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富士山の異変

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昨日、兄たちと食事会を持ったが、その際の会話。彼らはすでに30回以上富士山に登っているが、昨年の9月、宝永山の少し上に巨大な陥没穴があることを発見した。現地の人に言わせると、雪解けの後にその穴が開いていたとのこと。ロープで囲ってあったが、あんな穴はこれまでに見たことがないと、彼らも。どうも富士山に何かの異変が起きていることは事実のようだ。

神の国のポータル(門)

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ヤコブはベテルで天からかけられた梯子を天使が上り下りするのを見た*1。ゆえにその地は天の門であり、ベテル、すなわち神の家と名付けた(Gen 28:1-19)。天の門、天使が上り下りするポータル。イエスご自身も自分の上に天使が上り下りすると言っている(John 1:51)。そして実は私たちも同じだ。天使は私たちに仕える霊(Heb 1:14)。私たちは神の家(Eph 2:22)。ゆえに神の国の門、ポータルなのだ。

昨今、女子高生が同級生や老女をを猟奇的に殺したり、若い男が突如男児を刺し殺す事件が多発している。ISILはヨルダン兵士を生きたまま焼き殺す映像を公開するなど、地獄の様が展開している。これらについてしたり顔で精神あるいは社会病理が云々とできるだろうが、霊的には彼らは地獄の門として用いられているのだ。彼らをとおして悪霊が出入りしている。

私たちクリスチャンは為す術もなく闇の勢力の台頭を許している状況だが、私たちが自分のアイデンティティと居場所を真に知るならば、彼らにとっては脅威となる。だから敵はクリスチャンをして、自分の葛藤や悩みの解決や、自分の"聖化"、あるいはいわゆる伝道や奉仕、さらに幸福の追及や自己目的の達成に閉じ込めている。しかし神のみ旨は、神の国を私たちをとおして、今、ここに現出させること。神の国は手で触れることができるのだ!DO YOU BELIEVE?

*1:ふつう、梯子は下から上にかけるが、ここでは逆。天がかけて下さる梯子だ。が、天使は上り下りする。地の必要を天にもたらし、その満たしを下してくれるのだ。アセンディングとディセンディング。これは私たちの経験でもある。

パウロの経験

彼は14年前に第三の天に上げられ、人が聴くことのできない言葉を聞いたと証ししている(2Cor 12:2-4)。そこで何を見たか、何を聞いたかは一切語っていない。彼は何を見て、何を聞いたのか。彼の経験したことは彼にのみユニークなものだったのか、それとも誰にでも起き得ることなのか。私は前者の立場であった。が、今、パウロがその見聞きした内容自体を語らないことが理解できる。それは決してオープンにすべきことではないからだ。地上のことでコンフォームされたマインドにとってはやばい。やばすぎる。それは神の領域に入り込む経験。ミステリーを垣間見ることだから。神が秘していることを人間が暴くことは許されない。神が開かれる時、開かれることだけを分として受け取るべきなのだ。クリスチャンと言う存在の本質もそこに隠されている(Col 3:3)。

天のことVS.地のこと

ここでも過去に何度かつぶやいていたが、極私的に告白すると、地上のことにはもう飽きてしまったのが本音かもしれない。ひととおり人として経験すべきことは味わった。仕事も、遊びも・・・。地的な義務と責任はすべて果たした・・・。

そんな気持ちが漂っていたとき、昨年12月、予期せずしてアレが起きた。御言葉を経ずに直に見せられ、語られた。今でも妄想か幻覚か、結論を保留している部分がある。が、それから聖書が立体化した。御言葉が浮き上がり、イエスの言動が3D映画を観ているかのようにリアルに迫る。神が直に語りかけて下さる。御言葉を解き明かすとか、その霊的意味を探るとかではなく、語りかけ自体を味わっている。

まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。-John 3:11-12

天上のこと-そう、これを追求する意欲が抑えられず、湧き上がる。なんなんだ、これって?

