櫻に雪の光景に想う
- 2013/05/07 22:51
- Category: 漢詩
- Tag: 漢詩 一石
枝は凍り 櫻花 撩亂披く
春恨の紅粧 香寂寂たり
雙飛の黄鳥 佳期少(まれ)なり
(平起式・平声上四支韻)
玄機とお吉の人生を想いつつ・・・桜の花は満開なのに雪が花弁を凍らす。疾風も冬のように厳しい。春にしてはなんとも不条理な光景だ。まことに彼女たちの紅化粧も、恨めしいこの春のごとく、その香も寂しさを増すだけ。仲睦まじく飛ぶつがいの鶯も、その幸いな期間はまことに短い。
Dr.Luke的日々のココロ
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(平起式・平声上四支韻)
玄機とお吉の人生を想いつつ・・・桜の花は満開なのに雪が花弁を凍らす。疾風も冬のように厳しい。春にしてはなんとも不条理な光景だ。まことに彼女たちの紅化粧も、恨めしいこの春のごとく、その香も寂しさを増すだけ。仲睦まじく飛ぶつがいの鶯も、その幸いな期間はまことに短い。
彼女の不条理は遊里に生まれたことだけではなかった。女であること、そのことがまさに、だったのだ。しかも絶世の美貌を備え、かつ深い教養があった。彼女は当初自分に近寄る男たちに歯牙もかけなかったようだ。彼女から見れば彼らは教養もない下卑た連中に過ぎなかったのだろう。
鴎外の形容は-
眉目端正な顔が、迫り視るべからざる程の気高い美しさを具えて、新に浴を出た時には、琥珀色の光を放っている。豊かな肌は瑕のない玉のようである。
ある春の日、長安の崇真觀という道教の寺院に遊びに行き、南樓をたずねると、そこに新しく進士(現在の国家公務員試験I種に相当)に及第した人たちが、名前を書きつけている場面を目撃した。その時の彼女の実に率直な感想の詩-
雲峯 満目 春晴を放つ
歴歴 銀鉤 指下に生ず
自ら恨む羅衣の詩句を掩ふを
頭を挙げて空しく羨む 榜中の名
遠くの山の雲、景色もすばらしい気持ちのいい春。壁の達筆なお名前を一つひとつ指で指して見ています。新しく及第した進士たちのお名前。だけど私は女。どんなに巧みな詩詞を作っても空しい。女であることが残念で、彼らの名を羨むだけ・・・。
鴎外はこう書いている-
玄機は才智に長けた女であった。その詩には人に優れた剪裁の工があった。温を師として詩を学ぶことになってからは、一面には典籍の渉猟に努力し、一面には字句の錘錬に苦心して、ほとんど寝食を忘れる程であった。それと同時に詩名を求める念が漸く増長した。
しかし、彼女は利徳の愛人となり、徐々に自分の女に目覚めていく。同時に正妻からの恨みを買って利徳にまで捨てられる。そのような自分の不条理を彼女はこう詠っている-
日を羞じて 羅袖に遮り
春を愁いて 起妝(きしょう)に懶(ものう)し
無價の寶を 求むるは易きも
有心の郎を 得るは難し
枕上 潛かに涙を垂れ
花閒 暗に腸(はらわた)を斷つ
自ら能く 宋玉を窺う
何ぞ必ずしも 王昌を恨まん
起妝=起きて化粧すること
有心郎=愛情を注いでくれる男
宋玉=楚の詩人宋玉は美男子だったので、隣の女がのぞき見したという故事を受ける。ここでは李億のこと。
王昌=六朝の梁の武帝の詩に、盧家に嫁した莫愁という美女が実家の隣の王という男に嫁げばよかったと後悔したと詠われたことを受ける。王昌とは一般に女の実家の隣にいた初恋の相手のこと。
春の日差しすら恥ずかしく、薄衣で顔をさえぎるの。春なのに愁いは募り、起きてお化粧するのも物憂い。高価な宝を得ることは簡単だけど、自分を本当に愛してくれる殿方を得るのは難しいこと。ひそかに枕に涙し、花が咲き誇る中でこころは断腸の想い。でも自分であの人を選んだのだから、今更あの人を恨みなどしない・・・。
