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荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。-1コリント12:22

 かつて何年か前、私は自分自身では決して解決策を見い出せないと思える非常に大きな人生の問題に直面しました。その時、僻地のある場所で福音のメッセージを語っていましたが、その答えを見出すために不可欠と感じていた御言葉の知識を他の神の僕たちの誰もが知り得ませんでした。私は必要とする交わりをどこに見つければ良いのでしょうか?私が宣べ伝えていたその田舎の人々の間にも、もちろん数名の信者はおりましたが、みなキリストにある赤子だったのです。彼らがどうしてこの 問題を解決し得るでしょうか?
 しかしながら、私はその時点までにすでに完全に行き詰まっていたのです。彼らを招く他にまったく方法はありませんでした。そこで必要を抱えた私の求めに応じて、これらの純朴な兄弟たちが私の元に来ました。私は彼らに自分の問題を語り、彼らは祈りました。―なんと、彼らが祈ると光がもたらされたのです!詳細は説明する必要はありません。とにかくそれは解決されたのです。しかも再発することがないほどにきれいにです。このような「弱い肢体たち」により頼むことにより、神はご自身の大いなる喜びを見せて下さったのです!

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない-ヘブル2:11

 第四の福音書の冒頭において、その福音伝道者は、イエスを「御父の独り子」と書いています。同じ書の最後においては、復活の主がマグダラのマリヤに向かって、「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい」と言われました(ヨハネ20:17)。この福音書のあるところまでは、イエスは「御父」あるいは「わたしの父」と語っていました。今や、復活後においては、「あなたがたの父」と言われます。なんと素晴らしいことでしょうか。「死からよみがえられた初穂」であるお方、私たちの長兄である方がこう言われるのです。受肉と復活において、主は神の家族に多くの息子たちを加えられたのです。そこで同じ節において、主は彼らのことを「わたしの兄弟」と呼ばれます。神を賛美します。その昇天においてあなたと私は子とされる霊を受けたのであり、それゆえに私たちは、「アバ、父よ」と呼ぶことができるのです。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」。

「パウロに関する新しい見解」のN・T・ライトの異端性

再建主義の富井氏によるこの記事の警鐘は重要と思われる。ちょっと転載させていただこう。今日、この手の聖書の御言葉の歪曲が顕著になり、それがキリスト教ではけっこう人気になる傾向が強いのだ。改めて、御言葉に帰ることが必要だ。

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tomi 2014/04/26(土) 22:50

「パウロに関する新しい見解」のN・T・ライトとフェデラル・ヴィジョン3

フェデラル・ヴィジョンについて、そして日本のフェデラル・ヴィジョンの教会に関して、これまで、紹介や批判するHPや情報が少なかったこともあり、内容をとくに掘り下げる機会を得ませんでした。

そのため、その異端性に気付くのが遅れてしまい、この教えとそれを奉じる教会についてあいまいな態度を取り続けました。

そのことを謝罪します。

フェデラル・ヴィジョンとフェデラル・ヴィジョンを奉じる教会は、明らかに異端であり、悪魔の教えであり、われわれはその教えとそれを奉じる教会を絶対に推薦しません。

そして、その教会に所属する人々には、一日も早く脱会することをお勧めします。
tomi 2014/04/26(土) 01:28

「パウロに関する新しい見解」のN・T・ライトとフェデラル・ヴィジョン2

N・T・ライトは、教会合同つまりエキュメニカル運動の回し者である。

ローマ・カトリックとプロテスタントの垣根を取り去るために、義認の教理を捻じ曲げている。

どのように捻じ曲げたかというと、義認を、イエス・キリストの救いを個人的に受け入れることとして見るのではなく、教会や契約に加入するかどうかの問題に貶めることによってである。

つまり、こういうことである。

正統派の聖書的キリスト教では、義認とは「律法を守り、贖いを成し遂げられたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ」達成される。

われわれは、イエス・キリストがアダムの身代わりに律法を完全に守り、神の前に義と永遠の命を獲得してくださったので、信仰によってイエス・キリストの体であるエクレシア(召された者の集まり。単なる制度的教会ではない)に加わり、イエス・キリストと有機的契約的なつながりを持つことによってその功徳を受け継ぐ者となる。

これは、「信じて告白する」ことによって可能になる。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10・10)

単なる教会で洗礼を受けたから救われるのではなく、心に信じなければならない。

それゆえ、義認は、神との個人的関係が主である。

人間存在の基本中の基本の部分である「心」における変化が必要である。

しかし、ライトは、義認を集団的ととらえる。

外面的教会制度に加わることによって義と認められると。

礼典は、新しい創造の現実を示す単なる印ではなく、実際にその一部なのである。バプテスマは、…単なる新生、新しい家族への加入の現実を示す道標ではない。それは、実際に、その加入への門なのである。
N.T. Wright, Surprised by Hope: Rethinking Heaven, the Resurrection, and the Mission of the Church (New York, NY: HarperCollins Publishers, 2008), 271-273.