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
・・・
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。-1Cor 2:7-10

奥義、すなわちミステリー。神の秘された事柄

事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。-Prov 25:2

宇宙はホログラムである

と日本人物理学者が証明したとのこと。これは立派なアカデミズムの業績。論文はこちらで読める。私たちが見ているものは、何かの映像というわけ。

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まことに

Through faith we understand that the worlds were framed by the word(rhema) of God, so that things which are seen were not made of things which do appear.-Heb 11:3

(信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。)

この世界は神のレーマが"framed"されたもの、いわば神のレーマのホログラムだ。これが私たちの見ている世界。実体は神のレーマ。信仰はそれを確認する(Heb 11:1)。かくして豊かな信仰の歩みは神のレーマを聞くこと、受け取ることができるか否かにかかっている。私たちの魂、特に思いが肥大化しているとそれを聞損なうのだ。繰り返すがマインドのトランスフォーメーション、これがカギだ。

昨今、どうもサイエンスと信仰はかなりニアな状況になりつつあるようだ。

イエスと私たちの居場所とアイデンティティー

And no man hath ascended up to heaven, but he that came down from heaven, even the Son of man which is in heaven. -John 3:13

これを訳すると*1

誰も天に昇った者はいない。天から下ってきた者、天にいる人の子以外には。

はあ?天から下ってきて、しかも天にいる、しかも人の子?一方でエペソにはこうある:

罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:5-6

はあ?私たちは地上にいるが、天の王座にキリストと共に座している?しかもパウロはこう言っている:

相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、人として歩んでいる、ということになりはしませんか。-1Cor 3:3

はあ?「人として歩んでいるということになる」とは、私たちの本来のアイデンティティーは人ではないということ?そう、私たちは単なる人ではなく、キリストにある新創造、すなわち新人類なのだ。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新創造(KJV:a new creature)なのです。-2Cor 5:17

これらはたとえ話ではない。そのとおりに受け止めるのだ。われわれは天に座し、しかも地にもいる。つまり天と地をつなぐ新しい創造物なのだ。人の子であるイエスがそうであったように(John 1:58)。神の国(ザ・キングダム)は、今、ここに現存する!繰り返すが聖書はマジでとらえるとやばいのだ。

*1:邦語訳では「天にいる」がカットされている。

私のかつての父なる神観-パン種に注意

イエスは聖霊が来られるとき

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。・・・」-John 14:23

と約束された。聖霊が内住されることは、父とキリストが内住されること。つまり三位一体の神が私たちを宮とされるのだ。そして内なるキリストとの交わりを味わうことも経験していた。その甘い愛、平安、喜びなど・・・。しかし、目の前に末期がんの兄弟姉妹が出現するとき、私はある意味絶望した。なぜか。

神は世界を創造した後、その運行を法則に委ねられた。自然科学の法則、人文科学の法則、社会科学の法則に。ゆえに例えば、たばこを吸えば癌の罹患率は上がる。高齢出産ではダウン症のリスクが上がる。だから、たばこは控え、若いうちに出産するように対応してきた。カネを稼ぐには世の法則をつかんで、それに乗ること。できる限り楽をして人生を楽しんできた。そして神は時に、摂理により私たちを導いて下さる・・・と。このような世界観(モデル・パラダイム)に従って生きてきたのだ。

すると、自分で制御できる領域と制御できない領域の仕分けが必要になる。以前から言ってきたが、髪の毛を引っ張って空を飛ぶことはできないし、そんな無意味な努力はやめよと。マインドがこのようにコンフォームされていると、ステージ4のがん患者にはもはや希望が失せるのだ。あるいは乳房を切除された女性が再生を祈ってほしいと来るときも。それは自分で制御できない領域の事象であるゆえに。あるいは摂理による導きでは手遅れであるゆえに。しかも父なる神は世界を法則に委ねられている以上、この状態に直接介入されることはない、と私のマインドはコンフォームされていた。だから祈りも無意味・無力となるのだ。

