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江畔獨歩-杜甫

娘夫婦が新築のマンションを購入した。自分が今のマンションを購入した頃の幼き面影を思い浮かべつつ、あの子が・・・と。私のよりはるかにゴージャス。嗚呼、思えば遠くへ来たものだ。またひとつ脱力。ますますお役目ご苦労さまでしたモードに突入している・・・。

春の終わりのそんな境遇にぴったりの杜甫の詩。久々だ・・・。

江畔獨歩 花を尋ねる七絶句 杜甫
是れ花を愛するならずんば即ち死せんと欲す
只だ恐る花尽きて老い相い催さんことを
繁枝は容易に紛紛として落つ
嫩芯は商量して細細に開け

イエスは門(ポータル)②

そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。・・・わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。・・・」-John 10:7-9

この聖句、実に面白い。イエスは門である。この門から入る者は救われる。しかもまた、出入りする。私たちは出たり入ったりするのだ!この聖句は比喩ではない。リアリティーだ。この物理的時空間と霊的世界を、私たちはこのポータルを通って行き来するのだ。Are you with me?

今、極私的に、この霊的世界のリアリティー、あるいはサブスタンスがこれまでになく迫ってくる。この物理的時空間でのモノや事象と同じくらいにリアリティーとなってきている。かつてキャサリン・クールマン*1が「私にとっては目の前のあなたがたより聖霊の方がリアルなの」と語ったそうだ。まことにパウロも言っているとおりだ。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。-2Cor 4:18

このリアリティーの比重がどちらにあるか、これが私たちの信仰の歩みを決める。まさに信仰はこの二つの世界をつなぐものであり、マインドは霊と魂の接点なのだ*2。映画『スターウォーズ』では「フォースを使え」というセリフが有名だった。この映画はニューエイジ、ゆえに聖書のパクリだ。私たち的には「フェイスを使え」だ。これはすなわちポタールをこちらからあちらへとくぐること、すなわちあちらのサブスタンスにタッチすることだ。そしてこちらへと現出させる。まことにポータルとは出入りするチャネルなのだ。

*1:彼女にまつわるいろいろな噂話は知っている。小石牧師が潜入して発見したメーソンの墓地に墓があるとか、ウィッチだったとか・・・。しかし彼女の癒しのわざは現実のものだったのだ。
*2:だからサタンや悪霊は人間のマインドに罪定めなどの火矢を打ち込むことができる。主ご自身もこうやって誘惑を受けたのだ。

何かが起きている

神のリアリティー

ここに物理的時空間がある。私たちはその中に物質からなる肉体を着て生きている。同時に霊的世界がある。私たちの霊には聖霊によりキリストが住まい、彼は御父に開く門である。この物理的時空間が普通の人にとってのリアリティーであり、霊的世界などはほとんどSFあるいはオカルトとされる。が、実はこの世界がこの物理的時空間を形成するのだ。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 1:3;11:3

「本質」はサブスタンス、「ことば」は共にレーマ、語り出されたことば、あるいは今語られつつあることば、だ*1。神が語れば、それは物質的世界の要素や事象を形成する。生身の人間も水面を歩く。神はこの霊的世界からこの物理的時空間に介入されるお方。イエスご自身が神のサブスタンスの物質化(受肉)だったのだ。「見える世界」と「見えない世界」、あるいは「触れる世界」と「触れない世界」。あなたはどちらによりリアリティーを感じるだろうか。

かつての私はイエスのナザレ時代の生活、すなわち30年間の人間生活を重要視していた*2。が、イエスというお方が神のサブスタンスの肉体化と開かれた今、むしろサブスタンスの存在する見えない世界の方により惹かれるようになった。あるいは「見えない世界」と「見える世界」の接点に働く信仰、すなわちサブスタンスとその現出の重要性を深く感じる。イエスが私たちに求めるところは、御心が天になるとおり、地にもなるように、だ。つまり「見えない世界」が「見える世界」に現れ出ることだ。そのために神は天を裂かれたのだから(Mark 1:10)。

クリスチャンはニュー・クリーチャー。ただの*3人ではない!(1Cor 3:3-4)この二つの世界の狭間に生きる存在。クリスチャンが自身のアイデンティティーと居場所、そして権威と能力に目覚めたら、闇の王国にとっては恐るべき脅威であろう。だから、クリスチャンを目の前の世事で振り回して、その日常性に幽閉しているのだ。この喩えの意味が新しく開けている。

イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」-Matt 13:3-9

物理的時空間の自然科学などの法則で生きるのか、霊的領域の信仰の法則で生きるのか*4。これは霊と魂の接点であるマインドによって決定される。マインドがトランスフォームされること*5。これは終末を生きる私たちの緊急の課題であると思う。

この世の形に構成されてはなりません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、思いを新たにして自分を変えていだきなさい。-Rom 12:2(私訳)

追記:最近のセレブレーションのDL数が多い時で述べ800件近くなっています(転送バイト数÷ファイルサイズで計算)。DLが集中する時、アクセスしにくくなりますのでご了承ください。

*1:ロゴスはあえて言えば、「かつて語られた言葉」あるいは「書かれた言葉」と言える。
*2:イエスはこの30年間をただ無為に人として生きていたのではない。つねに霊的領域との接触にあって生きていたのだ。だから12歳ですでに自分の真の父を知っていた。家族からするとよほど不思議な子供だったと思う。そこでかつてとは違う意味でナザレ時代の彼の生活に関心を覚えるようになっているところだ。
*3:あえて付けときます
*4:実はこの法則を変更することはかなり心許なさを覚えるのだ。これまで慣れた縁(よすが)から手を離すことだから。ちょうど補助輪付き自転車から補助輪を外す時のように、だ。
*5:これはキリスト教の神学とか思想から自由だとか、自分なりのユニークな考え方や視点だとか、御言葉の解き明かしの切り口が新鮮だとか、そういったことととはまったく違う。それはあくまでも物理的時空間でのこと。鍵は霊的世界のサブスタンスを把握できるかどうかが問題なのだ。

a break...

ファイル 4852-1.png

スウィーツはホッとする・・・・

coming to oneself...

これらの約束、マジで受け取るならば、まことにすごいこと。しかし、これらを約束されたのはJesusその方だ。ゆえに嘘偽りはない!こちらの受け取り方に問題があるのだ。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。

また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

これが自分において成就する鍵は何か?ルカ15章の有名な放蕩息子の逸話にこうある。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

この放蕩息子が言おうとしているセリフはかなり策略的だ*1。しかし父は待ち構えて喜んで迎えた。なぜか。彼が我に返ったからだ。KJVでは"he came to himself"とある。口語訳では「本心に立ち返って」。彼は放蕩したとき、自分を離れていた。つまり彼の遊びは彼自身の本心ではなかったのだ。しかし自分自身に戻った。自分の心の真実に気がついたのだ。

主はご自分の所に来る者に、たとえ盲人であっても、必ず尋ねた、「わたしに何がしてほしいのか」と。分かるでしょう、主よ、と私たちは考える。が、しばしば私たちは表向きの霊性や格好にかまけて、自分の本心を忘れる、あるいは抑圧する。本心でないことを主に求めても、決して叶えられない。主が「何でも」と言われるとき、私たちの本心を求められる。本心を願い求めるとき、内側が光と喜びに満ち、祈っていてワクワクする。サブスタンスを得ているから、したがって必ずそのとおりに現出すると分かっているからだ。

自分の欲しいものを自分で認めること。これ、けっこう難しい。しばしば私たちは自分で自分の心を取り繕ってしまうからだ。かくしてかなえられる祈りの秘訣は

coming to myself!

*1:ニッポンキリスト教では神の愛の例え話として説教されるこの逸話、かなりヤラセっぽく感じており、あまり好きではなかったのだ。が、12月以降、読み方聞き方が変わった。素晴らしい逸話だ。

聖書をそのままに読む、というより聞く

12月以降、私の聖書に対する姿勢は全く変化してしまった。御言葉を読むというよりは聞くのだ。それも変な解き明かしとか解釈を入れず、そのままに、聞くこと。御言葉はいじるべきではない。

たとえば、生まれつきの盲人の癒しでは、イエスは唾を吐き、泥をこねて、彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗えと命じた。なぜ?その意味を問うことは不要。ただ、その時には主はそうされたのだ。そして大事な点は、彼がその言葉に従って、目が見えないままに従ったこと。このイエスの言葉(レーマ)に自分を預けたのだ。これが鍵。聞いたことに従うこと

