iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
投稿者: drluke

マトリックス(HB:rechem)とは子宮、その中はもっとも安心で快適な場。狭い参道を通り世に出されることはサブコンシャスの領域に喪失感とトラウマを生む(オットー・ランクの「出生外傷説」)。
人はそれらを補償し、再獲得するために自分にとって快適な領域を作ろうとする[1] … Continue reading。正常ならば家庭や共同体、さらに社会的地位。病理的になると麻原やジャニー喜多川の組織。彼らのマイ・ワールドはまさに彼らにとってのマトリックス。キ業界のナントカ先生のキョーカイやキョーダンなども同じだ。
そこは自分が安心できる快適な空間であり、「神」として君臨できる領域だ。問題はそのマトリックスに巻き込まれ、マニュピレートされ搾取される人々が必ずいること。明確なカルト組織までいかずとも会社などでもこの種の現象は起き得る。
さらに「高い塔を建て、有名になって、散らされないようにしよう」とする動機は必ず聖霊と本質的に対立する。それがニコライ派であり、よってイエシュア自身が憎みかつ戦うとまで言われるのだ。ここで「ニコライ=ニカオ(管理・支配する)+ラオス(一般人・民衆)」であり、啓示録の七つの教会のエペソ(好ましいの意)においてすでに侵入し、ペルガモ(結合・結婚の意)で確立している。ペルガモにはサタンの座が据えられているのだ。
真の安心できる快適な領域とは良き地なるキリストご自身であり、他に求めることはまさに偶像礼拝である。つまり麻原やジャニー喜多川のみでなく、キ業界の教職教団制度も立派な偶像である。
ゆえに終わりの時代、裁かれて打ち倒される前にセコンド・エクソダスせよ、と主は語っておられる。残りたい人はご自由にどうぞではある。それは各自の決断に任されているゆえに、かの日に言い逃れはできない。
かくして現代はふるい分けの時代である。

- 引用聖句:Phil 1:21;John 14:16-26;1Cor 12:12-13; 1Cor 3:9-15 etc.
- 次回:2023年9月23日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

- 引用聖句: John 1:13;3:6;6:15;63;Rom 8:12;12:2-5;Gal 4:19;5:24;Ps 22:11;139:13 etc.
- 次回:2023年9月17日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

この論文はシンクロナイゼイション(波長の同期)の秘密を数学的に解いたとするものである。
複数の非線形振動子は引き込み現象により同期するようになる。心筋細胞も一つひとつでは勝手な周期で振動するが、集まるとある一定の周期で振動する。これが脈動を生む。
キリスト教では馬鹿の一つ覚えのごとくに「教団、教派の一致ぃ~」とかヒスるが、そんなものはフェイク。エクレシアは新生命体であるから、個々の肢体は多種多様でも、イエシュアの名の中に集合する時(ナントカ神学やカントカ先生の名ではないからね!)、互いの相互作用によりある波長のバイブレーションに同期する。もちろんイエシュアの波長である。
その時、個々の肢体のうちではメタモルフォーゼ(メタモルフォーシス)が進行する。古い細胞が新しい細胞=イマジナル・セル(ディスク)=を攻撃するのだ(古い要素と新しい要素の葛藤)。しかしイマジナル・セルが増殖する時、それはある新しい波長のバイブレーションに共鳴し、ひとつに同期するようになる。そしてついに古い細胞は中枢神経や筋肉を除いてどろどろに溶けるのだ(これが成虫になるための養分になる)。これが毛虫から変態した蛹の中で生じる。

続いて蛹の内側ではイマジナル・セルが活発に分裂増殖し、蝶の各器官を形成する。そして・・・ついに蛹が割れて、あの蝶が羽ばたく。栄光の瞬間である!(次の図はハエであるが・・・💦)

