鍾山即時-王安石
- 2013/06/29 10:06
- Category: 漢詩
- Tag: 漢詩 王安石
Dr.Luke的日々のココロ
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この詩、悠々として、自適の人生を詠っている。こういう境涯に限りなく憧れるのだ。今の世のアンチテーゼとして・・・。
さて、これから東京都美術館でのダ・ビンチ展に。
この世は所詮、浮世狂言・・・。自分も振り返ると五十有余年生きてきたが、人間世界は善も悪もみな夢の如し。此の山の中の小屋の外は、黄梅の時期の夜雨がしとしと、わがみすぼらしい窓に降り注ぐだけだ。
空気が冷たい、風の音がさらさらと鳴る。鳥は鳴き、鶯は友を求め最後の声を振り絞る。そんな晩春の朝を楽しんできた。
雨上りの晴れの朝。空気が実に澄んでいて、清々しい。葉っぱの上の雨の滴がキラキラと光り宝石の様。人の心はどこかに彷徨っていて、神の創造の美を楽しむことができない。もし心がちょっと開かれれば、神はどこにでもいます方。礼拝とはキリスト教の日曜日の忍耐を要するお努めではないのだ。この10年近く繰り返し書いているが、英国NorwichのPenny女史のところでは、いわゆる日曜礼拝なるものは執り行っていない。いわゆる礼拝堂もない。彼らのビジョンはクリスチャンを箱物から解放すること。それは、すなわちキリスト教からの解放に他ならない。
朝のジョッギング。緑がますます濃くなり、簾のようにれている柳の枝も、池を覆い尽くす蓮の葉も、何かを意図しているわけではない。人も少なく静かな中で、カエルの声が響くが、人のために鳴くわけでもなく、その鳴き声を理解することはできない。きらめくさざ波が美しく輝く緑の池に向かって立つと、晩春の鶯の鳴き声が聞こえるが、彼らも自然の神秘を論じるために鳴いているのではないのだ。(こうして自然はすべて意図や計らいなく、無心にただいのちのままに流れていく。)
この時間のスケールが何とも大陸的。多分、大陸では生活、そして人生の濃度が私たちとは違うのだろう。『三国志』以降、この大陸の風に惹かれること、如何ともし難しなのだ。
6月6日梅の日。世情の期待を裏切る波瀾の経済状況。梅雨も空露の中、怪しげな雲が窓を暗くして、夕暮れ時を湿らせてくれた。時節柄の煙のごとき慈雨を願いつつも、いきなり台風が直撃する模様で梅の実も落ちる。梅雨時の嵐・・・。世情も自然も大荒れの昨今ではある。
李商隠については恋愛詩が秀逸であるとしてすでに紹介した。また酒もけっこうイケるのだ。
今、トライしているワイン、VILLA-DES-ANGES-SAUVIGNONの2010年もの。カリスマ評論家Robert Parker氏のお墨付きとか。
そう、酒とくれば、泪と男と女と続く・・・・。「またひとつ女の方がえらく思えてきた、またひとつ男のずるさが見えてきた・・・」、沁みるね。彼ももういないが。