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Jarrod Cooper, 20years ago

ファイル 4228-1.jpg

彼が10代の頃*1、まだKingdom Faithに在籍した時代の作品。今となると貴重な音源だ。2曲紹介します。”Mighty Worrior”、”Deep Call to Deep”。コントローラーのW三角マークで切替可能。

*1:男の常、かなりヘアのヴォリュームが・・・。

穀雨ですが、清明の詩を・・・杜牧

4月20日は二十四節気の穀雨。そのとおり本日は朝からしのつく雨でうっとおしい。杜牧の「清明」がまことにフィットする一日だった。なお、清明は4月5日あたり。

ファイル 4227-1.jpg

 清明の時節 雨 紛々
 路上の行人 魂を断たんと欲す
 借問す 酒家は何処に有る
 牧童 遥かに指す 杏花村

時はもっともうららかなはずの清明の時節なのに、春雨がしとしと降りしきる。独り旅人の私がその雨の中を歩いていると、侘びしさに心が折れそうになる。そこで尋ねてみる、「おい、坊ず、居酒屋は近くにあるかな」と。ふと牛飼いの少年ははるか遠くの杏の花咲く村を指差したのだった*1

旅人は熱燗に思いを馳せていたのだろう。独り旅の侘しさに酒と人の温もりが恋しくなる。しかしその酒場ははるか遠くの杏の里なのだ。この少年は旅人の心情に対して無頓着に、かつ無邪気に答えたのだ。杜牧もこれでは怒りも、失望も感じない。むしろ少年の無邪気さにホッとしたかもしれない。その無心な状態において杜牧は慰めを得たのだ。冷たくうっとおしい雨にあって、あたかも映画のワンシーンのような二人のやりとりに、温もりと一服の清涼感を覚えるのだ。

*1:このゆえに清明の時節に降る雨を「杏花雨」という。

座る・歩む・立つ

実に早いものだ。4月もそろそろ終わり。今週のセレブはちょうどニーの黙想と合致する流れだったので、キリストにあって安息することを語った。ニッポンキリスト教徒がよくやるミスに、自我を十字架につけようとか、自己の死を感じようとか、キリストのうちに自分を置こうとか、霊と魂を切り分けようとか・・・。嗚呼、おろかなものだ。それがキリスト教だ。宗教だ。そんなこと誰ができますかって!それは神の業であって、私たちの仕事ではない。かくして自作自演的にもがき、自縄自縛に陥る者が多い。そしてウォッチマン・ニーをはじめ、それにならうDr.Lukeも原理主義カルトだ、異端だと叫び、また自分自身を真理の敵として自滅する(2Peter 3:16)。ニッポンキリスト教の悲喜劇である。

自分の十字架を負うことは実は実に安楽なこと。なぜなら死を経験することだから。死はあらゆる葛藤や苦痛から解放してくれる。それはすなわち脱力することだ。アダム系列の条件付けを受けた魂から生まれながらの力が抜けること。このとき御霊のいのちのパワーが私たちの魂を駆動する。自分の魂を否むとは、魂の機能を停止することではない!そのように勝手に解釈して自滅する者がいるが、実に愚かなものだ。魂の機能、知性・感情・意志を停止してどうして生きていけるだろうか。問題はその魂という装置をどのエネルギーによってドライブするか、だ。Rick Warrenのパーパス・ドリヴンなどは偽りであると知るべきだ。私たちはスピリット・ドリヴンなのだ(Gal 5:16)。

ニーのエペソ書の講解の鍵は、<座る・歩む・立つ>だ。私たちはキリストと共に天のところに座らされた(Eph 2:6)。すなわち自分の生まれながらの魂の業をやめたのだ。そして歩むのだ(Eph 4:1)。もちろん御霊のいのちの力によって。そして敵に立ち向かう(Eph 6:13)。この順番を誤ると容易に敵の餌食になる。かくして座った者、すなわち安息した者が歩め、そして立てるのだ。私たちは体は物理的に活発に活動しても、内側がつねに休んでいる。敵はこの内側の安息をかき回し、あわよくば奪い取ろうとする。そのためには御言葉をも用いる。いろいろな敬虔なフリは演技できても、安息はけっして演じることはできない。安息している人から醸されるあの雰囲気を偽ることはできないのだ。

そして安息は伝染する。安息した人の近くにいるだけでその安息が私たちにも感染するのだ。不思議な安息を味わうことができる。主は言われた、心を騒がすな。わたしの平安をあなたがたに残す。わたしの平安は世が与えるようなものではない、と(John 14:27)。キリストが地上におられらたとき、いかなる平安を享受していたことであろうか。父との交わりにおいて、まったき平安のうちにとどまっていたのだ。その平安を下さると。これは私たちの知的理解を超えている!御子は御父とのまったきひとつを味わっていたのだ。その交わりに私たちを預からせてくださる方が聖霊である。

わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。-1John 1:3

わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。-John 14:23

自己(セルフ)にあって何もしない、する必要もないことを知る人はまことに幸いなのだ。あらゆる世や教界の混乱と喧騒から分離されて、ただその安息を楽しみ、御子と御父の交わりを堪能するだけだ。ブラザー・ローレンス的に言えば、聖なる怠惰を楽しむことだ。

なお、各論点についてはこちらを参照されたい:

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