ここで、はっきりと「バプテスマによる救い」の異端的教えが述べられている。

パウロがこう述べているにもかかわらず。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6・15)

では、幼児洗礼はどうなのかという疑問が起きる。

聖書では、家族単位での祝福を述べている。

ラハブの家族は他の家族よりも格別の恵みを与えられた。

しかし、制限があった。

自ら進んで救いを拒むならば救われないという。

私たちが、この地に入って来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。
あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。(ヨシュア2・18-19)

それゆえ、聖書は家族契約を重視しているが、基本は個人の選択である。

個人が心において救いを拒むならば、いくらクリスチャンホームであっても救われない。

ライトは、外面的制度的儀式による救いを導入することによって、同じ教理を持つローマ・カトリックとの合同が可能であるという。

私は、サタンは、ライトを通じて、プロテスタントの信仰を破壊し、ローマ・カトリックとの教会合同に道を開いたと考える。

以下、参考として、カリフォルニア州パノラマ市の『グレース・トゥ・ユー』の理事フィル・ジョンソン師による説明を読んでいただきたい。

ライトのWhat Saint Paul Really Saidという題の著書によれば、義認は「神とどのような関係にあるのか」ではなく、「民族的及び文化的集団が互いにどう関係し合っているか」についての問題である。

122ページ:
パウロにとって、義認は…「どうやってクリスチャンになるか」ではなく、「ある人が契約の家族に属していることを確認するにはどうしたらよいか」という問題を扱う。[義認]は、キリストを信じるすべての人が、人種の違いを乗り越えて同じ食卓につくことを主張する。」

それゆえライトの考えでは、義認とは、エキュメニカルかつ教会論的な問題であって、救済論的問題ではない。

158ページ:
パウロの信仰義認の教理を通じて、教会は、現在のバラバラな状態を捨てて、エキュメニカル(教会合同)の任務に駆り立てられる。

「イエスを信じる人はみな同じ食卓に属している」(ガラテヤ2章)と宣言するまさにその教理が、「義認に関して異なる教理を持つ人々を食卓から排除すべきだ」との主張に利用されてよいわけがない。

換言すれば、義認の教理は、熱心な教会合同の努力の末に、カトリックとプロテスタントが合意に至ることができる教えなのである。

それだけではなく、義認の教理はそれ自体、教会合同の教えでもあって、教会が文化ごとに小さくまとまるグループ化の傾向を非難し、「イエスを信じる人々は同じ一つの家族に所属している」と宣言する…。

義認の教理は、実際のところ、偉大なる教会合同の教えなのである。

http://www.ligonier.org/learn/articles/whats-wrong-wright-examining-new-perspective-paul/
tomi 2014/04/25(金) 17:03

「パウロに関する新しい見解」のN・T・ライトとフェデラル・ヴィジョン

フェデラル・ヴィジョン(オーバン・アヴェニュー神学)に影響を与えている著名かつ福音派にとって大きな影響力を持つ聖書神学者N・T・ライトは異端です。

Surprised by Hope: Rethinking Heaven, the Resurrection, and the Mission of the Churchにおいて、「魂の不滅」を否定し、死後魂が天に行くことを否定しています。

さらに、その「パウロに関する新しい見解(New Perspective on Paul)」において、パウロは「行いは義認に役立たない」とは言っていないと指摘しています。
http://www.ligonier.org/learn/articles/whats-wrong-wright-examining-new-perspective-paul/

フェデラル・ヴィジョンの立場に立つライトハートは、ライトの神学から刺激を受けたと述べています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Federal_Vision

フェデラル・ヴィジョンの支持者として『共同フェデラル・ヴィジョン宣言(A Joint Federal Vision Profession)』に名を連ねている人々には以下が含まれています。