この二つの詩を読み比べるとき、ますます玄機*1の魅力に捕らえられてしまう。女性の魅力は、もちろん黄金比φに基づいた造りが前提ではあるが、しかし単にそれだけではあたかも隣国の同じ顔した規格品的整形美女たちのようなもの。その内面に玄機のような深い教養と、しかも自分では如何ともし難い不条理と葛藤を抱えた女性、私はそのような女性に限りなく魅了されるのだ。先にも書いたが、唐人お吉もその一人。私の中では玄機とお吉はある種の重なりを覚えている。
*1:「玄機」とは道教の用語で、真理の意味だそうだ。
森鴎外の『魚玄機』によるとこうある:
この時李は遽に発した願が遽にかなったように思った。しかしそこに意外の障礙が生じた。それは李が身を以て、近こうとすれば、玄機は回避して、強いて逼れば号泣するのである。林亭は李が夕に望を懐いて往き、朝に興を失って還るの処となった。
李は玄機が不具ではないかと疑って見た。しかしもしそうなら、初に聘を卻けたはずである。李は玄機に嫌われているとも思うことが出来ない。玄機は泣く時に、一旦避けた身を李に靠せ掛けてさも苦痛に堪えぬらしく泣くのである。
李はしばしば催してかつて遂げぬ欲望のために、徒らに精神を銷磨して、行住座臥の間、恍惚として失する所あるが如くになった。
李には妻がある。妻は夫の動作が常に異なるのを見て、その去住に意を注いだ。そして僮僕に啗わしめて、玄機の林亭にいることを知った。夫妻は反目した。ある日岳父が婿の家に来て李を面責し、李は遂に玄機を逐うことを誓った。
鴎外によると、美貌にして深い教養を持つ玄機は李の妾となるも、彼に身を任せることがなかったのだ。李はこれで悶々とし、妻もその所作がおかしいことに気が付く。夫と妻は反目するが、ついに李も玄機を追い出すことを決意する。かくして武漢で彼らは別離れるのだ。その時の彼女の詩がまたけな気なのだ。
この歌によれば、実際の仙郎の日常は鴎外の記述とは異なるようだ。この転句にある「雲去るの処」は、戦国時代、楚の国の襄王(BC299-263)が、大夫の宋玉を伴って雲夢(うんぽう)で遊んだときの故事を受けている。これがまたロマンチックな物語ではあるが、ここでは略。いわゆる『巫山の夢』。
もうひとつの彼女の詠んだ詩:
水が器に従うように、わたしもあなたに従うだけ、自分の運命を自分では定めれることができないの、と。ここでも「雲出るに心無し」と襄王の故事を受けている。昨日の北原白秋ですら、気が狂いそうだと、文学者としてはあまりにも露骨な表現をしているのだが、それだけ彼は自分の心を御し難かったのだろう。対して、この「郎」に過ぎない玄機は、別離という人生の最も過酷な場面において、深い教養を散りばめた漢詩という形で自分の心を昇華し得た。文学はまさに人間の不条理による深い葛藤から生み出される、というより絞り出されるものなのだ。
聖書においてすら、神の御計画が着々と成就する契機となる個々の場面においては、この男と女のまことに奇なる絡みが実に味わい深く働き、それが綾なされて遂にはイエスというお方をこの地上に生み出すのだ。まことに神の摂理だ。そこにはもちろん生身の人間の傷と痛みがある。イエスの系図にはその人間の不条理ゆえの葛藤の綾が匠みに織り込まれているのだ。人類の究極の不条理を、神は人間イエスにおいて、その経験された傷と痛みの不条理において見事に昇華されたのだ。文学や芸術など人の営みは、ある種、神の葛藤の型と言えるのだろう。玄機の生涯においてもその痕跡を見ることができるのだ。