関係ではありません。罪とは違い、埃や塵が私たちの足を汚すのは避けがたいことです。埃の中で転げまわることは、確かに罪でもあるでしょう。しかし私たちは地と接する限り、足は必ず汚れるものなのです。一日の終わりに、何時間もオフィスで仕事に没頭した兄弟が疲れて、呆然としつつ家に帰り着きました。彼は朝の静かな時間に味わった主との新鮮な交わりに戻ることが困難であると感じるのです。何か膜が表面を覆ってしまっているような感じで、主と共にすぐさま立ち上がることが難しいように感じるのです。
 しかし友人が彼と出会い、すぐさま主に対する賛美を捧げます。するとただちに彼は引き上げられる力を覚えるのです。それはあたかも誰かが埃をはらい、覆いをも取り除いてくれたような感じです。彼の足は改めてキレイにされたのです。「足を洗い合う」ことはこのように物事を最初の新鮮な状態に戻すことです。私たちはそのことをほとんどの場合、意識しないで行なっているかもしれません。しかし、私たちは絶えず互いにキリストにある兄弟姉妹に対して、このように新たにする奉仕をしているのです。ここで私は強調したいと思います。このような奉仕は実に偉大なる務めなのです。

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 すると彼は三回打ったが、それでやめた。神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。・・・」-第二列王記13:18f

私たちは常に神がなさり得ることに制限を設けてしまう危険があります。今日、神は福音の働きにおける新しいわざが解き放たれることに私たちが備えることを願われます。しかし私たちは、自分が進むべき備えのない信仰の領域に入ることを避けて、神を制限するのです。私たちは主の「勝利の矢」の飛翔を理解していないのです。私たちが数百人の救いで満足するのであれば、さらなる数千人の救いの妨げとなるのです。福音を宣べ伝えるために巨大なホールを建てることが、将来の成長に制限を設けることになる可能性はないでしょうか。神の恵みに対して境界線を設けてしまう大きな危険性が常にあります。神が賜る恵はさらなる大きな恵への道を備えるものであり、その障害となってはならないのです。すべてを用いて働きに備えましょう。しかし絶えず過去の束縛を自分でふるい落とし、常に新鮮な期待の中に生きましょう。私たちの前には過去のわざきよりもはるかに大いなるわざが待ち受けているのです。私たちに対する神のご計画は予想をはるかに超えるものがあるのです。

TODAY'S CELEBRATION

UPしました・・・・。

人の道

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私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。-Ps 90:10

この世はある種の舞台のようなもの。自分の役が回ってくると舞台に登場し、役が終われば舞台から去る。まことにある禅の高僧が喝破したとおり:人生は浮世狂言、と。しかし、その生の炎が尽きるとき、安らかに、また満足気な表情であれることは幸いなこと。主の身元に行ったことが分かる。

義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。-Isa 32:17-18

Chapter29 at Yokohama

昨日は奈良からSalt氏が来て下さり、実は、昨年のChapter29の対談「アー・ユー・ハッピー?」の続編を予定していた。一昨日はSalt氏と江ノ島ドライブにていろいろと交わり、一応の内容も固まっていたのだが、小生に緊急可及の要件が生じたため地方へ飛ぶことになり、急遽Salt氏にメッセージをお願いした。という次第で、Salt氏のBlogでも聴取可能であるが、こちらでもUPしておきます。

MR.CAT中村くん出演、『幸せ de Night !! No.64』


World War 3 Inevitable Glenn Beck Putin Take's Poland!Jquery Video Gallery by VideoLightBox.com v2.8


荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。-ルカ7:23

 バプテスマのヨハネはこの言葉が好きではありません。彼はエリアが証ししたような新しいリバイバルを求めておりましたが、今ここでは牢獄の中で差し迫った死の宣告を待っているのでした。もし彼自身が何も達成し得なかったとしたら、イエスご自身が第二のエリアとしてその務めを全うすることになるのでした。
 私たちも神がなすべきと自分で感じたことを神がなさることがなかったとしたら、神に対して憤ることでしょう。私たちは神の御旨を知ろうと努め、神ご自身の栄光を求めますが、神のなさることにおいて、多くの場合、失望を経験させられるのです。私たちはある種の窮地に立たされ、そこから脱出する術がまったくないことがあります。あるいは病気にかかり、神に癒しを求めますが、癒されないこともあります。あるいは経済的に困窮しても、カネが与えられないことがあります。あるいはもっと悪いことに、神ご自身の栄誉が窮地に立たされるような場面に直面することもあります。神はご自身の御名のために来られるべき なのですが、しかし神はそうなされません。状況は変化することなく、獄も開くことなく、人々の心が解かされることなく、誰も「主よ、私はどうすべきでしょうか?」と尋ねる者もありません。
 ある日、あらゆる事柄が明らかになる日が訪れます。裁きの座の前に立つとき、私たちが裁かれるばかりでなく、神は私たちに事情を説明されるでしょう。多くの事において、私たちが正しくなかったことが証明されるでしょう。しかし、また多くの事柄において、神は言われることでしょう、「わたしは正しかったが、あなたもまた正しかった」と。

???

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確かこの方は背任の罪で4億7千万円の罰金刑を受けた人なのだが・・・。

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。-ヨハネ1:36

 ヨハネが最初にキリストを神の小羊として紹介したとき、「世の罪をとりのぞく」と宣言しました(29節)。すなわちキリストの贖いのみわざを強調したのです。しかしながら、二回目には、ヨハネは単純にこう言っただけでした、「見よ、神の小羊!」と。ここではキリストのみわざよりも、そのご人格に強調が置かれているのです。人々の価値を見出すのは彼らがどのような存在であるかにかかっているのです。私たちが人々を愛する際、彼らがいかなることを成し遂げたかによるのではなく、どのような存在であるかによるのです。私たちがキリストの価値を見出す場合も同じ理由です。私たちは主がくださった賜物のゆえに感謝しますが、キリストがいかなるお方であるかのゆえに、私たちはキリストを賛美します。十字架のキリストは私たちの驚くべき感謝の念を生み出しますが、御座のキリストは私たちの賛美を湧き上がらせます。私たちはキリストがなされたことを見て、そのゆえにまったき感謝を覚えますが、さらにはキリストがいかなるお方であるかを知り、そしてキリストを称えるのです。

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 私は私を強めてくださる方によってどんなことでもできる-ピリピ4:13

 今日、神のための働きにおいて、いろいろな事柄があまりにも組織化されており、しばしば私たちは神に頼る必要がないのです。しかしそのような働きに対して主の明確な宣告があります:「わたしから離れてあなたがたは何もできない」と。なぜなら神聖な働きは神聖な力によってのみなし得るのであり、その力は主イエスのうちにのみ見出されるべきものだからです。かの預言者とともに、私たちも「もはや語ることできない」と言う点に至る時にこそ、神が語って下さることを見出すのです。神は私たちが自分で成しえる事を命じることはありません。私たちには不可能な生き方や私たちが成し得ない業をなすことを神は求められます。しかし私たちは神の恵みによってそれを生き、それを成し得るのです。私たちが生きるいのちは神の力の中に生きているキリストのいのちであり、私たちがなす業は、私たちが従うキリストの御霊によって、キリストが私たちを通してなされるのです。

セレブレーションUP

ただイエスの御名に集まって主を賛美すること、なんという幸い。いわゆる日曜礼拝でもなく、クルシチャンのお勤めでもなく、神の国を味わうだけ。何も持たず、何も頼らず、ただ主の血潮、御名、十字架、御言葉のみ。絶えず初期化されること、すると人間的な業は濾過されて、神の業のみが残されるのだ。神の国は人手によらず、人は何も知らず、自ずと育つことを味わうだけ。

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」-ヨハネ21:6f

 イエスが岸辺に立っていた時、不思議なことに彼らの誰もイエスに気がつかなったのです。イエスと最も親しく接していたペテロやヨハネすら気が付くことなく、いわんや後になって傷を見てから主を認識したトマスなどはもちろんでした。復活された主は人間の目によっても、肉の手によっても認識されることはないのです。主がもっとも馴染みのある言葉を語った時ですら、彼らは気づかなったのです。しかし網がいっぱいになったとき、ヨハネは突如理解したのです。
 後に、岸辺でイエスが「来て、朝の食事を取りなさい」と語ったとき、彼らは主を認識しており、「あなたはどなたですか?」と誰もたずねなかったことがわかります。ここにパラドックスがあります。通常であれば、何かを質問することはその知識が欠如していることを意味します。あえて質問をしないことは自分が無知であることがわかってしまうのを恐れるからです。しかし、ここには恐れと知識の両方が見られます。外なる人としては、彼らは恐れていました。しかし内なる人としては、彼らは分かっていたのです。しばしばそれを説明することはできません。しかし、確かに神聖に与えられる内的確証を得るのです。これこそがクリスチャンの信仰です。

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