これはまさにニュークリーチャーたるエクレシアの増殖と分化による成長(メタモルフォーゼ)そのものである。それは蛹であるわれわれの古き体の内で霊から魂へと構成(モルフォー)されるキリストである。ゆえにエクレシアはエロヒムの増殖を増殖するのである(コロサイ2:19 原文)[1]邦誤訳でいろいろギロン吹っ掛けるのはやめよ。ぼくとディスカッションするのなら、せめて岩波訳か田川訳をどうぞ … Continue reading。
私たちも主によって携え上げられる時、一瞬にしてこの体は変貌する(1コリ15:52)。それは復活のイエシュアと同じ霊の体である(ピリピ3:21)。この希望こそ私たちの究極の希望なのだ!
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。-Heb 10:25
マラナタ!

あの偉大な業をなしたモーセは岩を叩いて水を出した奇跡の前例に従って、岩に命じよと言われた主を信じないで、再度岩を叩いたため、良き地に入ることを禁じられた。
ダビデに反逆した自他認ずる美しさを誇るアブサロムは髪も豊富だったが、それが木の枝に絡んで吊るされたところをヨアブにとどめを刺された。
ヘロデ(アグリッパ1世)は王座から演説をし、大衆から「これは神の声だ、人の声ではない」と”賞賛”(=世辞)を受けた直後、主の使いによって打たれ、虫に刺されて息絶えた。(注:ヘロデとは「英雄的」の意味)
キャサリン・クールマンやジョン・ウィンバー、またビル・ジョンソンの妻のように、癒しを”売り”にする者はしばしば心臓病や癌で死ぬ。自分の”売り”が致命傷となる。
癒しや奇跡を売り物にしたT.B.ジョシュアは会堂が倒壊して多数の死傷者を出し、自身も急死した(原因は公表されていないが、時期的にコロナもあり得る)。
かくしてあなたの名によって徴・不思議をなし、悪霊を追い出し、預言したではありませんかと自己の功績を主張する輩はイエシュアにより、まったく知らないと拒絶される。
先に書いた湘南の豪邸婦人も、終末に備えて物資を備蓄していたが、当のご本人が逝ってしまった。彼女は頼るべき対象を誤ったのだ。
高い塔の会堂を建て、有名になって、散らされないようにしようのボクシはその野心が致命傷となる。ガラスの会堂を誇った繁栄の神学のロバート・シューラーを見てみよ。最期は破産して終わった。
先のブランチ・ダビデアンの教祖コレシュ(=キュロス;火を持つ者の意味)も名前の通り、終末預言解釈を誇り、炎の中で死んだ。
再建主義の旗手富井健氏も自分の論敵にアナテマを送り、コロナも魔女によるブルーウェーブだから、主によって勝利すると宣言しつつ、コロナであっけなく逝った。彼は自分の神学を絶対とし、それに反するもの(ディスペンセイション主義など)を悪魔の教えと断罪していた。
要するに”アイ・マイ・ミー・マイン”は致命傷となる。アーサー・ホーランドのようにマッチョボディやハーレーを”売り”にする者はそれに応じた末路を辿る。まして生誕祭などを受け入れるとは、愚かさの極みだ。おのれの頼りとするところ、誇るところ、ウリにするところ、これがその者の致命傷となる。
なぜなら―
しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。-Gal 6:14
誇る者は主を誇れ。・・・多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。誇る必要があるなら、わたしの弱さを誇りましょう。-1Cor 10:17;11:18;30
福音の真理を語ることにおいては、自己や自己の功績を持ち出すことは主がもっとも嫌うことだと肝に銘じるべきである。つまり主は栄光を他の者に渡すことは決して許されない。
わたしは主(YaHaWeH)、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。-Isa 42:8
ニッポンキ業界の聖会などで頻繁に唱えられる「すべっての栄光をかみっさまにお返しします~」といった臭いマントラは偽善の象徴である。有名どころの末路を見てみよ。特にキ業界でヨイショされた連中のそれを。
真にYaHaWeHの栄光に触れることは、その重さによってひれ伏すしかなくなるものである。栄光(Kabod)とは「重さ」の意味である。マントラなどは入り込む余地はない。
この10年以上、篩い分けの時代であると言ってきているが、コロナがそのために用いられた。篩われる者と留まる者が明確に分けられる時代である。それはすべてわれわれの動機によるのだ。主は外見や達成ではなく、心を見られるお方だから。

現代脳科学と禅学の共通点から自己とフェイスを論じてみよう-善悪の知識の木からいのちの木へ転機せよ
この論考はすでに紹介した自由意志は幻想であるとする大脳科学の論 …
この論考はすでに紹介した自由意志は幻想であるとする大脳科学の論の続きである。
すでに自由意志は幻想であること、しかし検閲により修正が可能であることを紹介したが、この論考もその延長上にあり、大変興味深い。「自己とは何か?」
『意識は本当に現実との相互作用のための記憶システムか? 新しい研究によると、おそらく。』
西洋のいわゆる分析的サイエンスの知見が、すでにかなり以前に説かれている禅的知見に近づいていることを見ることができる。
バドソン博士と彼の同僚は、「画家から小説家に至るまで、多くの、おそらく最も多くの創造的な取り組みは、意識的および無意識的な脳のプロセスが連携して行われた結果である可能性が高い」と述べて、彼らの仮説に警告を発しています。
厳格な学術的議論とは対照的に、いくつかの推測を提供しながら、研究者たちは、アルバート・アインシュタイン、アイザック・ニュートン、ジェーン・グドール、レイチェル・カーソンなどの学術的または芸術的先見の明のある人々は、意識を超えた世界を見ることができたかもしれないと仮定しています。心はそれがそうであることを示唆しています。
「言い換えれば、これらの人々の中には、無意識の脳のプロセスにもっとアクセスできた人もいるかもしれません。」
以上の論と次の説を比較してみよう。1957年(昭和32年)にフロムらと共にメキシコ自治国立大学医学部精神分析学教室主催で開催された、禅学と精神分析学に関するワークショップのテーマをまとめた『禅と精神分析』(東京創元社、昭和35年初版)において、禅学の世界的大家鈴木大拙が無意識と意識についてこう説いている:
神を愛するとは自己をむなしくすること、無心になること、いわゆる”死人となる”のである。つまり意識の制約的な動きに左右されないのである。
無意識の中から意識ある人間が出て来たのである。意識とは一種の飛躍である。しかし飛躍ということは物理学的に言っても接続を断絶するということではない。つまり意識と無意識とは、意識が常に、無意識と絶え間なく連絡を保っているいう関係にある。事実、無意識なくして意識の活動はあり得ないのである。
無意識が本能的なものである限りは、動物的、嬰児的以上を出でない。つまり一人前の人間のものとは言えない。一人前のおとなの無意識とは修練をへたところのものであって、この無意識を通じて我々が赤子の時から身につけて来た意識経験のすべてを変じて、われわれの全存在を構成するものとなすのである。
知恵分別の惑乱を脱却して来い、そうすればもはや恐怖、不安、心配といった厄介なものに攻め立てられる余地はなくなってしまう。この脱却(liberation)が獲得せられる時こそ、実に意識の全領域に修練された無意識が働くのである。
つまり善とか悪という二元的価値判断の世界を脱却せよ、そこに自由があると。それは考えたらそこにはなく、考えるのではなく、じかに見て取ることであると。
われわれ的にはキリストは今や命を与える霊となり(1Cor 15:45)、わたしのいのちとなられた(Col 3:4)、生きているのはもはやわたし(自己)ではない、肉にあっていきるわたしは御子のフェイスのうちに生きる(Gal 2:20)[1] … Continue reading。
はあ、自己は生きてないの、生きてるの、どっちよ? と左脳は考えてグルグル回り(脳内空転現象)に陥る。どちらも真である。前者の自己は善悪の知識の木により汚染された神から分離されたソレ(自意識に生きる自己)、後者の自己はいのちの木により純化された神に依存するソレ(キリスト意識に生きる自己)と、一応説明は可能だ。だが、波動であり粒子であるとされる量子ですら、その実体を把握することはできないのだ。いわんや・・・。このとき、無意識は聖霊による意識により支配され、恐れや不安から解かれるのである。
かくしてわたしと主はもはや「彼-我」の関係ではなく、ひとつだ(1コリント6:17)。フェイスはその方を対象として分析研究するのではなく(ヨハネ5:39-40)、食べ飲みすること(同6:55)、つまり、体験し味わうことである。まことに主は甘く、美味しいお方なのである!
LET’S TASTE THE PNEUMATIC CHRIST !!!
References[+]
↑1 | ここを「御子に対する」と訳すと「わたしが御子を信じる」として、「わたし」が出張るのである。これがプロテスタントの根本病理であるとすでに指摘している。 |
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- 引用聖句: Acts 9:4-5;Eph 5:30;1Cor 12:12;11:29;1Cor 12:13;Heb 10:25;2Pet 1:20-21 etc.
- 次回:2023年9月10日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

