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トップ > 2008年03月12日

本日の一冊

ファイル 256-1.jpg鈴木宗男氏と一緒に逮捕された佐藤優氏の『国家論-日本社会をどう強化するか』(NHKブックス)。同志社大学神学修士を持つ氏の論考だけあって、聖書から説き起こしている。それも「三位一体論」や「カルケドン信条」から・・・。要旨は上のリンクによくまとめられているが、氏の神学に対する姿勢は、前にも指摘したが、相対化されたものであって、飲み込まれ現象がなく、好感と信頼感を持てる。

いわく

・・・イエスが存在してこのように言ったという前提での神学は、もはや学問的神学ではないのです。ただし、こういうことは確定できる―一世紀の終わりから二世紀の初めの時点において「一世紀にいたイエスと言う人間がわれわれたの救い主である」と信じていた人たちがいた。ここまでです。・・・
 つまりキリスト教神学と言うのは、教祖であるところのイエスがいたかいないかよく分からないという、根本的に曖昧な部分を抱えた神学体系です。そのため、本質的に歴史実証主義が嫌いです。どうしてかというと、歴史実証主義を徹底的に詰めていくと、メシが食えなくなるから。ですから、どこかで必ずごまかすわけです。
 大学の神学部で、牧師や神父の卵である神学生たちは、もちろん、ここで述べたようなことは全部教え込まれるわけです。しかし、実際に牧師や神父になると、経営者の論理が要求されます。うかつなことを言ったら「お客(信徒)」がみんな逃げてしまう。だから、イエスさまは確実にいたということを大前提にするわけです。そのあたりは、神学で飯を食っている連中の、いわば企業秘密です。
 そのため、だいたい神学部に言って1年から2年も経つと、今までイエスをずっと信じてきて、そのために献身したいとさえ思ってきた者に限って、期待を裏切られたように感じ、アルコールに溺れるようになったりします。
・・・一般の学術的な論争というのは通常、積み重ね方式になっています。議論が少しづつ積み重ねられていき、新たな論争というのは以前の論争の積み重ねのうえに成り立つのです。ところが神学論争は違う。神学論争が進むと、それは必ず政治的な問題になってきます。暴力的な介入によって相手をやっつけるというかたちで終わりになるか、あるいは議論が瑣末なところに走っていくために、本来の議論はみな忘れられてしまう。あるいは論争に明け暮れ疲れ果て、みんな論争するのをやめてしまう。
 それで300年くらい経つとまた同じ話がちょっとだけかたちを変えて蒸し返されるわけです。その繰り返しで、積み重ねどころか、進歩という感覚にはまったく馴染みません。いつも迷路に入って終わりです。
 それから、神学論争では、論理的整合性が高くて、知的水準が高いほうがだいたい負けます。知的水準が低くとも、時の政治権力と結託したほうが常に勝っています。キリスト教は基本的に、負けた者のテキストは一切残さない。・・・
 今、わわれわれが手にすることができるのは、論理的整合性の度合いが低く、なおかつ知的水準はあまり高くなくとも、政治と結びついていたものしかありません。

これは私が常々指摘しているところでありまして、神学が「学」として成立し得るのか、そもそもそこから検討する余地があるわけです。まあ、神学論争などは言ってみれば「声のデカイ方」が勝つわけで、そもそもその資質が問われるのだ。かくして「2ちゃんねる」あたりがそれにふさわしい場だろう。ただし、粘着してくる連中がいるから辟易なのだ、このニッポンキリスト教なるギョウカイは・・・嘆。

(陰の声:嗚呼、またこれでオツムのよろしい神学者のセンセイたちを怒らせるかな・・・汗)

混迷する日銀総裁選び

日銀総裁選びは武藤氏の総裁昇格が参院で否決されて混迷している。ちなみに『文藝春秋四月号』に日本を米国に売り渡したと悪名高い竹中平蔵氏の論文がある。題して「福井総裁が日本経済を悪くした-デフレ脱却を果たせなかった"物価の番人"の責任を問う」。要するにデフレ下の06年3月に量的緩和策を解除したことが、流動性を損ない日本経済の地盤低下を招いたとする。量的緩和策とは各銀行の日銀の当座預金口座の残高を増やす策を言う。金利がゼロの場合、金利策はそれ以上はどうしようもない。そこで日銀が国債を買い上げて、各行の当座預金を増やすわけだ。当座預金は金利ゼロだから各銀行は融資を増やし、かくして流動性が高まるわけ。

ところが解除前には30兆あった当座預金も、06年3月以降一桁に落ちている。私も当時、解除は時期尚早と指摘したが(→こちら)、竹中氏も「次期総裁に何より求められるのは、まず、通貨の供給量を増やしてデフレを脱却することである。その上で、経済をデフレにもインフレにもしないこと。具体的には多くの国でそうしているように、1~2%の穏やかな物価上昇を実現することである。そうなれば、実質成長率が現状の2%程度でも3~4%の名目成長率が期待できる」と指摘。これは私も前に同じ意見を書いた(→こちら)。フィッシャーの交換方程式<MV=PY>によれば、V(回転速度)とY(国民総生産)が一定であれば、M(通貨供給量)が増えれば、P(物価)も上昇するわけ。さらに竹中氏は増税によって財政赤字を解消する試みはあり得ないと指摘し、「攻めの経済運営」が必要であると結んでいる。

さて、日銀総裁選び、またガソリンの暫定税はどうなることやら・・・。顔の見えない福田さん、何を考えているのでしょうか。

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