クリスチャンの経験はすべて「契約的」であると再建主義者

再建主義の富井氏のこの記事も、彼らの「信仰」の本質を明らかにしているので採録しておく。

新生とともにクリスチャンの肉(生まれながらの性質)に起きる変化は、復活も、聖化も、すべて「法的」であり、「実際的」ではない。

聖書に「クリスチャンになったら生まれながらの性質は『実際的に』変えられ、聖くなった」と記されていない。

性格が変わったりするのは「聖霊による」という点は同意だ。が、富井氏においては、Yahawehエロヒムの三一性も、法人と同様の契約的なひとつであり、現在は契約的にキリストが天地の全権を得ており、クリスチャンも契約的に再生され、父と子は契約的にそのうちに住むとする。

かくのごとく、彼の聖書理解のフレームは「契約的」VS「実際的」であることはすでに分かった。私の理解は「経綸的」VS「本質的」、あるいは「善悪路線」VS「いのちの木路線」である。

そして彼の論に対しては次の聖句を挙げれば、御言葉自身が論破してくれる。

いま、フェイスとは願われることのサブスタンス(実質)であり、まだ見ていないことの現出(立証)である。-Heb 11:1(私訳)

現在キリストはいのちを与える霊(1Cor 15:45)として、霊のサブスタンスであり、実際的に私たちのうちに聖霊によって住まわれる。聖霊は霊のリアリティを実体化するお方、すべて時空間を超えた永遠のサブスタンスは聖霊にあって実体化されるのである。これがフェイスである。

フェイスとはI-AMの実体化である。-Dr.Luke

追記:古い人と肉の違いや、再生の意味は、人間の構成が体・魂・霊からなることを認めないと理解不能となる。富井氏は一時、この三つの構成を認めていたが、その後、無視しているようである。

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