私の右耳の難聴の癒しは、ただ「癒された」と聞くだけだった。私は何もしなかった。右足の麻痺は、最初「イエスの名で命じる」とやったが奏功しなかった。ふと聞くと「右手で腰をおさえて銘じよ」と言われたので、そのとおりにすると体が勝手に動き出し、3回ほど繰り返した後に完全に麻痺は消えた。花粉症では「イエスの名によって、IgE抗体よ、反応するな。ヒスタミン、分泌するな。免疫系、過敏に反応するな」と命じた。するとそのとおりになった。かくして癒しの3パターンを経験したのだ。

鍵はイエスという存在、サブスタンスをとらえること。この方は癒すお方。真実なお方。ご自分の言葉を裏切らないお方。昔も、今も、永遠に変わらないお方。信仰はそのサブスタンスをとらえる。そして語り出すのだ。サブスタンスを語り出すとき、それはレーマとしてこの物理的時空間の中でわざをなす。われわれは言葉を語り出すことにより、あるいは呼ぶことにより、地を従わせるのだ。

日々キリストにありて

ファイル 4847-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに建て上げなさい(第一テサロニケ5:11)。

 弟子たちに対するイエスの最初の招きは「わたしのところに来なさい」(マタイ11:28)、そして「わたしに従いなさい」(マタイ4:19)でした。マルコはこう記録しています、「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(マルコ3:14;15)。注意して欲しいのですが、イエスが権威をさずけるのは、イエスとの関係が確立してからです。弟子となることはふたりまたはそれ以上の人々が互いに励まし合って神との関係を深めていくことです。弟子となることは何かをする前に、いかなる存在であるかの問題です。すなわちミニストリーの前に成熟が、キャリアの前に資質が問われるのです。
 クリスチャンは皆、あなたも含めて、クリスチャンの関係の文脈において、弟子でありまた訓練者であるのです。あなたはキリストにある者の意味、御霊に従って生きること、そして信仰によって生きることを教えまた学ぶ者として、厳粛なる特権と責任を持っているのです。家庭、教会、クリスチャン・コミュニティにおいて、人を教えまた訓練する特別の役割があるでしょう。たとえば、夫/父親、牧師、日曜学校の教師、グループリーダー養成などです。しかし訓練者の役を受けていても、互いの関係において、必ずしもキリストにあって学びまた成長する者とは限りません。逆にあなたが「公式の」訓練者ではないにしても、事実上の訓練を与える存在であるかもしれません。あなたの子供や、友人、他の信者がキリストにあって成長することを、彼らとの人間関係において顧みまた関わることを通して、助けることができるのです。
 同じように、クリスチャンは皆、互いの関係において、カウンセラーであり、またカウンセリングを受ける者であるのです。良きカウンセラーは良き弟子であり、良き弟子は良きカウンセラーであるのです。聖書的には、それらは同じ役目です。あなたが成長している度合いに応じて、クリスチャン・カウンセリングを行うことができるのです。しかし、あなた自身が他のクリスチャンからカウンセリングを求めまた受ける必要がある時があります。私たちがそれらを必要としない日は一日とてもないのです。

 父よ、私がキリストにある兄弟姉妹から神聖なカウンセリングを受ける必要がないほど、自分が成熟していると思うことがないように助けてください。

TODAY'S CELEBRATION 【Apr 05, 2015】

UPしました。

タイトルサブスタンスを養う-祈りは具体的に

聖書箇所:創世記1:28;エペソ4:23;コロサイ3:20;ヨハネ16:24など

4月12日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700
 ・Web:Kingdom Fellowship®

地を従わせよ!

天と言えば、霊的世界。地と言えば、この時空間。時間と空間と物質からなる世界。神はアダムに対して「地を従わせよ」と命じられた。つまりこの物理的世界を従わせること。WOW!

本日のメッセでも語ったが、サラは89歳の時、来年子供を産むと告げられた(Gen 18:10)。ところが20章でアビメレクはサラを召しかかえた(Gen 20:3)。つまり妾に取ったのだ。アブラハムがサラを妹と偽ったためだ(Gen 20:5)。が、よく考えて欲しい。89歳の婆さんを召し入れた!?これが何を意味するか?

体は土からできた。すなわち物質からなる。この体が若返ったのだ。召し抱えられるほどに*1

あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。-Ps 103:5

この御言葉はそのまま受け取るに足りる真実な言葉である。われわれはこの体に命じるのだ。ガンよ、主イエスの名によって消えよ!

SO BE IT!!!

*1:ちなみにアブラハムもイサクの誕生後もケトラを妻に迎え、6人の子供をもうけている。明らかに100歳を超えているのだ!

