Utility

Calendar

< 2024.4 >
S M T W T F S
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
- - - - - - -

WORLD CLOCK

COUNTER

    Access.....
    Yesterday......
    Today.............

KF_SITE

FOR MEMBERS

KF_PODCAST

YOUTUBE ARCHIVE

OUR WORSHIP

TWITTER UPDATE

INSTAGRAM UPDATE

PRAY FOR ISRAEL

KINGDOM FAITH(UK)

NEW LIFE CHURCH(UK)

QRcode

BIBLE SEARCH

Entry Search

Recent Entry

Recent Comment

未承認
2017/08/07 18:42 未承認
Re:聖書をキリスト教から解放せよ!
2015/04/22 09:49 菊千代
Re:「当たり前」が崩れる時代
2015/04/20 07:42 Luke
Re:出版への状況
2015/04/20 07:41 Luke
Re:出版への状況
2015/04/19 21:55 toshi

Recent Trackback

PJ 高橋清隆氏の記事が出ていました。
2008/06/25 20:45 AAA植草一秀氏を応援するブログAAA
負のレガシー
2008/06/18 16:03 リチャードの日記
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:21 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:12 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
産声を上げたKFC、、、、、
2008/05/05 12:10 thelongstreamingully

タグ一覧

Link

Entry

トップ > 信仰

日々キリストにありて

ファイル 4656-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません(1ヨハネ5:11;12)。

 神がアダムに息を吹き込まれたとき、彼は肉体的にも霊的にも生かされました。アダムは霊的に生きていましたが、それは彼の魂が神と調和していたからです。私たちは神から分離したり、独立して生きるようには決して設計されていません。私たちは霊的に生きる存在だったのです。
 クリスチャンにとって、霊的に生きることは神と結ばれていることです。この考えは繰り返し聖書の中で、キリストにあってという常套句で提示されています。キリストにあることは新約聖書のテーマです。アダムと同様に、私たちも神と結ばれるべき存在として創造されました。しかしアダムは罪を犯し、彼の神との結合は、私たちも同じですが、破壊されました。人類を神ご自身へと帰り来らせ、アダムが創造された時に享受していた神との交わりを回復することが神の永遠のご計画なのです。その回復された神との調和は、キリストにあって見出すことができますが、私たちのアイデンティティの本質です。
 あなたが再生されたとき、あなたの魂は神と結合され、アダムが罪を犯す前にあの園で生きていたように、霊的に生きることができるものとされました。新約聖書が繰り返し宣言しているように、あなたは今やキリストのうちにあり、キリストはあなたのうちにおられるのです。あなたのうちにおられるキリストは永遠のお方であるゆえに、彼により得たあなたの霊的生命も永遠のものです。永遠のいのちを得るために死を待つ必要はないのです。今ここで保有しているのです!
 使徒ヨハネは書きました、「御子を持つ者はいのちを持つ」(1ヨハネ5:12)。彼は多分イエスのマルタに対する言葉を思い起こしていたのでしょう、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(ヨハネ11:25;26)。イエスはマルタにこう言われた後で、「あなたはこれを信じるか?」(26節)と問われました。
神の言葉は明確です:イエスのゆえに、私たちは肉体的に死んだ後でさえも、霊的に生きることができるのです。あなたはこれを信じますか?

 愛する父よ、私は心から私の霊的いのち、永遠のいのちがあなたのうちにあることを宣言します。今日、永遠を見る視点からそのいのちを生きさせてください。

デュナミス

神の国は言葉ではなく力にある。-2Cor 4:20

ここの言葉はロゴス(logos)、力はデュナミス(dunamis)。Thayerによるとこうある:

Thayer's Greek Lexicon:

dunamis

1) strength power, ability

1a) inherent power, power residing in a thing by virtue of its nature, or which a person or thing exerts and puts forth

1b) power for performing miracles

1c) moral power and excellence of soul

1d) the power and influence which belong to riches and wealth

1e) power and resources arising from numbers

1f) power consisting in or resting upon armies, forces, hosts

この力は御霊がキリストを復活させた力、私たちもキリストの御霊を受け継いでおり、奇跡を行うのみでなく、死ぬべき体にいのちを与え、魂に健やかさをもたらす。さらに富と豊かさをももたらすのだ。WOW!私たちはすでにこのデュナミスを持っている!やばい・・・。

愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。-3John 1:2

神の深み

この聖句、よくよく考えてみてほしい。やばいと思いませんか?

そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深み*1までもきわめるのだからである。-1Cor 2:10

「神の深み」って?創造主なる神の深み?それは人間の思いを超える、否、むしろ人間の生まれつきの肉の思いはそれを拒絶する。御霊だけがそれを極めるが、その御霊は私たちが受け継ぐべきものの手付金・保証として与えられている!?御霊が手付金?

あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証*2であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。-Eph 1:13-14

しかも

「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思い(nous=mind)を持っている。-1Cor 2:16

キリストの思いをすでに有している?かくのごとく聖書に書かれていることはやばいことばかりなのだ。

*1:bathos:From the same as G901; profundity, that is, (by implication) extent; (figuratively) mystery: - deep (-ness, things), depth.
*2:arrhabōn:Of Hebrew origin [H6162]; a pledge, that is, part of the purchase money or property given in advance as security for the rest: - earnest.

神の栄光はヘヴィー

「栄光(Glory)」と訳されている原語には何種類かあるが、もっとも頻繁に出るのが、"kâbôd"あるいは"kâbôd"。その意味はStrongによると

From H3513; properly weight; but only figuratively in a good sense, splendor or copiousness: - glorious (-ly), glory, honour (-able).

第一義的に「重さ」。そう、神の栄光は重いのだ。ものすごくヘヴィーなのだ。呼吸ができなく無る位に。だからやばい・・・。その時

So that the priests could not stand to minister by reason of the cloud: for the glory of the LORD had filled the house of God.-2Ch 5:14

立っていられなくなる!床に押し付けられて、身動きができない!神の重さを感じるのだ。あれから私は手で神に触ることができるように感じられるようになった。天の父は物理的に遠くにおられるのではない*1。その方はYHWH、すなわち"I AM"-今、ここにおられるお方。私は10年以上前に著書で書いた、「信仰は"I AM"の実体化である」と。この言葉は予言的だった。当時とはまったく異なる次元でそれを味わっている。そして見せられている*2。やはり、やばい・・・。

*1:Do you believe 「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:6」?。私たちはキリストと共に天の座にいる存在なのだ!
*2:これをここで書けば間違いなくDr.Lukeは逝っているとなるだろう。パウロは14年間秘めていたが、それは謙遜していたのではない、この世の知性にはやばすぎて話せなかったのだ・・・。私もとてもではないが書けないし、話せない。精神科の兄の元に行けば、おクスリをだしましょう、となるだろう。

トランスフォーメーション

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。-Mark 1:15

悔い改めとは「自分の罪を告白し、神に立ち返ること」。これがいわゆるキリスト教の理解だ。もちろんその通りだが、それだけではない。もっと深くかつ豊か。この世で構築された世界観やパラダイムを放棄し、神の国のリアリティをそのままに得て体験すること、結果、考え方も行動も根底から変革される。これは私たちのnous(mind)、つまり思い(知性)の根底から再構築を要する。それは自然科学の諸法則を超えた世界だ。要するにやばいのだ・・・。

あなたがたはこの世の形にされ*1てはならない。むしろ、思いを新たにして作り変えていただき*2、神の御心が何か、善いことは何か、神に喜ばれ、また完全なことが何かを識別しなさい。-Rom 12:2(私訳)