もう秋の気配が・・・・・、2023年の夏も終わります。来月の温泉をニンジンとしてぶるさげて、さあ、走れ!

ヨブの陥った罠は自己(セルフ)の呪縛-メタノイアとはセルフ・ドリブンからスピリット・ドリブンへの転機
善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。-伝道書7: …
善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。-伝道書7:16
義人ヨブの元々フェイスには穴があった。だから毎朝、息子たちが神を呪ったかもしれないと恐れて捧げものをしていた(Job 1:5)。ついには恐れていたことが降りかかったと嘆いた(Job 3:25)。
三人の友の”正しい助言”に対して”自己の正当性”を訴え、神すら告発した(Job 9:17 等)。かくして「正しさ」の追求と訴えはヨブの悲劇をさらに深める。
が、若者エリフが登場し、人は年を取れば賢くなるものでもないと口を開き、ヨブの思いをYHWHへと向け直す(思い改めへの促し)。そしてYHWHご自身が直接ヨブに迫り、ヨブはついに自分を退けて”נחם;nacham”したのだ(Job 42:6)。
それは「悔い」改めではなく、「深く息を吸う;自分を慰める;いたわる」の意味である。彼は延々と自己正当化せずにおれない自己から解放されたのだ。まさに身心脱落の経験だ。その後の彼の人生はご存じのとおりである。
まことに-
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、基督のいへになげいれて、基督のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、基督となる。」-道元:正法眼蔵生死(Dr.Luke改)
「基督道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法(いのちの御霊の法則)に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」-道元:正法眼蔵現成公案(Dr.Luke改)
パウロのロマ書の7章では「わたし」が頻発する。が、8章になると「わたし」はほぼ消える。ここにセルフ(ソウル)・マトリックスからスピリット・マトリックスへの跳躍が起きたのだ。身心脱落経験である。
「悔い改めよ~」、「聖霊様の充満~、油注ぎ~」とヒステリックに叫ぶボクシ自身(だけではないが)が、実は内側に葛藤を抱えている[1] … Continue reading。真にメタノイアあるいはナチャムしてない症候群は強迫的にそう叫んでいないと不安なのだ。真にメタノイアあるいはナチャムしている者はその解放感の中にゆったりと生きる。野の花をいとおしみ、空の鳥を愛でつつね。
生きているのはもはや私ではなく、キリストである、今肉にあって生きている私は・・・御子のフェイスのうちに生きている。-Gal 2:20
御子のフェイス。そのうちに生きること。これが中動態的生き方、大脳生理学的にはデフォルトネットワークモードである。ここを「御子に対する信仰」とする邦誤訳は果てしない”自己の信仰”呪縛に導くであろう。プロテスタントの根本的病理である。
かくしてキリスト教をエクソダスし得た者は幸いである(セコンド・エクソダス)。残りたい向きはご自由にどうぞ。

- 引用聖句: Luke 12:15;Prov 4:23;Job 42:2-6;Rom 8:12;Eccl 3:11;Heb 4:3;10etc.
- 次回:2023年9月3日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

この詩は程明道の作品。

左脳からの解放、法に則ること。すると自然と一体となる。テイラー博士の経験と同一なのだ。
書き下し文
閑來事として 従容ならざるは無し
睡り覺むれば東窓 日已に紅なり
萬物靜觀すれば 皆自得
四時の佳興は 人と同じ
道は通ず天地 有形の外
思いは入る風雲 變態の中
富貴にして淫せず 貧賤にして樂しむ
男児此に到らば 是豪雄
釈意:官位を離れて閑散たる生活に入ってからというもの、何事においても心はゆったりとしている。ぐっすりした深い眠りから目覚めれば、すでに朝日が東の窓に赤々と差し込んでいる。周囲の事物を静かに眺めると、各々、はまりどころ得てしっくりと収まっている。四季の織り成す心地よい趣は、人と渾然一体となり移り変わっていく。私の信じる道は天地の間にあって浸透し、その無形の思いは風に流れる有形の雲にまで入り込む気分になる。たとえ富んだ者になっても富に耽溺せず、貧しく低い身分でも生きることを楽しめる。男子たる者、このような境地にいたるならば、真の豪雄である。
程明道(1032-1085):中国北宋時代の儒学者。字は伯淳、明道先生と称された。朱子学・陽明学の源流の一人。河南省洛陽出身。名は顥(こう)、字は伯淳(はくじゅん)。幼くして非凡の才あり。諸国を歴任して政治上の功績あるも、王安石に対立して朝廷を去る。のち召されたが任を拒否し、元豊八年に死去。享年54歳。謚(おくりな)は純公。直観により、自然と一体になる経験を尊んだ。すなわち多様な自然現象を秩序づけている法則を「理」と呼び、この理を直観によって把握すべきであると説いた。(Wikiなどより編集)
主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら・・・」-Jer 33:25
神の法則、理に則って生きること、これが安楽な道。道元の心身脱落。逆らわず、もがかず、身も心も任せること。それは即ち、いのちの御霊の法則だ。
すでに何度も道元を紹介している:

仏教にはそもそも礼拝対象なるものはない。つまりご本尊などはないのだ。それは堕落して世俗化された葬式仏教のなれの果ての姿である。まあ、今見てるキリスト教も同じようなものだが。仏教は徹底した現実認識論。だから現代物理学、特に量子論などとも相通ずる部分がある。「色即是空」などはまさにだ。色はブレインが作り出した幻想(クオリアと呼ぶ)である。その物理的サブスタンスは波長の異なる電磁波(同時に光量子)に過ぎない。
ここでのポイントは自己を離れて法に委ねる生き方を説いてる。これを身心脱落という。現代的には中動態的生き方、大脳生理学的にはデフォルトネットワークモードである。老子的には無為自然。
人生のすべて諸事象はおのれの心が生み出すものだ。
油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。 -Prov 4:23
やはり英訳の方がよろしい:
Keep thy heart with all diligence; for out of it are the issues of life. (KJV)
日本語のガンバルとは「我を張る」ことであり、そこからあまり良いものは出てこない。だから頑な人の人生はヨブのそれの再現となる。散々、自己正当化していた彼も、ついにこう告白する:
わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。
『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずからを退け、ちり灰の中で悔います。-Job 42:2-6
この「悔い」とある単語は”nâcham”、第一義的意味は”console oneself; comfort”である(Strong)。いわゆるニッポンキ業界の「悔い改めよ~」ではなく、「慰められる、宥められる」のだ。自己主張をする向きは実は自分を排除している。ヨブは自分の難点を意識していたのだ。だから必死で三人の友人たちに対して自己防衛をしていた。真に自分自信に対して真実であれば、そのような態度ではなく、もっと自然体、つまり無為自然でいられるのだ。ヨブは最後にその自己防衛をせざる得ない自分から解放されたのだ。
われわれにとっての任せるべき「法」とは、もちろんいのちの御霊の法則である(Rom 8:2)。自己を忘れ、この法に乗る時、自動的にモーセ律法の基準をも満たすのである(Rom 8:4)。かくして再建主義の故富井健氏との対話において、いのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換であると指摘した。それはWindowsとMS-DOSの関係のように、MS-DOSは廃止されたが、WindowsのカーネルにはMS-DOSも働いていて、Windowsを操作するときにはMS-DOSも使うことである。MS-DOSはコマンドを覚え、かつスペルミスなく打ち込む必要があったが、Windowsはクリックひとつで全自動である。MS-DOSはWindowsによってエミュレートされるのである。

ところがマジメなクリ諸君は、自己を忘れようとして、「自我を十字架につけ~」とか「自己に死のう」とかやり出す。これが肉の罠である。それ自体が肉の働きだからだ。そこでパウロはこう指摘する:
それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 -Rom 8:12
明確に書いてある、肉に対する責任はないと。なぜなら-
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。-Gal 5:24
ここの時制はアオリスト、過去における一回限りの事実である。「肉を十字架につけよう」ではなく、「つけてしまった」ピリオド。これをあえて何度も何度も「悔い改めよ~、自我を十字架につけよ~、自我に死ね~」と生きるクルシチャンたち。まことにこの暑さの中でお疲れ様ではある。

これについて道元はこう言っている:

当初、その「法」を自分の外に求め、その周辺をさ迷うだけであるが、「法」がおのれのうちに正しく伝わる時、それがその人の本分となると。つまり聖書的には、キリストがわたしになるのである。そのキリストこそが「法」であって、キリストがわたしのソウル-ボディを通して生き出てくださること、これがエウセベイアの奥義、キリストをエミュレートすることである。
キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、-Rom 15:18
かくして父と子がひとつであるように(just same)、私たちもひとつとなるのである。これがペリコレーシスの奥義である。
主につく者は主とひとつの霊になる。-1Cor 6:17
法に乗れば、二輪車もコマも倒れない。むしろそれは安定し、倒すことが難しいのだ。法とひとつになること。これが永遠のいのちをエンジョイするカギである✨