神のノモスー第二のもの

神の原則は最初のものを拒否され、第二のものを良しとされる。これは聖書で一貫している、すなわち「死と復活の原則」。

あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。
まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。
わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。
銀はわたしのもの。金もわたしのもの。―万軍の主の御告げ。―
この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。―万軍の主の御告げ。―Hag 2:6-9

「のちの栄光>最初の栄光」-これが神の霊的不等式。

最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。-1Cor 15:46-48

「¬第一のもの∧第二のもの」-これが神の論理式。

キリストのいのちは、あの時代にはイエスのうちに限局されていた。今は、一粒の麦が死んだゆえに、それは霊的領域に無限大に拡散している。その領域へと私たちの霊は開いている。無尽蔵の富を引き出せるのだ。もちろん信仰により。「自分がどーだ、こーだ」から出て、この広大な領域に触れるならば、私たちは一変する。それまでと同じではおれなくなってしまうのだ。否応なしに・・・。

追記:今日は皆既月食かつ過ぎ越しの祭り。さて・・・

霊の領域から3D世界へ

日本の諸宗教が隆盛を誇っている中で、いわゆるキリスト教はサバイバル状態。なぜか。クリスチャンと称する人々に喜びと力がないからだ。繰り返すが、「自我を十字架につけてぇ~」などのもっともらしい教えでがんじがらめになっている。自省や内省からは何も生まれない。十字架の働きを自分でなし得るものではない。それはすでに死んで、すでに復活した存在!新しい創造、New Creature。

ただし、魂の知・情・意が古い人の痕跡を残しているので、そこに十字架が適用される。そしてそれは自己疎外ではなく、癒し、なのだ。歯を食いしばって自我を~ではない。古い価値観やセルフイメージが、キリストにある新創造のそれらに置き換えられていく。これがトランスフォーメーション。まずマインドから始まる。

神の前ではわれわれの諸々の罪はすでにない!神は私たちを初めから罪を犯していない存在と見ておられる。というより、われわれを見るとき、キリストを見ておられるのだ。私たちはすでにキリストのうちにいるから。よく勘違いする人がいるが、私たちはキリストから出たり入ったりするのではないのだ。

また私たちの真のアイデンティティーは新しい人類だ。これ、文学的比喩ではない。そのままの事実なのだ!神はキリストの死と復活をとおして新しい生命体を生み出したのだ。それはキリストの血の中に限定されていた生命(Zoe)であり、それをわれわれに分与された。ゆえにわれわれはキリスト族。そしてそれは増殖する。

自分を見つめて、まだ愛が足りない、まだ短気だ、まだ人を憎む、まだきよくない・・・といったところからそろそろ卒業すべきであろう。大脳辺縁系の中の"自分"などは幻想なのだ。そんなものを改善したり、きよめたりできるわけがないでしょうに。神の言葉は私たちが自分についてどう感じようと感じまいと真理だ。私たちはキリストにある新しい被造物なのだ!そして神の国のポータルとして神の国の富と力が地上にもたらされる。天に御心がなるごとく地にもなるようにの実現だ。

かくして霊の領域をまず動かす必要がある*1。地上のあれこれを操作しても無意味とは言わないが、労多くして実は少ない。サブスタンスを掴む必要があるのだ。それはまずマインドから始まる。マインドに浮かぶことが徐々に選択されて、キリストのマインドと一致するようになるとき、サブスタンスが具体的に形作られる。そのとき、「得た」と分かるのだ。あとは時間の中でそれは現出するようになる。

あなたがたの魂が繁栄しているように、あらゆることで繁栄し、健やかであるように祈る。-3John 1:2

魂が繁栄するように、あらゆることが繁栄する。魂が健康であればあるほど、私たちのあらゆる領域が繁栄するのだ。御言葉は私たちの魂を救う力があるから、御言葉を素直に受け取れと勧めている(James 1:21)。私たちはすでに聖とされ、完全とされ、新しい創造物とされている、ピリオド。これが真理なのだ。素直に受け取ればそのとおりを経験するようになる。SO BE IT!!!

*1:先に「地を従わせよ」が響いたと書いたが、霊の領域を動かすと物質も支配できる可能性がある。いわゆる金粉とか宝石が出現することが報告されているが、かつての私はアウトだったが、人類はそのポテンシャルを有しているかもしれないと思い出している。事実イエスは五千人を五つのパンと二匹の魚で養った。少なくとも彼は物質を支配したのだ。

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