それはメタモルフォーゼ、つまり思いのトランスフォーメーションなのだ。人間がトランフォームされていない古い思いで御言葉を理解し組織した体系、あるいは特定の個人の理解や体験の在り方が諸々のキリスト教神学であり、儀式・伝統・文化・・・である。神はそのような領域に拘束されない方、聖霊に自由に触れていただき、働いていただくとき、神の国の地上における現出がもたらされる。それは

しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。-1Cor 2:9

*1:suschēmatizō:形作られる。六本木に行ってはならないとか、酒を飲んではならないとかの話ではない。私たちの内なる世界モデル(パラダイム)・認知行動モデルがこの世(aion)の形にされること。
*2:metamorphoō:昆虫の変態、トランスフォーメーション。

2015年、御父をイエスと共有する

あらゆる失望や絶望は孤児の霊から生じる。John Wallerは十代の頃から双極性障害と診断され、抑鬱に縛られてきたが、神を父として知り、解放された。今や、9人の孤児を引き取り、ワーシップ・シンガー・ソングライターとして用いられている。

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。・・・イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」-John 14:18-23

キングダム・インヘリタンス

WOW, IT IS THIS!!!

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに彼を知ることにおいて知恵と啓示との霊を与え、理解*1の目に光を照射して焼き付けて*2くださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの嗣業の栄光の豊かさがどれほどであるかを悟らせて*3くださるように。-Eph 1:17-18(私訳)

霊において見てしまったものや経験したことは、たとえ知的には受け入れられず、また理解できなくとも、どうしても否定できないのだ。この乖離はまことに神の真理と人の事実の違いのコントラスト。聖書をそのまま信じると告白する以上、ヨシュア記10章の太陽が1日止まる現象、また列王記下20章のヒゼキヤ王による太陽が10度戻る奇跡を一切の妥協や歪曲なくそのままに信じる必要があるのだ。もちろんイエスのなされた奇跡やペテロが水の上を歩いた事実、使徒行伝のピリポのトランスポーテーションをも・・・。今回、主が仁王立ちして「これらのことにイエスかノーで答えよ」と迫られたのだ。もはや逃げられない。それはまことに全宇宙の創造者なる神を真に知ることだ。主よ、あなたは神です!

*1:Gk.dianoia=dia+nous;nousはmind(思い)、つまり思いを通して
*2:Gk.photizo、photoの語源:感光と焼き付け
*3:Gk.oida、主観的に把握すること・経験すること

日々キリストのうちに

ファイル 4641-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう(創世記1:26)

 アダムは肉体的にまた霊的に生きる者として創造されました。彼は最初の息から永遠のいのちを得て、エデンの園で神の臨在を享受していました。(訳注:この永遠のいのちとは死ぬことのないいのちの意味)
 さらに、神聖な本能によって生きる動物の王国とは異なり、アダムは思い、感情、意志を持つ神に似た者として造られ、自分で考え、感じ、選択することができました。他の被造物はそのような存在ではありません。
 アダムを造られた後、神は言われました、「人がひとりでいるのはよくない」(創世記2:18)。そこで神は彼にふさわしい助け手を創りました、それがエバです。彼らは共に神に属する感覚を享受し、また互いを楽しんでいました。それのみでなく、神は彼らに目的を与えられました。「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう」と(創世記1:26)。アダムとエバは自分の尊厳を探す必要はありませんでした。彼らはそれを神との関係において保有していたのです。神が彼らと共におられたゆえに、彼らは完全なる安全と保証の内に生きていました。
 永遠のいのち、アイデンティティ、目的、尊厳、安全、そして所属の感覚は、神の形に造られた人類の属性のすべてです。アダムとエバはこれらの属性を最大限味わっていましたし、また私たちもそれらを享受し得る運命にあるのです。しかしアダムが罪を犯したとき、彼は霊的に死に、神が備えて下さったすべてを失いました。神から切り離されて、アダムの輝かしい属性は人が切望する必要となってしまったのです。
 アダムの子孫として神から切り離されて生まれた私たちは、これらの必要を抱えてこの世に生まれました。私たちは人生を通して、自分の名声を獲得すべく奮闘し、一時的な物に自分の安全を担保しようとし、また神から離れて尊厳を獲得しようとします。それは絶望的なもがきなのでしょうか?違います!私たちはこのような必要を、キリストへの信仰により、神との個人的な関係によって確立できるのです。罪を犯す前のアダムがエデンの園で享受していたすべては、今や私たちの手に入るものとされたのです。

