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トップ > 信仰

サタンの要塞を落とす

不安や恐れ、自責感や絶望感に責め苛まれるクルシチャンが多いキリスト教界。ある人などは救われる前の方がハッピーだった、と。神の言葉を人間による記事にしたり、マリアの処女懐妊はローマ兵によるレイプだとしたり、聖書を近代高等批評の立場から云々するリベラル系も多い。自分の知性を"神"にする輩だ。多分、使徒信条を強迫的に告白しなくてはならないのは、本当は信じていないからなのだ。だから自分の良心の宥めのために儀式が必要となることは精神分析の初歩。

それはすべて敵の要塞が私たちの思いの中に意識的また無意識的領域に構築されているからだ*1。ペテロが水の上を歩いたことを信じられないのは、その要塞が神の御言葉に対立するため。かくしてパウロはこう言っている:

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。-2Cor 10:3-6

思弁とあるのはlogismos=computation;reasoning、高ぶりはhupsoma=high place;altitude;a barrier、はかりごとはnoema=a perception;purpose;the intellect(Strong)。霊的戦いはすでに主が十字架で勝ち取られた客観的真理。が、それが私たちの主観経験になることは、神の国が地上に現出するひとつの大きな証拠なのだ。思い(mind)を敵の要塞から勝ち取り、キリストに服させるならば、解放と自由が得られる。その第一歩は悔い改め。それは自分を退けること。マインドのトランスフォーメーションはそこから始まる。

*1:私のこれまでのミニストリーは主に内的葛藤からの解放、ロマ書とガラテヤ書が中心テーマだった。だが、癒しやしるし・不思議についてはほとんどノーマーク、あるいは拒絶していた。ある姉妹がLukeさんのこれまでのメッセではマルコからの引用がほとんどなかったですね、と。なるほどそのとおり。自然科学の法則を神の御言葉の上に置いてしまっていたことを告白せざるを得ない。つまり創造主なる神は自然科学の法則を超えるお方だが、現代においてそれを逸脱するあり方で私たちの生活に介入されることを信じていなかった、あるいは信じられなかったのだ。これも立派な要塞である。ところが神のバイオレントな介入により、自分のボディでこれを体験してしまった。かくして疑いのトマスとされたわけ。

究極のリアリティとは?

Question:

・ステージ4のガンで余命3ヶ月の宣告。

・彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。-Isa 53:5

Which do you choose?

聖書を「神について人が記録した文書」とかいう人々は論外だが、「すべて聖書は神の息吹き(霊感)による」(2Tim 3:16)と信じている人々にとって、リアリティとはどっち?

正しい選択をする鍵はわれわれのマインド・セットにあるのだ(Rom 12:2)。FEAR(恐れ)とはFalse(偽りの)、Expectation(期待)が、Actually(現実に)、Realize(実現する)ことなのだから(Job 3:25)。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことば(Rhema)で造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 11:3

神の国と教会(エクレシア)

神の国と教会(エクレシア)は必ずしも同義ではない。地上におけるイエスの行動を見ると、神の国の到来を告げつつ、彼のところに来た人々をすべて癒された(Luke 6:20)。彼らは必ずしもクリスチャンであったわけではない。神の国の到来は地上において神ご自身の権威とパワーを証しする。イエスはいわゆる礼拝堂においてのみその御業をされたわけではない。弟子たちと旅をしながらいつでもどこでも人々の必要に応じられたのだ。その中から召された者たちが得られた。エクレシアの素材として。

こうして十字架を経て、復活の週の最初の日の夜に弟子たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、目に見えないエクレシアが誕生し(John 20:21)、40日間彼らを訓練した後昇天され(Acts 1:3)、ペンテコステの日に炎のように聖霊の傾注がなされ、エクレシアが目に見える形で顕現した(Acts 2:1-2)。彼らには天で御心がなるとおり、地にもなることが委託され、神の国の証しを任されている。エクレシアは本質的にはキリストの体であり、キリストの花嫁であり、経綸的には神の国の地上における派出所のような権威と機能を与えられている。

つまりイエスのなされた業は、いわゆる礼拝やセレブレーションの場面のみでなく、地上においていつでもどこでもなされるべきなのだ。イエスがなされたように。これは御言葉の宣べ伝えとシンクロしている。事実、弟子たちはこう祈っている:

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるし不思議なわざを行なわせてください。-Acts 4:29-30

そしてなによりもイエスご自身がこう言われる:

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。-John 14:12

最近とみに、これが終わりの時代の私たちのあり方なのだと感じている。何度も恐縮だが、要するに聖書は私たちの生来のマインドからすると、ぶっ飛んでいるのだ。マインドがまずトランスフォーム(メタモルフォーシス)されること、これが神の国を現出させる第一の鍵なのだ。それは神の国の地上への進攻だ。

信仰と知性、ワーシップとエンターテイメント

今日のセルフ教、アイ、マイ、ミー、マインの状況においては、信仰が知性と、ワーシップがエンターテイメントと置き換えられていると指摘する。解放の鍵は傷ついた心、自己憐憫からの癒しにあるとも。すべては臨在、栄光を招くためなのだ。一見の価値あり。英国のKingdom Faithと同じテイストとフレイグランスを感じる。

ついでにこれもグッド。信仰はI AMの実体化。私と同じ定義だ。

人間のプライド

先に脊柱管狭窄症で杖をついていた姉妹が、セレブ中に足がガクガクし出したと思ったら、癒された証しを紹介した。彼女は今、年齢の割に(失礼)実に動きが素早いのだ。とても杖をついていた人とは思えない。

で、その彼女がかかりつけのある病院の医師に、癒されたことを報告すると、その医師曰く、「まあ、二年もしてみてください。また出ますから」と。彼女、「失礼しちゃうわよね、もうとっくに二年以上経っているけど、ピンピンしているのに!」と。

これが人間のプライドなのだ。その医師はもう治らないと診断したそうだが、ゆえに彼女が癒されては困るわけ。自分のコケンに関わるからだ。これが罪に犯された人間の思いに巣食うプライドなのだ。神に栄光を帰することは決してできない。あの生まれつき盲目の癒しのあと、人々がどんな行動を取ったか(John 9:6-15)。時代は変われど人間の本質は同じなのだ。げに恐るべき存在、それはニンゲン。されど神は・・・。

「主の祈り」はすべてを網羅する

クリスチャンのあり方は、ある人々は浸水礼を金華玉条とし、ある人々は聖化されることを、ある人々はしるし・不思議を、ある人々は教会の地方的立場を、ある人々は繁栄の教え・・・・と、まことにそのスペクトルが広い。これでいわゆる「なんとか派」や「かんとか派」ができる。あるいは「自分たちは宗派ではないとする派」もある。しかし、それは各論。総論は「主の祈り」のとおり、神の国の地上での現出にある。その中に、罪のゆるし、病の癒し、しるし・不思議、浸水礼、聖化、教会生活、繁栄など、各論が展開するのだ*1。「主の祈り」をいわゆる主日礼拝の儀式ではなく、私たちがマジ受けするならば、実はかなりやばいことなのだ。サタンはそれを恐れている。なにしろイエスご自身による祈りだから!

SO BE IT!

*1:私も何か対ニッポンキリスト教的にしてアンチテーゼ的スタンスであったかもしれない。宗教はゴメンだと訴えつつ。これはこれで十分楽しませてもらった。が、神の国の現出はそのようなものではない。もろ神の国なのだから。これまで楽しみとしてことがすっ飛んでしまうほどに、やばいのだ!

信仰と論理

主は生まれつき盲目の男の目を開くとき、つばきと土を混ぜて泥を作り、彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗えと命じた。「はぁ?主よ、彼は目が見えないのですよ、シロアムの池は階段で降りるのです。目を開いてあげてから洗えと言うべきでしょう?」

ファイル 4706-1.jpg

私たちの生まれつきの魂の一機能である思い(mind)は必ず理屈に従ってジャッジする。それは不合理だ、論理的でない、おかしい、馬鹿らしい・・・と。逆に言えば、生まれつきの魂の人は自分の理性を誇り、論理に従うことを人間性の最高の指針とし、自身のプライドの根拠とする。だから、彼らは霊のことは理解できないし、彼らにとっては愚かなことなのだ(1Cor 2:10)。つばきで泥を作って、目に塗るって!?