今回、これが根底からひっくり返された。自分の体で直接的癒しを経験し、神の臨在が手で感じられるようになり、その栄光を重さとして味わった。父なる神がすぐ目の前におられる感覚。私たちの地上の生活に直接に介入して下さる神なのだ。この経験をして、天で御心がなるとおり、地にもなるようにとの祈りが現実感を伴って、生きるものとされた。かつては何がなるのかも不明、きわめて曖昧なキリスト教の礼拝の式文としか感じられなかったのだ。いわゆる神の癒しとか、しるし・不思議についてはほとんどスルーのスタンスだったし、もっと言えばいかがわしいと思ってきた。

今回、この正体が明らかにされた。マルコに、船で向こう岸に渡ろうとしたイエス一行は、弟子たちがパンを忘れてきて、ひとつだけだった。

そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。-Mark 8:15

弟子たちはそれまでに二回もパンと魚が増える奇跡を見ていたが、それを忘れ、自分たちがパンを忘れたことを責めているのかと思ったのだ。この期に及んでも彼らの目は開かれていなかった。パリサイ派のパン種とヘロデのパン種?実はこの二つが奇跡としての(=自然法則を超える)主の御手の介入の信仰を阻害するのだ。私は意識的にパリサイ派のパン種を拒絶していたが、見事にヘロデのパン種に侵されていた・・・。これらの正体がいったい何であるのか。What do you think about?

Dr.Lukeが語っていることは

最近、ちょっとやばくない?と思われている部分が相当にあろうかと思っている次第。自分で語りつつ、これは妄想か、偽りか、それともリアルか、とつねに自問自答しつつ、かつ聖書に照合しているのだ。12月に主に仁王立ちされて迫られた結果、以前のように軽くスルーができなくなり、どうしても白黒決着をつけるべきところに追い詰められているわけ。ちょうど、ヨブが

男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。-Job 38:3;40:7

と二度までも迫られたように・・・。リアリティとはどこにあるのか?この信仰の根源的問題が問われているのだ。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉(レーマ)によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。-Heb 11:3

モーセの失敗-マインドの慣性

先にDr.Kさんが従順とは傾聴であると指摘された。信仰は聞くことから、それは神のレーマであり、神のレーマには不可能はない。このレーマは一回性のものだ。聖書に深く精通し、霊的経験が豊富であることも時に罠になる。一回性のレーマを聞き逃す、あるいは聞けない、あるいは聞いても従わないとすべてがアウト。その例がモーセだった。神と顔と顔を合わせて会話する彼が、岩に命じよという神の言葉を聞きそびれたか、聞いても従わなかったのか*1、とにかく彼は岩を打ってしまったのだ(Num 20:7-11)。それでも水はほとばしり出たが、その不従順のゆえ、モーセは良き地には入れなかった。

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理由は、以前の岩を打つ奇跡の経験が彼の思い(mind)にコンフォーム(形成)されていたからだ。彼は思いを新たにすることに失敗した。われわれの魂(知性・感情・意志)には慣性がある。ある一定の方向に向かうと方向転換が難しくなるのだ。そのコンフォームされたフレームからはみ出る事象などには必ず抵抗感を覚える。現代でも死人が蘇る!?そんなのは古代の夢物語だろうとか*2。あるいはイエスのなした奇跡はすべて何らかの霊的真理を教えるための喩えであるとか・・・。これがニンゲンのマインド・オヴァー・ゴッドだ。

肉の思いは神に敵対する。-Rom 8:7

自己弁護や、聖書解釈、霊的意味付けなどで主イエスの業をニンゲンのマインドに合わせることは大きな損失。聖書の言葉はそのまま受け取るに値するものだから。

聖書はすべて、神の霊感によるもの・・・-2Tim 3:16

神の霊感とは"theopneustos=thoes(神)+pneo(息吹き)"。そして神は今もレーマを語られる。レーマを聞くと、とにかく分かる。I know that I know !しかもそれはしばしば私のマインドを超え、逸脱し、あり得ないのだ。霊と魂の分離が起こる。この状態は受胎告知を受けたマリアのようにけっこう自分にとっては困惑あるいは不安を生む。なぜか、これまでのマインドのパラダイムから外れているから。かくしてイエスが行かれたところ、語られるところ、御業をなされるところには、必ず大きな困惑と混乱と意見の対立が生じるのだ。エクレシアが真に神の国の出先機関として機能し出したら、これは世をこのように引っ掻き回すだろう。が、それが終末の福音のあり方である。

*1:頑なな民に対して怒りを爆発させたためではあるが、それだけならばイエスも不信仰な弟子たちに怒っていることでは同じだ。
*2:マタイ10章(Matt 10:7-8)の命令はオリジナルな十二弟子限定であるとする人々がいる。が、マタイ28章にはこうあるのだ。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。-Matt 28:18-20

ニッポンが救われる道

ユダヤ人と日本人が精神病理的に似ていることはすでに指摘している。一言で言えば、プライドが高く、知的、イエスに対しては頑な。彼らの心を神に転機させるにはそれを刺し、砕き、すべての思考・高ぶり・はかりごとをキリストに服させること(2Cor 10:4-5)。お体裁の「気軽に教会へどうぞ」的スタンスではキリスト教徒は増やせても、霊の再生されたエクレシアの肢体は無理だ。まことに使徒行伝の様がそのままに再現される必要がある*1。コメントでも何度も書いたが*2、切除された乳房が再生され、骨折した腕の骨の金属が骨に変えられ、死人が起こされて、神のデュナミスが証しされるまでに。私の葛藤や、私の何とかを何とかしてくれ的スタンスを卒業する時なのだ。祈るときは「私にあって神の国が現出しますように!」と。アイ・マイ・ミー的スタンスからキングダム・スタンスへ。

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」-Acts 2:37-39

*1:これは特別の器によってなされたのでははなかった。すべての信者に開かれている。問題は私たちが受け取るかどうか。それは神の国の能力だから。自分がどうのこうのではなく、単純に受け取るだけなのだ。が、これがなかなかできない。あれこれ理由をつけて・・・。ゆえに思いのトランスフォーメーションが必要なのだ。
*2:これらの証がすでになされているのだ!

ホテルのロビーで

ひとりの方がイエスを受け入れた。父なる神がものすごく近くに、天の喜びが直に感じられた。Glory be to God!

ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。-Luke 15:7

神の国の真の福音のあり方

現在のように、「あなたの街の親しみのある教会、お気軽にいつでもどうぞ」的なニッポンキリスト教のあり方は、世に媚びを売るもの。真の福音は罪と義と裁きについて世と対決するし(John 16:8)、世を根底からかき回すものなのだ。

彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。・・・」-Acts 4:16

いわゆる「○○教会」と称する建物に日曜日毎に集まって、内々に自分たちが恵まれ祝福されることを求める現在のキリスト教徒のあり方は真の福音ではない。あるいは「お気軽にうちの教会に来てください」とかはベクトルの向きが逆だ。むしろ出て行くのだ。そして町の中でイエスの名によって悪霊を追い出し、車椅子の人々を立ち上がらせ、末期ガンの患者さんを癒し、さらには死人を蘇らせる。すると世は雑誌やTVなどマスコミをはじめとして大騒ぎとなる。ある者はインチキだとし、ある者はカルトだと叫び、ある者は狂っていると糾弾するだろう。そして選ばれた者たちはエクレシアとして集められる。かくして神の国は世に進攻するのだ。根拠は、すでにイエスが天と地のすべての権威を有しているからだ。かくしてイエスの名がこの日本を上へ下へと引っ掻き回す。

ねっ・・・やっぱり、やばいでしょ神の国はバイオレント(Matt 11:12)。お体裁では振い落される時代に入っている。

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