主はいのちの感覚により導く
唯一の真に価値あるものは直覚(感)である。-A.アインシュタイン
アインシュタインはユダヤ人であるが、肉体を取られたGodを信じてはない。彼のGodはあくまでも創造主であり、宇宙の源としての存在である。それでも彼はこのような真理を語ることが多い。
クリスチャンの場合、再生された霊に霊的領域のサブスタンスがフォティーゾされるが、これが直覚を生む。論理や理屈を超えて、分かるから分かる。I know that I know. いわゆる「聖霊による内的照明(Inner witness of the Spirit)」である。
先にサタンは善と悪の価値判断を通して働くと書いたが、では、善と悪の判断についてはどうなのか、という疑問が出るだろう。これについては次の聖句で回答すれば十分である。
しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。 –Heb 5:14
ここの感覚と訳された単語は”αἰσθητήριον”、Strongによれば-
properly an organ of perception, that is, (figuratively) judgment: – senses.
この語源は”aisthanomai”であり、同じく-
to apprehend (properly by the senses): – perceive.
いずれも新約では一度しか出ていない。要するに、感覚、パーセプションである。それは思想や哲学や論理によるものではない。感覚は生命現象である。つまりいのちの感覚と言える。われわれニュークリーチャーのいのちとは霊(スピリット)である。
アダムとエバが善と悪を知る知識の木の実により知った「善と悪」は二元論的世界の価値判断であり、いのち由来のものではない。ヘブル書の指摘する感覚で判断される善と悪はいのち(Zoe)による直覚的把握、パーセプションである。
すでに現代語で「良心」と訳された単語”suneidesis”については述べているが、語源は”suneido”であり、”sun”+”eido”から構成される。”sun”は「共に(with)」、”eido”は「見る・感知する(percept)」である。すなわち「共同的感覚(co-perception)」である(☞コ・パーセプションによる認知革命)。誰と? もちろん内なる霊が御霊とシェアするco-perceptionである。
あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 –Rom 8:15-16
わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。-Rom 9:1
かくして私たちは善悪を知る知識の木の平面上ではなく、いのちの平面状において生きる存在である(☞善悪を知る木といのちの木)。それはスーパーナチュラルな領域であり、知識によるのではなく、直覚による判断がなされる。それはYHWHエロヒムの判断である。善悪路線における論理や理屈で武装された主張はいのちの感覚が違和感を覚えることを否定できない。われわれは目に見えるところ(ナチュラル)によらず、見えないもの(スーパーナチュラル)により生きる(2Cor 5:7)。
霊の機能には、直覚、交わり、良心の三機能があることはすでに述べている(☞霊の機能と魂・体との相互作用について)。霊は霊の領域をパーセプトする。それは理屈を超えた感覚であり、YHWHエロヒムの御心もフォティーゾされることにより、われわれの霊に投影あるいは感光されるのだ。これを魂(思い・感情・意志)の思いにより人間の言語をもって表現し、語り出されるとき、それは預言となる(☞預言の霊的機序)。これがレーマであり、それは単に情報を伝達する言葉ではなく、霊の塗り込まれたいのちでもある(John 6:63)。
こうして、霊的サブスタンスは五感の領域における現象や物体として実体化(substantiation)される(Heb 11:1)。
今、フェイスとは願われるサブスタンスであり、見ていない事のエビデンス(現出・実証)である。-Heb 11:1(私訳)
かくしてわれわれは次の証しをなす。
フェイスによって、わたしたちは、この世界が神の言葉(レーマ)でフレーム化され、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。-Heb 11:3
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