 愛する天の父よ、私が永遠のいのちを得るために、私の罪のためにイエスを遣わしてくださったことを感謝します。また、キリストにあって私のアイデンティティ、尊厳、安全、そして所属の感覚も満たされることを感謝します。

TODAY'S CELEBRATION 【Dec 28, 2014】

UPしました。

●タイトル:神の国の地への進攻
●聖書箇所:マタイ6:9-10;10:7-8;ヨハネ14:12など

I Stand In Awe






※この公開用録音にはプライバシーの関係で収録していませんが、この後のプレイヤータイムはやばかった・・・。Outpouring of the Spirit、地上に神の国が現出する経験。天国は行く処ではなく、地上になされるもの。主はそう祈れと命じられたのだ。

※2015年は1月11日から再開します。

心の鈍さのゆえ

聖書はやはりぶっ飛んでいる。私たちの置かれている時空間とその中の法則を超えた世界を描き、その到来を告げているのだ*1。しかし

イエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」-Luke 24:25-26

この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。-Heb 5:11

まことに私のことだ。この心と耳の鈍さは致命的だ。私たちは聖書を自分の世界観(パラダイム)に押し込めてしまう。ある人は神に関する記事として、ある人は宗教の経典として、ある人は道徳の本として、ある人は人間学の書として、ある人は真理の探求書として、ある人は自己啓発や人生の成功指南書として、あるいは自分の霊的成長のマニュアルとして・・・。が、御言葉(logos)をまんま受け取り、内に語られたことば(rhema)として信じることができるならば幸いだ。やはり、やばい・・・。

イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」-Mark 9:23

*1:その完全な現れは次の経綸千年期に成就する。現在の経綸では前味わい(1Cor 13:12;Eph 1:14)。その味わい方はそれぞれの信仰によって差が生じるのだ。

神の国はいのちと統治

このテーマはきわめて大きい。私たちはどちらかというと、これまでいのちに焦点を置いてきた。マルコ書にあるとおりだ。

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:29-29

一方で神の国は統治である。御心が天になる通り、地にもなるように、と*1。天の事実を地上に現出させること。それは再建主義のいわゆる統治主義ではない。あくまでもいのちにある統治だ。

もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。-Rom 5:17

罪により死が支配して、人々をその恐れの中に束縛している地上に、いのちをもたらし、死をも支配すること。

イエスは・・・こう命じられた*2。「・・・行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。-Matt 10:7-8

これはキリスト教なる宗教の拡大ではない。むしろキリスト教は神の国の現出を阻害している。あれこれの神学や伝統や儀式などによって。神の国はロゴスのうちにはない。ドュナミスのうちにこそある。あれが正しいこれが間違っていると不毛な論議する現在のキリスト教、一方でなんでもOK、神に至る道はイエスの御名に限らない、モスレムと同じ神を礼拝している・・・・。

ある人が言っていた:

唯一正しい神学とはキリスト・イエスご自身である!

けだし名言。それはダイナミックな神の国の躍動そのものである。そして

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。-Heb 13:8

*1:私はこのことも知らなかった。何がなるわけ?私たちは何をするわけ?・・・と。
*2:この命令をまじで受け取れるかどうか、やはり迫られている。

チャレンジ・トゥディ

神の国はことば(logos)にはなく、力(dunamis)にあるのです*1。-1Cor 4:20

*1:dunamisはダイナマイトの語源

Page

Access: /Yesterday: /Today: