iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: YHWH

- 引用聖句:Gen 4:26;12:8;13:4;Exo 3:14-15;Mum 6:27;Isa 12:4;John etc.
- 次回:2023年3月12日(日)(パン裂きを再開します)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

- 引用聖句:;John 8:58;17:6;11-12;8:24;28;Exo 3:14; 1Cor 5:4;Col 3:17 etc.
- 次回:2023年2月12日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

呪いと裁きの善悪二元論の道から祝福と恵みのいのちの一元論の道へ回帰せよ-聖書と歎異抄の共通項-
FBで面白い画像を見つけた。John Rockの言葉である[1 …
FBで面白い画像を見つけた。John Rockの言葉である[1] … Continue reading。人に誤りを指摘することと、人に真理を得させることは別のことである、と。まさに律法と恵みの致命的相違である。

YHWHエロヒムはエデンの園の中央に二本の木を植えた。善と悪を知る知識の木といのちの木だ。アダムとエバの行為は繰り返すまでもないが、その結果として彼らはYHWHエロヒムのように「善と悪を知る者」になった(Gen 3:22)。そしてYHWHエロヒムは彼らが罪を得たまま永遠に生きることがないようにいのちの木への道を遮断された(Gen 3:24)。
アブラハムに対する約束は律法を超えてひとつの種、すなわちキリストだったのだ(Gal 3:16)。律法はアブラハムの430年後にモーセを通して天使らを介して与えられたが、アブラハムへの約束を無にすることはなかった(Gal 3:17)。パウロは「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです」(Gal 3:20)と指摘している。つまり律法は「人が神に従うならば神の祝福を得る」という双務契約であるが、恵みは「神がすべてをなす」という片務契約である。
ゆえにYHWHのロゴスたる方が物質化されて人となられた、つまり両当事者となってくださった(主客一体)。イエシュアは神・人(God-Man)である。これが恵みである。

そしてキリストたるイエシュアは死と復活を経て命を与える霊となられ(1Cor 15:45)、今やわれわれのうちに住まう(1John 4:13)。生きているのはもはやわたしではなくキリスト、肉にあって生きるわたしは御子のフェイスにあって生きる(Gal 2:20)。最初の「生きているキリスト」はスーパーナチュラルなスピリチュアル・リアリティ、「肉にあって生きている私」はナチュラルなフィジカル・リアリティだ。つまりわれわれはデュアル・アインデンティを有している[2] … Continue reading。
さて、ひるがえってわが国の親鸞の『歎異抄』にいわく、
みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。
要するに善悪の二元論に生きることは、法則の不思議に頼らず、自分の心のやりくりに頼むことであり、自力の業である、と言うわけ。まさにクルシチャンの精神状態だ(苦行の道)。かくして親鸞の結論は
弥陀[3] … Continue readingの誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
弥陀の誓願不思議に助けられて生きることが極楽浄土への道であると。親鸞はそれを易行という。聖書的にはイエシュアのいのちの御霊の法則に助けられまいらせるわけ。まさにガラテヤ書の言うところである。これが神の国に生きるコツ。絶えず善悪の基準で計らって生きることは死の道、呪いと裁きの道、いのちで生きることは赦しと祝福の道である。

また親鸞は「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言ったが、イエシュアも言われる、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(Matt 9:13)。つまり「正しい人」は招かれないのだ。なんという神の逆説。
宗教の道にある人は自力により善悪を判断して、罪を犯さないように、キリスト教徒として正しく立派な振る舞いをして生きようとする(自力本願)。つまり招かれていないことを心底では知っているゆえに努めるのだ。しかし招かれていることを知っている人はそのようなモガキはしない。弥陀の誓願ならぬ神の意志により助けまいらされるからである(他力本願)。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・・事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。-Eph 1:4;2:8
ちなみに道元も自身の作為によらず法に乗る生き方をこう書いている、
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。-正法眼蔵現成公案
そしてわれらの主はこう言われる:
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂の命(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂の命(原語)を失う者は、それを救うのである。
鍵は魂の努めによらず、自己を忘れ、自己から離れること。まことに心身脱落・脱落心身するとき、いのちの御霊の法則が作動するのだ。すると、律法の要求も満たされる(Rom 8:4)。お分かりだろうか。それはうちなるキリストが働き出てくださることである。かくして主は言われる、
わたしが生きるのであなた方も生きる。-John 14:19
律法は単に善悪を指摘するだけであるが、キリストはその実体としてうちに生きている。まさにJohn Rockの言葉通りであろう。罪を指摘するのではなく(Rom 8:1)、義としてくださった(2Cor 5:12)。うちなるいのちなるキリストが生き出てくださること。そのために神であるロゴスは人となり(ヒュポスタティック・ユニオン)、両当事者として債権債務関係を全うしてくださった(Col 2:14)。まさに主客一体のリアリティーである。ウォッチマン・ニーは「われわれは自発的にキリストを私とせよ」と言っているが、まさにこのことである。
かくして今、うちなるキリストはフェイスにより実体化される。
フェイスのうちにあることを確認せよ、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。-1Cor 13:5(私改)
フェイスによってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。-Eph 3:17
フェイスの道は神の誓願(御心)により、うちなるキリストに助けまいらされる道、平安と安息、そして満足の道である。
References[+]
↑1 | 彼は経験論的認識論を提唱。人は生まれたままではタブララサ(白板)であり、経験により世界を認識するとする。対象そのものが持つ性質を第一性質、主観的なそれを第二性質とし、第二性質のみをわれわれは知るとした。現代的にはクオリアである。光の本質はある波長の電磁波であるが、脳はそれを色として構成する。まさに「色即是空」だ。 |
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↑2 | パウロは死の体から解放されて神に感謝すると叫んだ後、自分は肉では罪に仕えており、マインド(原語)では律法に仕えていると証言している(Rom 7:25)。 |
↑3 | 仏教はもともと礼拝対象を持たない。釈迦も人間であり、自分を礼拝するなと命じており、葬式などにも関わるなと戒めている。「弥陀」とか「法」と言うのは宇宙の法則。禅者はアダムにある人間の自然な法則に従って生きることを志向するわけだ。自分のはからいをやめて(=心身脱落)、「万法に証せられる」わけ。しかしキリストのいのちは得てはいないし、私たちの意味では救われない。救いはイエスの名によることは言わずもがなだ。その意味でユダヤ教が実体たるキリストの影であったように、「弥陀」も真理の「影」と言える。 |

Anyone who becomes seriously involved in the pursuit of science becomes convinced that there is s spirit manifested in the laws of the universe, a spirit vastly supelior to that of man. -Albert Einsten
「科学を真剣に追求する者たちはみな、宇宙の法則の中にはある霊が存在することを確信させられる。それは人間の霊をはるかに越える霊である。」-アルバート・アインシュタイン
All matter originates and exists only by virtue of a force. We must assume behaind this force is the existence of a couscious and intelligent Mind. This Mind is the matrix of all matter. -Max Planck
「あらゆる物質はある力によって生み出され、存在するに至った。われわれはこの力の背後に意識的かつ知的なマインドの存在を認めなくてはならない。このマインドはあらゆる物質のマトリクスである。」-マックス・プランク
聖書にはこうある:
・初めに(=時間)神は天(=空間)と地(=物質)を創造された。-創世記1章1節[1]創世記の「初め」は時空間の開始点としての初めであり、ヨハネ福音書の「はじめに」は時空間を超えた永遠の領域におけるはじめである。
・神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。-ローマ書1章20節
・神は霊である。-ヨハネ福音書4章24節
・託宣/イスラエルについての主の言葉。すなわち天をのべ、地の基をすえ、人の霊をその中に造られた主は、こう仰せられる。-ゼカリヤ書12章1節
・信によって、わたしたちは、この世界が神の言葉(=レーマ)で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 -ヘブル書11章3節
最近の『超弦理論』では11次元時空間における膜構造をなすスーパーストリングの振動、バイブレーションが宇宙を構成していると言う[2]アイキャッチ画像は11次元のうち、丸まっている6次元空間。カラビー・ヤウ空間と呼ぶ。その性質はまだほとんどわかっていない。。聖書はすでに紀元前千年頃にこう言っている:
・その響き(=弦)は全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。-詩篇19篇4節
現代物理学の最前線では神の存在を認めざるを得ないのだ。この神とはYHWHエロヒム、エロヒムの中の最も高き存在Elyon、日本のアニミズム的「八百万の神」ではない[3]これらの神々も世界に配置されたエロヒムとも言える。。宇宙のクリエイター、創造主そのもの。最近は「サムシング・グレイト」によるID理論(インテリジェント・デザイン説)が欧米のサイエンティストに流行しているが、この存在は誰か。私の著書『神の新創造』ではこれらのアインシュタインやプランクの発言に応答する内容となっている。

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。-John 17:6
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」-John 8:58
イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。-John 14:9
「わたしはある」とはいる/いないの問題ではない。モーセに対してYHWHはこう出現された:
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖のエロヒムが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
エロヒムはモーセに言われた、「わたしは、有って有る
者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。エロヒムはまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖のYHWHエロヒム、アブラハムのエロヒム、イサクのエロヒム、ヤコブのエロヒムが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。 -Exo 3:13-15
YHWHとはヘブル語ではこうなる:

これはヘロデがイエシュアの罪状書きに記したセリフであるが、律法学者たちはこれを見て慌てふためいたのだ。なにしろそこには「ヨッド・ヘイ・ヴァヴ・ヘイ」とあったからだ。それはI-AM(ありてある)のとこしえの名。しかもそれは呼び名なのだ。
ありてあるとはI-AM-THAT-I-AM。ヘブル語では-

すなわちイエシュアとは「YHWHがわが救い」の意味であるから、イエシュアを呼ぶとき、I-AMを呼んでいるのだ[1] … Continue reading。その名はすでにイエシュアにより明らかにされた御名であり、呼び名である。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神があるもの(原語)であること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。-Heb 11:6
実はサタンは御名を憎悪しておりかつ同時に恐れている。だからクリスチャンの口を塞ぐのだ。そもそもエクレシアの可視的定義は-
コリントにある神のエクレシアへ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。-1Cor 1:2
HRBではもっと明確である-
to the Congregation of YAHWEH which is in Corinth, those having been sanctified in Messiah Yahshua, called out saints, with all those calling on the name of our Master Yahshua Messiah in every place, both theirs and ours:
サタンは自分を隠すことによりその仕業をなす。正体を暴かれることを最も恐れる。当時はキリストVS.ユダヤ教の対立、現代ではキリストVS.宗教体系化されたキリスト教。ペルガモでサタンの座が入り込んでいるわけで、あの者が自分を隠すには最適の場所がキリスト教である。彼の隠れ家としては最適だ(☞エクレシアの歴史について)。
わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。-Rev 2:13
この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。-Rev 2:20
またイゼベルについては-
彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』-Rev 18:7
と暴露されており、彼女はやもめであることを認めがたいのだ。そこでイゼベルはキリストの花嫁であるエクレシアを詐称し、それを自分の足下に置きたいのだ。主ご自身が裁くであろう(Rev 2:16)。
私たちはイエシュアの証人である(Acts 1:8)。イエシュアはすでにご自分をI-AMであると御名を明らかにされている。同時にイエシュアは100%父を露わにされた。ここでいつもながら「黙示録」なる訳語が悪い、「啓示録」である。啓示とは開かれたもの。すでに何も隠されていない。ゆえにそれはイエス・キリストの啓示である(Rev 1:1)。
ボクシの説教でも「かみっさまわ~」が連呼される現代おいて、生の御名を回復する必要がある! 御名は生きている![2] … Continue reading
自分を隠したい霊はサタンの霊。イエシュアは私たちを通してご自身を現されるのだから。イエシュアはその肉体を通してYHWHエロヒムを現された。私たちはその肉体を通してそのイエシュアを現す。こうしてI-AMが私たちの肉体を通して表現される[3] … Continue reading。これがエウセベイアの神秘である。われわれの霊は魂を肉体を通じて聖霊とブレントされつつ流れ出る。
われわれの体は文字どおりキリストの体である。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。-1Cor 6:20
現経綸の体でもこれが可能だ。いわんや次の経綸において得る霊の体はどれほどであろうか!?
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。-Phil 3:21
一瞬にそれはトランスフォームされるのだ(1Cor 15:52)。これこそが私たちの究極の希望。
主よ、来たりませ!
References[+]
↑1 | よく聖霊派あたりでは、聖霊様~とやったり、父なる神様、子なるキリスト様、聖霊様と三者に義理立てるとか説教するボクシもいるが、イエシュアはYHWHが救い、すなわち父・子・聖霊をすべて含む名である! イエシュアを呼べばI-AMを呼んでいるのだよ。 |
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↑2 | アメリカでもオバマ時代においてJesusの名を消し去ることがなされた。彼らにとって実に目障りなのだ。しかし私たちにとっては甘い御名であり、呼び求めるときにはエクスタシーに包まれる名である。ここで霊の本質が明らかにされる。 |
↑3 | 肉体そのものが汚れているとするのはグノーシスである。彼らはイエシュアが汚れた肉体を持つはずがないとして、あのイエシュアは仮の姿であるとした(仮現論)。これに対してヨハネは「わたしたちが見てさわったもの」として明確にイエシュアの物質性を証しされている。パウロも「御子は、肉によればダビデの子孫」とし、霊的には「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」と証言する(Rom 1:2-4)。 |

量子物理学の専門家Hotta先生との対話を採録しておく。真の実在とは何か? もちろんYHWH、すなわちI-AMなるお方である。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ・・・・Exo 3:14
面白い。五感における一種の「像」に過ぎないということだろうか、それを実在と思い込まされている、と。ぼくは浮世狂言と言ってきているが。 https://t.co/u3z7oGAaIt
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) December 2, 2021
醒めると消えてしまう夢とは違って、生まれてから死ぬまで量子VRゴーグルはスイッチを切ることも外すこともできず、その「実在」は消えない連続性を持つという点を踏まえて頂ければ、その通りです。
— Masahiro Hotta (@hottaqu) December 2, 2021
覚めない夢と。なるほど、ありがとございます。
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) December 2, 2021

まずはいつものDr.Heiserを紹介しておく-
神は本質を一にして、三つの区別されるパースンズ(三位格)におわすお方。これがいわゆる三位一体の神学公式である。そしてYHWHを「主(LORD)」、Elohimを「神(God)」と訳すことから白いキリスト教はヘブライ語のマトリックスから逸脱していることは何度も指摘している。
Elohimは霊的生命体の分類カテゴリーであり、種々のElohimが存在するのだ[1]疑う者は不毛な議論をする前に、まず自らヘブライ語聖書を参照せよ。新改訳などの邦語訳を持ち出す筋は取り合わないからそのつもりで。。そしてその最も高きElohim(El Elyon)がYaHaWeHであり、それはその存在者-EHYAH ASHER EHYAH (I AM THAT I AM)-の固有名詞である。そしてYaHaWeHは三つのパースンズからなる。もちろん、父・子・聖霊である。なお、これから引用する聖書はHebrew Root Bibleである。
And YAHWEH (on earth) rained fire and brimstone on Sodom and Gomorrah, from YAHWEH out of the heavens.-Gen 19:24(HRB)
ここで分るのは地におけるYAHWAEHと天のYAHWEHが存在することだ。この聖句についてHRBの脚注にこう指摘されている:
No man has ever seen Yahweh the Father (Joh 1:18, 1Jn 4:12) so this is Yahweh the Son and this scripture shows that Yahweh is a family name consisting of two Yahweh beings, Isa 44:6, Psa 110:1-2, Jer 23:6.
要するにYAHWEHとは家族名であって、Yahweh the Father と Yahweh the Son がおられ、二つの Yahweh beings から構成されるというわけである。
And Elohim said to Moses again, You shall say this to the sons of Israel, YAHWEH, the Elohe of your fathers, the Elohe of Abraham, the Elohe of Isaac, and the Elohe of Jacob, has sent me to you. This is My name forever, and this is how I should be remembered from generation to generation.-Exo 3:15
ここではElohim(複数形)とElohe(単数形)を使い分けている。霊的にはアブラハムは父なる神を、イサクは子なる神を、ヤコブは聖霊なる神の型である。注意すべき点は、YAHWEHはElohimであるが、Elohimは必ずしもYAHWEHではない。繰り返すがElohimは霊的生命体のカテゴリーである。
For your Makers are your husbands; YAHWEH of Hosts is Their name; and your Redeemer is the Holy One of Israel; He is called the Elohim of all the earth.-Isa 54:5
ここにある創造主は複数形である。HRBは次のようにコメントしている:
(716) This word is plural in Hebrew and shows 2 beings at creation (Psa 149:2, Ecc 12:1).
すなわち御父は言葉を発することにより、ご自分のロゴスである御子にあって万物を創造されたのだ。そのためのプラットフォームを聖霊が用意されていた。
Yet the earth became a chaos and vacant, and darkness was on the surface of the submerged chaos. Yet the spirit of the Elohim is vibrating over the surface of the water.-Gen 1:2 (CLV)
エロヒムの霊が水の表を覆い、バイブレートしていたのだ。バイブレートとはエネルギーを与えること。そしてこの「バイブレートしていた」と訳された単語”râchaph”の意味は
A primitive root; to brood; by implication to be relaxed: – flutter, move, shake. (Strong)
つまり孵化することである、しかもリラックスして。そしてヘブル書はこう証言する:
In many ways and in various ways of old, Elohim spoke to the fathers in the prophets; in these last days He has spoken to us in the Son, whom He appointed heir of all; and by whom he made the worlds; for He is the brightness of His glory, and the express image of His being, and upholding all things by the power of His Word; having made purification of our sins through Himself, He sat down on the right hand of the Majesty on high, (Psa 110:1)-Heb 1:2-3
もっとも高きElohimはかつては預言者たちに部分部分を語ったが、終わりの日には御子にあって語り、御子をとおして万物(アイオン)を創造された。かくして最も高きElohim(El Elyon)であるYAHWEHは父・子・聖霊から構成されており、たとえると、父はプログラマー、聖霊はプラットフォームとしてのOS、そして子はアプリとなるだろう。WindowsにしてもiOSにしても、OSは決して表には出ない。あくまでアプリケーションを作動させる舞台を備える。そしてそのシステムはプログラマーによって書かれたのだ。
ゆえにジーザスはこう言われた-
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。・・・
イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。 –John 14:17-23
その日とはいつのことか? もちろん聖霊が来られる日である。その日には「わたしたちがその人と住む」のだ。わたしたちとは? もちろん父と子である。子は父のうちに(in)おられ、私たちは子のうちに(in)おり、また子は私たちのうちに(in)おられるのだ。つまり私たちのうちにはYAHWEHの三者が住まわれる! そして聖霊は
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。 –John 16:13-15
聖霊はジーザスのものを私たちに伝達してくださる(☞聖霊の経綸的働き)。そのジーザスのものは御父のものである。キリストの経験はすべて私の経験である(☞スピリチュアル・エンタグルメント)。かくして私たちはアダム系の古い記憶と言葉によって生きるのではなく、キリスト系の聖霊のメモリ―と言葉によって生きるのだ。外なる言葉(聖書)と内なる言葉(聖霊が伝達するジーザスの言葉)が合致する時、私たちは霊において霊の光をゲットする。これがフォティーゾである。

かくして聖霊様の充満~、油注ぎ~と騒ぐことの愚かさがわかるであろう。スマホを使うとき、あるいはPCを使うとき、OS様の充満~、OS様の油注ぎ~とやるのはナンセンス。ただアプリを起動すればよいのだ。これが御名を呼ぶことだ。この点、ベニー・ヒンは2015年頃、かつての自分の教えは誤っていたとして、聖霊を求めるは誤りであり、ジーザスを求めればよいと言い出したことはすでに紹介している。ゆえに聖霊は「ジーザス・アンリミテッド」と。これは実にいい言葉である。
繰り返すが、エクレシアの霊的定義は「すべてにおいてすべてを満たす方の充満」(Eph 1:23)、また可視的定義は「至る所でわたしたちの主イエス・キリストの御名を呼び求めている人々」(1Cor 1:2)である。イエシュアとはYAHWEHが救い、つまりイエシュアを呼べば父・子・聖霊を呼ぶのである。エクレシアはいのちを与える霊となられた(1Cor 15:45)キリストのいのちをインヒュージョンされたひとりの新しい人、宇宙的なキリストの体であり、霊的生命体、ニュー・スピーシーズである。それはYAHWEH家の一員とされる特権である[2] … Continue reading。キリスト教なる宗教体系をエクソダスした人は幸いである。

TODAY’S CELEBRATION Mar 21, 2021:I-AM のスーパーサブスタンシャル・パワーVII-Jehovah Mephalti
引用聖句:Ps 18:1-50 etc. 2021年3月28日 …
- 引用聖句:Ps 18:1-50 etc.
- 2021年3月28日(日)
- 場所:鶴見駅前ホール第一&第二会議室
- 時間:13:00-16:00
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

創造主なるお方はいくつもの御名をもってご自身を啓示される。日本語で読む限りその豊かさを味わうことができない。今、シリーズでメッセしているが、今回の分をまとめておこう。
אלהים = Elohym (Gen 1:1):エロヒムを「神」とか「GOD」と訳することがキリスト教なる宗教に堕する原因であると指摘している。エロヒムについては、Dr.Heiserの”The Unseen Realm: Recovering the Supernatural Worldview of the Bible” を参照のこと。このブログでも何度も指摘している(☞エロヒム)。
יהוה אלהים = YaHaWeh Elohym (Gen 2:4):היה (AM)から派生したיהוה=YaHaWeh、意味は self Existence =自存者。人を創ったのはYaHaWeh、ではYaHaWehは誰が造ったのか?という質問は ill posed(設定ミス)。何にもよらず、ただ存在する方。物理的にも局所的実在は幻想であるが、存在とはこの方そのものである。
この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質(サブスタンス)の真の姿であって、その力ある言葉(レーマ)をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。-Heb 1:2-3
万物はこの究極の存在によって存在するようにされた。そしてその言葉、レーマ(今・ここで語られている生きる言葉であり、したがってバイブレーション)により支持されている。
לאל עליון=El Elyon (Gen 14:18;22):最も高きエル、エロヒムは霊的生命体のカテゴリであることはすでに指摘しているが、その中の最も高き存在。
אל שׁדי=El Shadday (Gen 17:1):全能の神と訳されるが、これでは平板。エル・シャダイとは、乳房なる神である。ピクトグラムでは、シン=二本の前歯、ダレト=扉;垂れ幕、ヨッド=手;働き、これで乳房の意味となる。赤子にとっては自分の存在を維持する唯一の根拠が母の乳房だ。アブラハムが99歳、男として終わったと見えた時に出現した供給の神。しばしば、われわれの肉の力が尽きたときに主は出現されるのだ。
אל עולם=El Olam (Gen 21:33):エル・オラム。オラムとは永遠と訳されているが、その意味は”Beyond the field of vision of time or space”。すなわち時空間の視界を超えた領域におられるお方だ。この時空間の局所的実在は幻想であると量子論は教えるが、その時空間の外におられるお方。よって過去・現在・未来はすべてその方の中に包含される。われわれの経験する時間とか空間はブレインが作り出したクオリアであり、幻想である。真のリアリティ、すなわち存在はI-AMなるお方そのものである。
אהיה אשׁר אהיה=haya asher haya (Exo 3:14):モーセが燃える芝の場でお会いした存在。英語で言えば、I AM THAT I AM、ありてある、だ。そしてこのお方の名が「ある(הָיָה)」すなわち”I-AM”である。これを「主」とか”LORD”と訳してしまうがキリスト教。固有名詞はそのままにすべきである。あえて訳せば「在」である。
יהוה=YHWH (Exo 6:2):モーセに対して初めてYHWHとしてご自分を現わされた。アブラハム、イサク、ヤコブには啓示されなかった御名である。これは”הָיָה”から派生している。したがって、やはり”I-AM”である(☞I-AMのパワー)。
そして時代は新約時代へ。ジーザスはご自分を”I-AM”であると宣言されたのだ。
だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。-John 8:24
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。-John 8:28
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」-John 8:58
事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。-John 13:19
そしてヘブル書の記者もこう証しする:
フェイスがなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が”ある(I-AM)”であり(原意)、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。-Heb 11:6
かくしてYHWHの第二格であるロゴスにして御子なる存在が五感の領域に物体(肉体)化されて幕屋を張られた(John 1:14)。そしてこう宣言された:
ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。 -John 14:9-10
こうして父を子が100%現わされ、その子の言葉とわざを聖霊が、今・ここで、私たちに現わされる:
イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。 -John 14:23
わたしたちとは父と子である。聖霊が来られるとき、父・子・聖霊のYHWH(I-AM)がわたしたちのうちに住まわれるのだ。その聖霊は、子が父から受けたものを私たちに伝達し、子のことばとわざを実体化してくださる。聖霊はいわばOSのような存在、アプリがキリストである。
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。-John 16:13-15
かくしてYHWHの三つのパースンズは経綸的に私たちにおいてその御計画(オイコノミヤ)を、この五感の領域において実際のものとして現出してくださる。これがフェイスである。
今、フェイスとは望まれることの実体(サブスタンス)であり、見ていないことの実証(エビデンス)である。-Heb 11:1(私訳)
ゆえに、ジーザスは言われた、「YHWHのフェイスを持て」(Mark 11:22)と。またパウロも「御子のフェイスによって生きる」(Gal 2:20)。今や、キリストは命を与える霊となられ(1Cor 15:45)、聖霊により私たちのうちに生きる(2Cor 13:5)。かくしてわれわれはジーザスのこの言葉を経験するのだ。
わたしが生きるのであなたがたも生きる。-John 14:19
今回のメッセでは、スバル360の360ccエンジンを3リッター6気筒エンジンに換装する譬えで説明した。これが十字架におけるいのちの交換である。
キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。-Col 2:9-10
この節については次のAmplifiedを極私的には好んでいる。
For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature]. And you are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature].
ゆえにエクレシアとはキリストの充満である(Eph 1:23)。こうしてYHWHは経綸の中で、人類にご自身を段階的に(progressive)に啓示され、ついには私たちのいのちとなってくださったのである(☞神のエコノミー-いのちのディスペンセーション-)。PTL✨

TODAY’S CELEBRATION Jan 31, 2021:YaHaWeHとクオンタム・フェイス
引用聖句:Matt 6:11;Mark 11:22;Gal 2 …
- 引用聖句:Matt 6:11;Mark 11:22;Gal 2:20;John 6:50 etc.
- 2021年2月7日(日)
・場所:鶴見駅前ホール第二会議室
・時間:13:00-16:00 - プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

そう、街は大きな鳥かごなのね、みんな飛べないの
人間の心理とは事に面白いものだ。貧困者がMMTを否定し、財務省の緊縮財政を是とし、クルシチャンが自分を縛る宗教の儀式や伝統を擁護する。かつて人質が誘拐犯に心理的な共感を覚える事件が起き、それをストックホルム症候群と呼ぶ。
1973年8月、ストックホルムにおいて発生した銀行強盗人質立てこもり事件(ノルマルム広場強盗事件)において、人質解放後の捜査で、犯人が寝ている間に人質が警察に銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていたことが判明した。また、解放後も人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行った。
人は、突然に事件に巻き込まれて人質となる。そして、死ぬかもしれないと覚悟する。犯人の許可が無ければ、飲食も、トイレも、会話もできない状態になる。犯人から食べ物をもらったり、トイレに行く許可をもらったりする。そして犯人の小さな親切に対して感謝の念が生じる。犯人に対して、好意的な印象をもつようになる。犯人も人質に対する見方を変える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ストックホルム症候群
悪魔は全世界を欺く者(Rev 12:9)。まことに世界(οἰκουμένη)は欺かれている。緑のタヌキが当たり前に当選するこの国。この世界には言わずもがなキリスト教なる宗教体系も含まれる。すなわちフェイクである。このフェイクの鳥かご(=マトリックス)の中で、ある価値基準に従って生き、その基準を満たすべく努力する。それがまったくハマルティア(的外れ)であったとしてもだ。
それどころか、自分を束縛し、自由を奪う者を擁護すらするようになる。自分の属する教団や牧師を懸命に守ろうとする。それはソレがその人のアイデンティティーの一部に組み込まれたことを意味する。つまり自分を擁護しているだけなのだ。自分の歩み、自分の達成、自分の記憶・・・・etc. われわれエロヒム属はキリストの達成と記憶により生きるのだが。
こうしてそのマトリックスの中で延々と過ごすことになる。啓示録12:9の全世界の単語”οἰκουμένη”の語源は”οἰκέω”であり、Strongによると-
to occupy a house that is, reside (figuratively inhabit, remain, inhere); by implication to cohabit: – dwell.
すなわち、居住する領域、つまりこの五感の領域である。この五感の領域はわれわれの五感のセンサーによって感知され、電気信号に変換され(コード化)、大脳においてデコード化されて知覚として内的に実体化される。これをクオリアと呼ぶ。このクオリアの集合体の体系-マトリックス-がその人にとってのパーソナル・リアリティーであり、その最大公約数的部分がいわゆる常識的世界観である。これが共同体とその文化や慣習からズレると、人格障害として、社会や他者との摩擦を生じるようになり、無意味なトラブルを生じる。
人はみなこのマトリックスの中に閉じ込められている。だから、コロナ怖い、マスクしよう、マスクしない奴は非国民だ、経済を止めても自粛、国が何もしなくてもひたすら忍耐・・・。ついに5月の消費動向指数は実質▲16.5%と脅威の数値を記録した。

失業率が1%上がると、自殺者数が2,300人程度増加する。今はUber Eatsなどのギグ・ワークにより日々食つなぐ若者が増加している。が、彼らは止まれない独楽のようなもので、長期の人生設計は描けない。こうして自分の体と魂を売っているのだ。まことにバビロンの商品は、金・銀・宝石・・・・・奴隷・人の魂とあるとおりだ(Rev 18:12-13)。
キリスト教も同じ。鬱病になる牧師は多いことはもはや常識だ。さらに自殺する牧師も増加しているようだ。コロナ騒動で食うに困る牧師も出ているらしい。そして彼らを援助することが近喫の課題とか叫ぶ向きもある。愚かしい、まずいラーメン屋のオヤジを誰が援助するだろうか。店をたためば良いのである。簡単な事だ。
(2021.06.05追記:ついに『牧師のリジエンスー逆境でも燃え尽きない再起力』なる本が出てしまった😱)
信徒も「かみっさまわ~」とヒスるワンパタンの説教を聞かされて、毎日曜日のお勤めをこなすことにより自分の信仰のアリバイを作っている。ある有名牧師が自分は50年間ただの一度も日曜礼拝を休んだことがない~と豪語していた。ま、ご勝手にどうぞだ。それも今回のコロナで見事にストップされた。日曜礼拝などに出る出ないはフェイスとは関係ない。聖書は「集まることをやめるな」と勧めているが、それは宗教儀式を守れと言うことではない。
ニッポン社会とニッポンキリスト教は合わせ鏡だとずっと指摘しているが、どちらも経済的デフレに霊的デフレで縮小するだけ。なにしろキリスト新聞がこのように証ししているくらいだ。

キリ新は絶滅危惧種、教会は限界集落。極私的には廃墟になるべしと前から言っている。まことの主の業はその廃墟から芽生えるのだから。キリスト教なるマトリックは消え去るのみ。かくして、鳥かごから飛び立ち、ケージから逃れる方法はフェイス。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ観測されていないことのエビデンス(証明・現出)である。-Heb 11:1(私訳)
エレミヤ16章にあるとおり、宗教の捕囚からの第二のエクソダスをせよ!

「地を治めよ」(Gen 1:28)-この原初的委託を今の経綸においていかに成し遂げるのか。いつもの再建主義の富井氏の論は次の通りである。
それは風呂場が神の国であり、その中のカビのコロニーがサタンの領域で、それをカビキラーで駆逐するようなものであると・・・。
さて、聖書はいかに語るか-
【賛歌。アサフの詩。】エロヒムは神聖な会議の中に立ち/エロヒムの間で裁きを行われる。
「いつまであなたたちは不正に裁き/邪悪な者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/邪悪な者の手から助け出せ。」
彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
わたしは言った/「あなたたちはエロヒムなのか/皆、エルヨンの子らなのか」と。-詩編82:1-6
エロヒムは霊的生命体の総称であることは何度も繰り返している。いわゆる白いキリスト教はこの概念を取り違えていわゆる一神教を生み出した。エロヒムは生物の分類の「ドメイン」とか「属」とか相当するメタ概念であり、その最も高きエロヒムがありてあるYHWH (EHYAH ASHER EHYAH) である。この詩編ではElyon (The most High)とされている。

この神聖な会議にはエロヒムが参加している。裁定を行うのはYHWHである。そしてわれわれエロヒムの霊をインプラントされて、エロヒムから生み出されたニュークリーチャーも参加するのだ。われわれ(の霊)はすでに栄光化されたエロヒムの霊。文字通りのYHWHエロヒムの子供である[1]われわれはエロヒムとして同じ生命をYHWH(父・子・聖霊)とシェアしている。が、YHWHとはパースンとしては異なることはすでに何度も述べている。。

天とは霊的領域であり、そこには諸々のエロヒムが存在する。地とはこの物理的五感の領域であり、霊的領域のリアリティーを<今・ここ>に実体化するパワーがフェイスである。そこで主は天を裂いて地に介入された(Mark 1:10)。すでにソドム・エジプト化されたキリスト教の「エロヒムの概念」を文字通りメタノイア(マインド・シフト)する必要があるのだ。オリジナルな聖書の啓示はマルチ・エロヒム・ワールドである(エロヒム自体が複数形)。
イエシュアは詩編82編を引用して言われた-
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたはエロヒムである』と書いてあるではないか。
エロヒムの言を託された人々が、エロヒムといわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。-John 10:34-36
ここの「託された」とある原語は”ginomai”であり、存在せしめる・内在化するの意味である。すなわちYHWHエロヒムの種(霊的DNA)を組み込む(infusion)ことに他ならない。
御父は、御心のままに、真理の言葉(ロゴス)によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-James 1:18
肉から生まれるのは肉であり、霊から生まれるのは霊である。-John 3:6
神から生まれた存在は皆、罪を犯しません。神の種(sperm)がこの内にいつもあるからです。これは神から生まれたので、罪を犯すことができません。-1John 3:9
つまりわれわれ(の霊)はエロヒムの種を組み込まれており、われわれ(の霊)はエロヒムである。自分のアイデンティティーをしばしば肉(=体と魂とその在り方)においているのが、キリスト教徒である。これで再建主義のように、メーソンやイルミナティの陰謀を祈りによってモグラたたきのように駆逐することに追われるのだ。
エロヒム属としての統治の仕方は、まさにこの神聖な会議において開始される。この決議あるいは裁定を地において執行するのだ。別にわれわれがリキを入れて反逆の霊ども(彼らもエロヒムである)と戦うのではない。最も高きエロヒムの裁定を得て、それを宣告するだけ。この天と地はエロヒムの権威のネットワークであり、すべてエロヒムはYHWHエロヒムに服さざるを得ない。
ゆえにイエシュアはこう宣言された-
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」-Matt 28:18-20
われわれは神聖な会議の参加者(議員)として、このYHWHエロヒムのマトリックスとプロトコルに従って振舞うのみ。するとそれは自ずと現出する。これがフェイスであり、「天に御心がなるとおり地にもなるように」の実際であることは言うまでもない。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実体・実質)、まだ見ていないことのエビデンス(証明・現出)である。-Heb 11:1(私訳)

ここでも、メッセでも繰り返し指摘しているが、Elohimを「神」とか”God”と、YHWHを「主」とか”LORD”と訳してはならない。特に”God”は元々バビロンのいわゆる神の名称である。もとより「神」は日本の概念であり、聖書の原語におけるElohimやYHWHからは相当に離れている。
このElohimが霊的生命体の”residence”あるいは”domain”であることはDr.Heiserがその著書 “The Unseen Realm: Recovering the Supernatural Worldview of the Bible “において解き明かしていることはすでに私のセミナーでも紹介している。
これらの概念の差はいわゆるキリスト教の歴史の中で構成されたキリスト教神学が元凶であり、それはオリジナルの聖書のマトリックスとはかけ離れた人造のマトリックスである。
最近ではこのことが徐々に広まりつつあるが、たまたま発見したこのチャンネルは私とほぼ同じ見解である。
まずはElohimに関して-
最も高きElohimであるYHWHについて-
そして新しい霊的生命体としてのわれわれについて-
特にこのビデオでは、先に書いた通り、われわれが二つの領域-霊的領域と物理的領域-に生存する存在、デュアリティに生きていることを指摘している。
要するにクリスチャンとはキリスト教徒などではないのだ。教団や教派に属し、正統なキリスト教の教義を信じて、毎週日曜日の午前の正当な礼拝に出席して、立ったり座ったり、牧師の説教と祝祷を受けてお勤めご苦労様です、と。これは単なる宗教のマトリックスのプロトコルに過ぎない。
聖書は生命現象の書である。われわれはエロヒムの霊をインプラントされたニュークリーチャー。うちにはYHWHが住まい、特にキリストが生きて下さる存在。つまりYHWHのエミュレーターである(Eph 5:1)。
鳥のヒナは孵化したときに始めた見たモノを親鳥と刷り込まれる。ニッポンキリスト教で”生まれた”者はそこで初めて見たモノを「信仰」と刷り込まれる。これで延々とキリスト教の中で生かされることになる。
終わりの時代、YHWHエロヒムはこのような宗教のマトリックスからご自身のZOEをインプラントされたエクレシアを解き放とうとされていることを感じる。まことに一度言語の罠にハマるとそこから抜け出ることが困難であることは、ザイセイハタン論者がMMTを理解しないか、あるいはあえて拒絶することからもわかる。たとえそれが滅びへの道であったとしても。
真理を知り、真理はあなたがたを自由にする、ことを身を以って体験した者は幸いである。

いま、フェイスとは・・・で始まるヘブル書11章。旧約のいわゆる信仰の偉人たちのリストである。彼らを見てあなたはどう感じるであろうか。ああ、私など凡人の及ぶところではないと・・・。が、よく読んでほしい。最後の節にこうある-
さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちを外しては彼らが全うされることはない。-Heb 11:39-40
英語では、彼らは”without us”では完成されないのだ! WOW! 裏を返せば、われわれにより完成される。自分をこの英雄の業と比較してみよ。とてもではないが太刀打ちできない、と感じるであろう。しかし、主もこう言われる-
あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。-Luke 7:28
お分かりだろうか。これは業の問題ではない、存在の問題である。旧約の英雄たちは信仰によって義とされ、証しされたが、「約束のもの」は受けなかった。それは何か?
いのちである。ZOE、非受造のYHWHエロヒムのいのちである。エデンの園において善悪を知る知識の木と永遠のいのちがあった。YHWHエロヒムは人類にどちらを採ってほしかったのであろうか? アダムは種に従って創造されたのではない。YHWHエロヒムの形(image)と様(likeness)に従って創造された。すなわちYHWHエロヒムのimager(Dr.Heiser)であり、mirror(The Mirror Bible)であるはずだったのだ。しかし・・・・。
このいのちの実体として、YHWHエロヒムのサブスタンスが形をとって宿った存在として、YHWHのロゴスなるジーザスは人間性を取られた。そして死と復活を経て贖いを終え、昇天、着座された。この全プロセスにはわれわれも含まれている(☞包括の原理について)。
それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び無効となり、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。-Rom 6:3-8
それは完了した(John 19:30)。これこそが、旧約の聖徒とわれわれを区別するキーワードである。われわれはキリストに「結びついて」、キリストの経験をすべてシェアしているのだ。この単語は”sunphutos”、”sun”(共に)+”phuo”(発芽する・成長する)である。KJVでは”implanted together”、「共に植え込まれた」である。
キリストの内に〔こそ〕神性の全き充満が形態化して宿っており、あなたがたはキリスト-すなわちあらゆる支配と権威の頭-にあって満々と満たされているのだから。-Col 2:9-10(岩波訳)
極私的にはAmplified Classicの訳を好んでいる-
9 For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature].10 And you [f]are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature]. And He is the Head of all rule and authority [of every angelic principality and power].
この[f]とある注はVincentによるものだが、次のようにある―
Rev., made full…. Not, ye are made full in Him, but ye are in Him, made full. In Him dwells the fullness; being in Him, ye are filled.
詳訳聖書も参考までに紹介しておく-
というのは、彼のうちにこそ神性の全充満<神という方>が肉体の形をもっていつまでも宿られる<神性の完全な表現がなされている>からです。そしてあなたがたは彼のうちにあり、満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです<<キリストにあってあなたがたもまた、神、すなわち父、子、聖霊に満たされ、霊的に完全な身たけに達するのです>>。また、彼は、すべての支配と権威<あらゆる天使的主権と力>のかしらです。
このキリストの内にインプラントされることにより、YHWHエロヒムのいのち、ZOEにより満たされ、完成されているのだ。それは業の問題ではなく、存在の問題である。まさに、これを旧約の偉人たちは得ることができなかったのだ。
エクレシアはすべてにおいてすべてを満たす方の充満である。-Eph 1:23
東方キリスト教では、西方キリスト教神学で言う「聖化(sanctification)」に代えて「神化(Theosis;Deification)」と呼ぶ。ウォッチマン・ニーの正当な後継者であり現代唯一の預言者と自称したウイットネス・リーは、「神性と人性が混ざり合って(mingling)、教会は礼拝対象としての神格を持たない神になる(さらに、父・子・聖霊と教会は四位一体であるとまで!)」と説いた。「二性を混ぜる」とか「神格を持たない神」とはほとんど意味不明である。
彼も白いキリスト教のマトリックスをエクソダスできていなかったのだ。エロヒムを「神・God」と、YHWHを「主・LORD」としたことが罠である。エロヒムとは霊的生命体の分類名(ドメイン)である。
All beings called elohim in the Hebrew Bible share a certain characteristic: they all inhabit the non-human realm. By nature, elohim are not part of the world of humankind, the world of ordinary embodiment. Elohim—as a term—indicates residence, not a set of attributes; it identifies the proper domain of the entity it describes. Yahweh, the lesser gods of His council, angels, demons, and the disembodied dead all inhabit the spiritual world.
https://theremnantradio.com/wp-content/uploads/2019/12/Theosis.pdf
エロヒムには諸々の霊的エンティティが存在する。その中の最も高きエロヒムがYHWHである。Yahawehと母音を振っておくが、この霊的存在が、父・子・聖霊にいますエロヒムである。YHWHはエロヒムであるが、エロヒムだからと言ってYHWHとは言えない[1] … Continue reading。この概念は白いキリスト教では無視されている。これが白いキリスト教の諸問題のルーツでもある。
すなわち、われわれキリストの死と復活にインプラントされて霊が再生され、YHWHの霊的DNAをインヒュージョンされた者は、エロヒムなのだ(正確にはわれわれの霊)。Dr.Heiserも「現経綸ではこの神聖な霊が肉(flesh=体と魂)の中に埋もれている」と言う(☞Do We Become Gods? A look at Theosis with Dr. Michael Heiser)。
われわれ(の霊)はYHWHエロヒムのDNAをインプラントされたエロヒムであり、YHWHとはパースンは異なるが、同じ生命体として存在している。これはヨハネ10章においてジーザスが証しされる通りである-
神のロゴスを内在化された者たちはエロヒムと呼ばれている。-John 10:35
HRBにおいてはこの個所についてこう注釈する-
It is the wonderful potential of human beings to repent of their sins and be baptized in the family name of YHWH and have an elder lay hands on them for the receiving of the Ruach H’Chodesh (Holy Spirit) and become a literal child of Elohim.
Dr.Heiserは次のように言う―

エロヒムを「神々」と訳してはならないのだ。ヘブル語の生の意味で理解する必要がある。使徒たちはこう証ししている-
神から生まれた
人存在は皆、罪を犯しません。神の種がこの人存在の内にいつもあるからです。この人存在は神から生まれたので、罪を犯すことができません。-1John 3:9[2]存在としたが、原語は”pas”、「すべて」である。
ここを「人」とすることが罠であることはすでに指摘している(☞神の新創造:神の霊的遺伝子工学)。

御父は、御心のままに、真理の言葉(ロゴス)によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-James 1:8
イエスがメシアであると信じる存在(pas)は皆、神から生まれたました。-1John 5:1
信じる機能は私の肉(soul-body complex=魂・体複合体)のものではなく、霊のものである(☞フォティーゾ:霊的光の感光)。ここで重要なのは霊と魂の分離である(☞霊と魂の分離について)。フェイス(何度も言うが「信仰」とは言いたくない、あえて言えば「信」あるいは「信覚」)とは「我はナントカを信ず~」と言ったものではない。
いま、フェイスとは望まれるサブスタンス(実体・実質)、まだ観測されていないことのエビデンス(証拠・現出)である。-Heb 11:1(私訳)
われわれニュークリーチャーはその実質としてZOEをインプラントされているエロヒム属である。ただし、魂はメタモルフォーシスによりキリストのそれに同形化されつつあるが、体の贖いは携挙の時である。霊はすでに(already)神性をシェアするパーフェクトな存在、魂はキリストのそれを再現しつつあり(being)、体は未来においてキリストの霊の体と同じ体に変えられる(will be)。この三つの時制が、時空間にあって生きているエクレシアの理解には不可欠である。
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。-Rom 8:23[3] … Continue reading
かくしてYHWHエロヒムのロゴス(sperm,種、DNA)を撒くとき、われわれはエロヒム属を刈り取る。こうしてエロヒムが増殖するのである(☞エロヒムの増殖)。
この頭の働きにより・・・神の成長を成長する。-Col 2:19(田川訳、岩波訳注)
これは「神」ではなくエロヒムが適切であることは言うまでもないが。これこそがYHWHエロヒムのエコノミーである。

- MSGタイトル:フェイスはI-AMの実体化
- 引用聖句:Rom 1:7;Exo 3:14;John 8:24;28;58;13:19;Heb 11:1 etc.
- 2020年6月14日(日)のセレブ
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13.00-17.00 - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

日本語では「信仰」と訳されるこの単語、ギリシャ語では”pistis”、ヘブル語では”emunah”である(英語のアルファベットにしている)。信仰、すなわち信じて仰ぐ。これがニッポンキリスト教のマトリックスを生み出す原因である。あえて日本語を当てはめるとすれば”信”でよい。あるいは”信覚”、それはシックスセンスである。
われわれは物理的世界と五感(視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚)により接触し、五感の領域の実体(サブスタンス)を自分の経験として内的に実体化している。この結果、「色」や「臭い」などを主観的に経験する。このような意識の領域における経験された感覚をクオリアと呼ぶ。
元々「色」とか「臭い」などは存在しない。存在するサブスタンスは種々の波長の電磁波の振動であり、また様々の化学物質である。「色」や「臭い」はその各サブスタンスに対して感覚器が電気的にコード化したシグナルをブレインがデコード化し、それぞれのクオリアを生み出しているのだ。そのメカニズムは現代脳科学の最大の謎だ。
さて、この五感で感知できない存在、実体、サブスタンスがある。これが霊のサブスタンスであり、霊の領域にあるものである。霊のサブスタンスを感知するためにはわれわれの霊によるしかない。霊とは、ギリシャ語では”pneuma”、ヘブル語では”ruach”である。この霊が生み出す感覚、そう霊感というとちょっと先入観が邪魔するので、霊覚とも言うべき経験が信である(これからフェイスと呼ぶ)。
その定義はヘブル書に与えられている―
Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. -Heb 11:1(KJV)
ギリシャ語では―
εστιν δε πιστις ελπιζομενων υποστασις πραγματων ελεγχος ου βλεπομενων
遂誤訳すると―
である/いま/信は/願われている/実体/事柄の/証拠/まだ見られていない
となる。ここでVincentによると-
Faith (πίστις)
Without the article, indicating that it is treated in its abstract conception, and not merely as Christian faith. It is important that the preliminary definition should be clearly understood, since the following examples illustrate it. The key is furnished by Heb_11:27, as seeing him who is invisible. Faith apprehends as a real fact what is not revealed to the senses. It rests on that fact, acts upon it, and is upheld by it in the face of all that seems to contradict it. Faith is a real seeing. See Introduction, p. 363.
このフェイスには定冠詞がない。つまり抽象的な感覚を意味し、必ずしもクリスチャンのそれを言うのではない。フェイスは五感に感知できないものをリアルなものとして感知する。たとえ、状況が矛盾するように見える時ですら。フェイスはリアルに見ることである。
Substance (ὑπόστασις)
See on Heb_1:3 and see on Heb_3:14. On the whole, the Rev. assurance gives the true meaning. The definition has a scholastic and philosophic quality, as might be expected from a pupil of the Alexandrian schools. The meaning substance, real being, given by A.V., Vulg., and many earlier interpreters, suggests the true sense, but is philosophically inaccurate. Substance, as used by these translators, is substantial nature; the real nature of a thing which underlies and supports its outward form or properties. In this sense it is very appropriate in Heb_1:3, in describing the nature of the Son as the image or impress of God’s essential being: but in this sense it is improperly applied to faith, which is an act of the moral intelligence directed at an object; or a condition which sustains a certain relation to the object. It cannot be said that faith is substantial being. It apprehends reality: it is that to which the unseen objects of hope become real and substantial. Assurance gives the true idea. It is the firm grasp of faith on unseen fact.
サブスタンスとは実体的な存在であり、外的な存在や属性の根底に存在する事物のリアルな実体である。それはリアリティを感知する。その見えない希望の対象がリアルかつ実体的なものであるとして。確証が本当の意味を提示する。それは見えない事実の堅く把握することである。
Evidence (ἔλεγχος)
N.T.o. Quite often in lxx for יָכַֽח, to reprove, rebuke, punish, blame. See Pro_1:23; Wisd. 2:14; Sir. 21:12. See especially on the kindred verb ἐλέγχειν, Joh_3:20. Rend. conviction. Observe that ὑπόστασις and ἔλεγχος are not two distinct and independent conceptions, in which case καὶ would have been added; but they stand in apposition. Ἔλεγχος is really included in ὑπόστασις, but adds to the simple idea of assurance a suggestion of influences operating to produce conviction which carry the force of demonstration. The word often signifies a process of proof or demonstration. So von Soden: “a being convinced. Therefore not a rash, feebly-grounded hypothesis, a dream of hope, the child of a wish.”
確証(エビデンス)は実体(サブスタンス)に実際には含まれるが、さらにデモンストレーションする力を運ぶ確信を生み出すために働く影響力を示唆する。
Of things (πραγμάτων)
Πρᾶγμα is, strictly, a thing done; an accomplished fact. It introduces a wider conception than ἐλπιζομένων things hoped for; embracing not only future realities, but all that does not fall under the cognizance of the senses, whether past, present, or future.
事柄(プラグマトン)とは、厳密には、達成された事柄である。それは過去、現在、未来のものであれ、五感の領域にあるものではない。
かくして、フェイスとは五感を超えたシックスセンスであり、物理的実体ではなく、霊の実体(サブスタンス)を感知する能力であり、かつそれを現実化(エビデンス)する機能である。ゆえにフェイスとはサブスタンス&エビデンスとなる。
ロゴス&スピリットの相互作用により、われわれは五感では感知し得ない領域のサブスタンスを内的に実体化し、それを経験し、享受することができる(☞フォティーゾ)。大事な点はフェイスとは願われる実体である。あなたは病気を願いますか?貧困を願いますか?願わないのであれば、それらを拒絶せよ!主は言われる―
わたしの名にあって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名にあって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。-John 14:13-14
イエシュアとは「YHWHがわが救い」の意味。イエシュアの名にあってとは名の中で、つまり名は客体ではなく、私とひとつなのだ。われわれはI-AMにより定義されたpeculiarな民(Tim 2:14)。YHWHエロヒムは「ありてある」。その原語は”HAYA”であり、あらしめる、在る、BE、だ。英語では”I AM THAT I AM”。この後にあなたの願う”X”を代入することができる。癒し、豊かさ、など。するとI-AMがソレにHAYA(BE)して下さるのだ。
ゆえにわれわれの最高位のエロヒムの名は―
Jehovah Rapha=癒し主なるYHWH;Jehovah Jira=満たし主なるYHWH;・・・
となる。かくしてイエシュアの名を呼び求める者はすべて救われる(Rom 10:13)。呼ぶことは御名を実体化すること。つまりその方が、今・ここに在る(I-AM)。この方があなたの願う救いとなる。ゆえにイエシュアとはYHWHのフェイスと言えるのだ。
何か個々にあれこれ求めるのではない。この方を求めるのであれば、そしてこの方が今・ここに在れば、あなたの願うそれとなって下さる。パウロは言う―
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。-2コリント5:16
「肉によって」とは五感によってである。五感ではなく霊によって知ること。なぜ?
最後のアダムはいのちを与える霊となった-1Cor 15:45
からである。肉体をもって復活されると同時に、物理的に制限を受けない霊の存在となられたのである。この存在は私たちの霊のうちにI-AMされる。ゆえに-
フェイスとはI-AMの実体化である
Dr.Luke:『真理はあなたを自由にする-ファクターXの再発見』

というわけで、エロヒム属であるニュークリーチャーたるわれわれはI-AMによって定義されているのだ。I-AMとはYHWH。最も高きエロヒム。そのいのち(Zoe)をインプラントあるいはそのDNAをインヒュージョンされて存在=i-am=である。Yahaweh家に産み出されたエロヒム属である。
繰り返すがエロヒムは霊的生命体のカテゴリー(Dr.Heiser)。それは「神」とか”GOD”と訳した結果、いわゆるキリスト教ができてしまったのだ。
というわけで、大拙の真似をすればニュークリーチャーとは”AS-I-AM-NESS”と言える。ヨハネ10:34「ロゴスを内在化された者たちはエロヒムと呼ばれている」に対して、HRBは次のようなコメントを入れている。
This psalm is talking about mankind’s great potential to become a literal child in the family of Yahweh.
如。それは主体と客体がひとつになること。われわれはI-AMとひとつ。キリスト【を】信じるのではなく(対格)、御子【の】フェイスによって生きる(属格)。それはキリストの息吹きを呼吸することだ。
霊とは息、息とは自分の心。心はその人そのもの、呼吸はその人のあり方の表現。長生きは深くてゆっくりした呼吸(長息き)による。かくして霊的呼吸は心を整える。あなたの心を見張れ、いのちのすべてはそこから湧き出でる。

御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。-ヘブル1:3
「本質」とは”サブスタンス;実体;実質”、「真の姿」は”現出したキャラクター”だ。つまり、御子はYHWHのサブスタンスの現出、である。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、観測されていないことの現出である。-ヘブル11:1(私訳)
フェイスとは見えていないサブスタンスの現出、つまり五感の領域に霊なるサブスタンスが物質化されて現れることである! よって御子とはYahawehエロヒムのフェイスそのものである。
かつて私は『真理はあなたを自由にする』において、「信仰とはI-AMの実体化である」と書いた。今回のメッセでは一歩を進めて、「フェイスとはI-AMである」と言った。ジーザスはI-AMのフェイスそのものである。
ジーザスはこう言っている:
イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。神のフェイスを持て。 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。 ・・・」-マルコ11:22-24
神を信じなさい、ではない! 神のフェイスを持て、である。どうやって神のフェイスを持つのか。御子を持つ者はそれを持つのである。御子そのものがYahawehエロヒムのフェイスだから!
かくしてプロテスタントは「私が律法を行うか、御子を信じるか」のスキームであるが、常に中心に自己がある。この誤りについてはすでに指摘している。律法は人を救わないが、御子のフェイスが人を救うのである! NOT I BUT CHRIST ! 私ではなくキリスト、センターはキリストである。
ゆえに御子を持つ者にはすべてが可能であり、すべてを持つのである。
神のレーマには不可能はない。-ルカ1:37
信じる者にはすべてが可能である。-マルコ9:23
パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。-1コリント3:22
キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。-コロサイ3:11
この聖句に関して、Spurgeonは言う:
Christ is the substance or fulness of “all” things—that which really goes to make the being of everything. Let us pause a little, and help ourselves to begin this year with worthy views of the dignity of Christ in the whole physical and spiritual universe. Everything that is was first a thought in the mind of Christ. There it lay from all eternity, till, by His will and power, that thought became matter. That was creation. Therefore every created thing is a development of the mind of Christ. “All things were made by Him, and without Him was not anything made that was made.” Therefore Christ is all things. Christ is “all” in every believer. “Without Me ye can do nothing.”
キリストのマインドにあったキリストの想念が実体化された。そしてエクレシアとは、物理的には「いたるところで主イエス・キリストの御名を呼び求めている人々」(2Cor 1:2)であり、霊的には「すべてにおいて、すべてを満たしているからの充満である」(Eph 1:23)。ゆえにエクレシアとは私たちのうちにおられるキリストご自身である。それはまさにYahawehのフェイスそのものである。
麦が撒かれたら、麦が増殖するように、キリストが撒かれたらキリストが増殖するのだ。キリスト教神学とか文化・伝統を脱ぎ捨てよ! ロゴスを日本語の従来の概念にはめ込んではならない。ロゴスはまったく新しいサブスタンスだから。概念が先にあるのではなく、ロゴスが先にあったのだ。これが邦語訳の致命的欠点である。こうしてニッポンキリスト教が生まれるのだ。


あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちはエロヒムである』と書いてあるではないか。Yahawehの言葉(ロゴス)を内在された人たちが、『エロヒム』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-ヨハネ10:34-35(Dr.Luke改)
御父は、御心のままに、真理の言葉(ロゴス)によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-ヤコブ1:18
Dr.Heiserの言葉にある”like”を日本語的に理解してはならない。AとBは本質的に異なるものであるが両者は似ているとするのが日本語のマトリックス。しかしLongmanではこう解き明かす:
like – with the same or similar qualities; of the same type
質が同じ(似ているも含むが)あるいは同一のタイプを意味する。つまりわれわれはジーザスと同じ質を有するのである。それはエロヒムであることだ[1] … Continue reading。エロヒムを「神」と訳すことが罠であるとすでに何度も指摘している。エロヒムとは霊的生命体の総称であり、その最も高き方がYahaweh=父・子・聖霊=である。
私たちはその方のロゴス(DNA)を継承しているエロヒムであり、Yahaweh家の子供なのだ。もちろんパースンとしてはYahawehとは異なる。これは同じ家庭に生まれても両親とはパースンを異にするのと同様。しかし同質のDNAを内在化され同じ生命をシェアしているのである[2]2016年2月の時点では私自身エロヒムの理解が十分ではなかったため、「神属人類の誕生@YouTube」という表現をしている。。繰り返すが、ニッポンキリスト教の「罪赦された哀れな罪人」のセルフイメージを捨てよ[3]クリスチャンなる呼称もそろそろ適さないかもしれない。ニュー・クリーチャーである。もちろんキリスト教徒などは論外である。。
References[+]
↑1 | われわれは体・魂・霊からなる。体‐魂コンプレックス(=肉;flesh)は地上のものであるが、霊はジーザスとまったく同じに世のものではない。それはエロヒムである。 |
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↑2 | 2016年2月の時点では私自身エロヒムの理解が十分ではなかったため、「神属人類の誕生@YouTube」という表現をしている。 |
↑3 | クリスチャンなる呼称もそろそろ適さないかもしれない。ニュー・クリーチャーである。もちろんキリスト教徒などは論外である。 |

ここで「神」に当たるヘブライ語elohimは、eloah(神)の複数形である。
https://biblehub.com/…
つまり、直訳すると「神々」なのである。
しかし、「仰せられた」に当たるwayyomerは、動詞amarの三人称単数。
主語が複数なのに、述語が単数。
明らかに「三位一体」を啓示している。
さらに、
「さあ人を造ろう」の「造ろう」に当たるnaasehは、動詞asahの一人称複数。
神々の間での相談と合意があったことを示している。
この一節だけで、神は存在論的に複数、契約的に単数であることがわかる。
この事はすでに私の『神の新創造-自然法則を超えるマインドのパワー』でも指摘しているし、 エロヒムの概念と日本語の「神」あるいは”GOD”はずれていることはすでに指摘している。
エロヒムは霊的生命体の総称であり、もっとも高きエロヒムが父・子・聖霊、その御名がYahawehだ。それを「主」とか”LORD”と訳してはならない。エロヒムはYahaweh以外にも存在するし、われわれの霊もエロヒムである。
つまり「エロヒム」とは生物分類学の「門」とか「属」に相当するメタ概念なのだ。もう一歩だね。
契約的にひとつではなくて、いのちにおいてひとつなのだ。