世の諸事で苦労してるクリたちは目先の対応に追われ、常に後追い状態に陥っている。つまりニーズドリブン。対してフェイスドリブンは常に生起した未来を現在化して経験する[1]私の著書『真理はあなたを自由する-ファクターXの再発見』でも、「信は完成した未来を現在に霊的に逆算する」と書いた。。フェイスの法則(Rom 3:27)を掴めば実に簡単なのだが、ともすれば人はソレを単なる理想論、理屈に過ぎないとしてマジで捉えない。実にもったいないことだと思う。
そしていざ問題が生じるや、カウンセラーやボクシや人生コーチなどを巡り歩く。これで商売している輩もいるから、持ちつ持たれつではあるが、果てしないモグラ叩きの人生になるだろう。
聖書はこう啓示する:
もっとも神のわざは天地創世のときにすでに完成していた。-Heb 4:13
その完成したスピリチュアル・マトリックスに生きることがフェイスである。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた御子の信のうちにあってです。-Gal 2:20(改)
御子の信(フェイス)は時空間を超える。
イエシュアがラザロを復活させたとき、「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」と宣言された(John 11:41)。時空間を超えてすでに結果を得ていたのだ。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を
思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。-Eccl 3:11
ここは永遠を思う思いではなく、永遠そのものを置いたのである。そもそも時間はしつこい幻想であるとアインシュタインも喝破したが、物理法則に束縛されていると時間がリアルに感じられる。私たち、ニュークリーチャーは物理法則を超える領域にあって生きるのだ。
最新の物理学では時間とは何かが問われている。時間という当たり前と考えていたことが必ずしも自明ではないことが明らかになってきたのだ。この時間の中で祈り求め、いつかなえられるか、いついつ・・・と待ちくたびれ症候群に陥るのがクルシチャンたち。こんなに熱心に祈ったのに神はかなえてくれない、なぜだ~と叫ぶ。これがポセイドンアドベンチャー・メンタリティー、神を有責とするのだ。
また一方で、自分の時空間の中における功績を誇る輩もいるが、彼らの運命は次のとおりである:
かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども[2]この意味は、いわゆる悪さをすることではなく、法則に則らないことである。つまりフェイスの法則によらない者たちである。、わたしから離れ去れ。』」-Matt 7:22-23
ニッポンキ業界のボクシの悲願である、「高い塔のある大きな会堂を建て、有名になって、散らされないよ言うにしよう」はバベルの塔の動機であることは何度も指摘しているが、この野心は時空間に束縛されていることの証明である。だから、自分のわざによってそれを達成しようとする。その達成を主の前に持ち出すならば、上記の聖句のとおりである。
お分かりであろうか? フェイスは時空間を超える。それはすなわちこの五感の領域にいる私の何かによらないのだ。御国の中においては、私のボディ・ソウル・コンプレックス(パウロの言う肉)は一切役に立たない。ボディ(体)とソウル(魂)はスピリット(霊)によってドライブされる時にこそ用いられる。ゆえにパウロはこう証言する:
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10
恵みとは何か? 内にあってキリストご自身が活動されることである。ニューマティック・クライストが私のボディとソウルを通して働き出て下さる、これが恵みである。
キリストがわたしを通して異邦人たちの従順のために働かれたこと以外、私は敢えて何も話そうとは思わないからである。〔すなわちキリストが〕言葉とわざにおいて、徴や奇跡の力において、〔神の〕霊の力において〔働かれたことのみを語ろうと思う〕。-Rom 15:18-19(岩波訳)
お分かりだろうか、主語は私ではなく、キリストである! 私のボディとソウルを通してキリストが働き出て下さること、これがエウセベイアの奥義である(1Tim 3:16)。
このときに大切なのは、中動態的生き方である。大脳科学的にはデフォルトネットワークモードと言われる。
道元のことばをクリスチャン的に翻訳するならば、こう言えるであろう:
ただわが身をも心をもはなちわすれて、基督のいへになげいれて、基督のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、基督となる。(正法眼蔵現成公案改)
フェイスは常に時空間における完成された未来を先取りしている。だから問題や欠乏や病に追いかけられる人生から解かれる。なんと安楽な生き方であろうか。このとき、私たちは生活感を醸さなくなる。ニュークリーチャーにはこの世における生活感ではなく、永遠の世界に生きるキリストの香りが漂うのだ。よって老けることもない。常に。プリプリ・ピカピカ・ツヤツヤ・キラキラである✨
マジ受けした人は幸いである。キ業界も含めた世はそんなに甘いものでないと、世に飲み込まれる向きはご自由にどうぞである[3]キリスト教はすでにこの世に組み込まれて、ソドム・エジプト化している。いずれバビロンの主要な構成要素になるであろう。。

- 引用聖句: Gen 20:17;25:21;Matt 6:7-8;2Pet 1:3-4;Phil 4:19; 2Cor 12:14;1Cor 9:7etc.
- 次回:2023年8月27日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

- 引用聖句: Gal 4:3;Col 2:20;1Cor 13:11;Phil 3:15;Acts 17:30;1King 22:21;Matt 4:10;John 13:2 etc.
- 次回:2023年8月13日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。


- 引用聖句: Matt 13:31-32;Rev 18:2-8;2Cor 2:11;Eph 6:11etc.
- 次回:2023年8月6日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。