Randy Booth, Tim Gallant, Mark Horne, James B. Jordan, Peter Leithart, Rich Lusk, and Ralph A. Smith

http://en.wikipedia.org/wiki/Federal_Vision

道元の『正法眼蔵生死』、基督版(再)

朝、緑の森の中をフィトンチッドを浴びて、新鮮な陰イオンをたっぷり吸い込みつつ、もちろん霊の息もだが、ジョギングを楽しんだ。その後の風呂とシャワー、そしてストレッチがまた気持ちイイ!ちなみに最近、森林浴でNK(Natural Killer)細胞が活性化するとの報告がある:

さて、かねてより、私の本でも、ここでも、この前のBlogでも、道元を取り上げてきた。彼は仏教界、というよりは禅におけるウォッチマン・ニーとも言える、ある種の天才だ*1。その『正法眼蔵』は彼の思想と言うより、生き様の集大成と言える。その「生死」のキリスト・バージョンはこちらで紹介した。

前回のメッセージに関連して、再度、「生死」に触れてみたい。

ただわが身をも、心をも、はなち忘れて、ほとけの家に投げ入れて、仏のほうより行われて、これにしたがいもていく時、力も入れず、心も歎費(つい)やさずして、生死をはなれて、仏となる。

要するに自己を放擲(てき)して、自己を忘れ、仏の家に委ねてしまうとき、仏の方から作用がなされて、ただこれに従いゆくとき、力も消耗せず、心も浪費することなく、生死の二元論的世界を離れて、仏となる、というわけ。まさにニッポンキリスト教的クルシチャンに対する処方箋である。ここの「仏」を御霊あるいはキリストに読み代えれば、見事にローマ書8章となる。これが二千年前にイエスの十字架で、イエスの死と共にすでになされた自己の死の実体化である(Heb 11:1)。老子的には無為自然に生きること。ここに私たちの意識作用が入るとたちまちこんがらがって、クルシチャンができあがる。ああしたらよいか、こうしたらよいか、自我を殺すため徹夜で祈るとか、断食するとか、難業苦行するとか・・・。もっと言えば、十字架を負うとか・・・。その意味を外して空回りする。パウロもこう言っているではないか:

もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。
これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。 -Col 2:20-23

そのような心のやりくりこそ、自分を自分で救うむなしい努力であり、主の十字架を無効と宣言するものなのだ。対して、信じた者は安息に入る。かくして私は言うのだ:キリストにある怠惰を楽しめ、と。

さて、今晩は・・・・。

Ok、エヴリバディ、ハヴ・ア・ナイス・ウィークエンド!!!

*1:禅も老子もキリストの真理の型、影である。ついでに言えば、堕した葬式仏教はキリスト教の型でもあろう。

スタローンの証

前に彼は信仰を持っているかもと書いたが、かなり明確な証をしていた。


Sylvester Stallone Testimony accepting Jesus as his LordJquery Video Gallery by VideoLightBox.com v2.8


イエスの処刑は何曜日に?

いわゆる聖書に関係ないイースターが終わったようだ。で、今更ながらと思われる向きもあるかものトピだが、普通(カトリックの伝承により)金曜日と言われている。が、これでは計算が合わない。イエスは「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」(Matt 12:40)と言われるのだ。そこで最近、欧米では改めて、水曜日か、木曜日か、金曜日か、との議論が再燃している。さて、みなさまはどう考えられるであろうか?

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。-エペソ2:8

 私たちは恵みにより救われたと確かに語ります。しかしそれは何を意味するのでしょうか?すなわち、私たちは主イエスのうちに安息することにより、救われたのです。私たちは自分の救いのために何もしていません。私たちはただ罪に病んだ自分の魂を主のもとに置いただけです。私たちはクリスチャンとしての歩みを、私たちの行いに頼って開始したのではなく、主がすでに成し遂げられた事実に安息することにより始めたのです。このことに到る前には誰もクリスチャンとは言えません。なぜなら、「私は自分の救いのために何もなし得ませんが、神はキリストにあって私のためにすべてを成し遂げてくださったのです」と言うことこそ、信仰生活の最初のステップだからです。神が喜んで私たちに賜る恵みには限度がないのです。

TODAY'S CELEBRATION

UPしました。

Kingdom Fellowship Podcast


King of kings, MajestyJquery Video Gallery by VideoLightBox.com v2.8


ラストに歌う曲を尋ねられましたが、英国のJarrod Cooperの名曲、King of kings, Majestyです。彼は右のリンクにもある、New Life Church HullのPastorです。10代の頃から名曲を生み出しています。彼のCDはオンライン注文からどうぞ。

追記:英国Kingdom FaithのColin UrquhartのTweetもピッタリ。

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ダビデ張傘下企業IBTimes、労働法違反

救世軍山谷真少佐の記事から:

クリスチャントゥデイ問題とは?

統一教会(世界基督教統一神霊協会)核心メンバーであった張在亨氏(学舎長、巡回伝道団団長、ICSA事務局長、鮮文大学教授)が、自分自身を「来臨のキリスト」として若者たちに教え込み、張氏が設立した関連団体(ACM、イエス青年会、EAPC等)と関連企業(クリスチャントゥデイ、クリスチャンポスト、ジュビリーミッション等)に献身させて、無償労働をさせている上、そうした実態を糊塗しつつ、世界福音同盟(WEA)への浸透を企て、成功を収めつつある、という疑惑です。

IBTimes(日本版;英語版)、を出している財経新聞はこれまで他社の記事700本に及ぶ無断盗用・剽窃行為が指摘されたりなどしてきたが、今回はNY州の労働法に違反していることが報道された。

ニューヨーク州法は労働者に給与を月に2回払うよう定めているのを、IBT Mediaは順守していなかった。CJRは1961年からコロンビア大学院ジャーナリズム学部が発行しているプロのジャーナリスト対象の新聞。
労働当局はニューヨーク州法違反の事実を認知しており、すでに『マザージョーンズ』の先行報道でオリヴェット大学での無賃金労働・低賃金労働・学生ビザによる不法就労が明らかにされたことから、今後の労働当局の動向が注目される。
IBT Mediaは傘下にIBTimes(財経新聞)とNewsweekを擁している。

I Exalt You

worship in spirit....

フェイクの時代-ここまできたホログラム

先の核安全保障サミットでは参加者の胸に三角型のバッチと三角型のホログラムが堂々と登場していた。

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そのホログラムを使えば、再臨のイエスをも演出できるとされ、一部ではイルミナティなどがそのフェイクを演じようとしているとする向きもある。確かにこのYoshikiのパフォーマンスを見るとそれは十分に可能であると思われる。ホログラムで作られた自分自身と共演しているのだ。


World War 3 Inevitable Glenn Beck Putin Take's Poland!Jquery Video Gallery by VideoLightBox.com v2.8


主の再臨は私たちの究極の希望であるが、これすらも人の手によって汚そうとする時代なのだ*1。そもそもキリスト教自体がホログラムのようなもの、人の手によるフェイクである。しかるに人の手(=思惑と手法)が入ったものは排除されるべきものなのだ。


The Return of Christ - Every Eye Shall See HimJquery Video Gallery by VideoLightBox.com v2.8


改めて

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:26-29

*1:携挙されるためにはどうすればよいのかとよく聞かれる。極私的には、正直言って、分からない。何をどうすれば携挙されるのか、誰か分かる人に教えて欲しいものだ・・・。

荒野に宴をもうけ

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ウォッチマン・ニーの黙想


 あなたがたもまた互いに足を洗い合いなさい-ヨハネ13:14

 ここで言われている「洗足」は状態が新鮮にされるためのものであり、罪との関係ではありません。罪とは違い、埃や塵が私たちの足を汚すのは避けがたいことです。埃の中で転げまわることは、確かに罪でもあるでしょう。しかし私たちは地と接する限り、足は必ず汚れるものなのです。一日の終わりに、何時間もオフィスで仕事に没頭した兄弟が疲れて、呆然としつつ家に帰り着きました。彼は朝の静かな時間に味わった主との新鮮な交わりに戻ることが困難であると感じるのです。何か膜が表面を覆ってしまっているような感じで、主と共にすぐさま立ち上がることが難しいように感じるのです。
 しかし友人が彼と出会い、すぐさま主に対する賛美を捧げます。するとただちに彼は引き上げられる力を覚えるのです。それはあたかも誰かが埃をはらい、覆いをも取り除いてくれたような感じです。彼の足は改めてキレイにされたのです。「足を洗い合う」ことはこのように物事を最初の新鮮な状態に戻すことです。私たちはそのことをほとんどの場合、意識しないで行なっているかもしれません。しかし、私たちは絶えず互いにキリストにある兄弟姉妹に対して、このように新たにする奉仕をしているのです。ここで私は強調したいと思います。このような奉仕は実に偉大なる務めなのです。

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