論理は「p→q」がunitだ。「pならばq」と読む。英語では"p implies q"だ。pとqを満たす要素の集合(真理集合)をそれぞれP、Qとすると、このunitが真であるときは、「x∈Pならばx∈Q」のこと、i.e.P⊆Qのことだ。言い換えると、「x∈Pであるのにx∉Qであることはない」ということ、すなわち「¬(p∧¬Q)」のこと。この真理表は次のとおりになる。

pq¬qp∧¬q¬(p∧¬Q)
××
××
×××
×××

このような操作を形式論理というが、私たちの通常用いている思考法則(シーケンス)を定義したものだ*1。私たちはこのような法則、まあ、地上の知的法則に従うことを良しとする。が、イエスはあえてこのような法則を逸脱するのだ。そもそも「神は父・子・聖霊の三パースン(位格)にいまして、唯一である」といういわゆる三位一体の定式もこの論理から逸脱している。これをパースンにおいては区別されるが、本質においては同質(ホモウシオス)とか解釈を加えて一応納得するわけ。が、自然における光ですらも波であり、粒子でもあるわけだから・・・。

・・・とお遊びは置いておいて、イエスはあえて私たちのオツムを弾けさせる。唖の男を癒すときには、両耳に指を入れ、つばきをつけて彼の舌に触った(Mark 7:33)。はあ?何の意味が?知恵の木の実を摂った人類に対する神の挑発とも言えるかも知れない。神の知恵と人間の知性と、どちらが偉大なのか?神の知恵は人間にとっては愚かなのだ。それが十字架だった(1Cor 1:18)。神の国を地上に顕す鍵は従順。それはすなわちリスクを取ること。人の目にとっては愚かな道を歩くこと。ラザロを蘇らせる時も、イエスはあえて愚かにも4日も待った。会堂司の少女を蘇らせるときは、「寝ているだけだ」と言って、人々から馬鹿にされた(Mark 5:39-40)。イエスは自分の身内からも「狂っている」と見られている(Mark 3:21)。パウロもしかり(Acts 26:24)。

かくして信仰は希求するものの実体、見えないものの証明なのだ(Heb 11:1)。それは論理を超越している。目の前の事象を論理の網でシーケンシャルにとらえたがるのが人類の性。が、イエスは違う。すべてを信仰の目で見ている。それは見えないものが見えるものを構成することを知っておられるから(Heb 11:3)。彼は霊によりたちまちのうちに見えない実体を把握し、それを語り出すのだ。すると目の前の事態は一瞬にして変えられる。これが神のキングダムにおける生き方なのだ。キングダム・シンキング(マインド)キングダム・アッタランス。まことに

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

*1:ちなみにこの真理表によれば、「-1=1→(-1)2=1」も、「2=1→22=1」も正しいのだ!え、なぜ?と質問が。要するに、仮定法、反実仮想の世界。

「主の祈り」の意図

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。-Matt 6:9-10

私たちのセレブではいわゆる「主の祈り」とか「使徒信条」告白とかの形式的なことを行っていない。が、昨年の後半より、なぜかこの主の祈りが心にクローズアップしてきた。いつか語る必要があると。理由は不明。ただこれをこれまでのようにスルーすることはできないと感じ出したのだ。

いったい主の祈りの意味は何か?何が地上で行われるのか・・・。自分が知らないことに気がついた。だから積極的に祈りもしなかった。上のニール・アンダーソンにもあるが、その意味が分からないでは祈れるわけがない。かくして自分が「聖書も神の力も知らない」こと、「イエスがなされたこと、否、それ以上のことを私たちもなし得る」ことのチャレンジを受けたとき、主の祈りの意味も輪郭が浮かび上がってきた。

解答は、イエスを見よ!と。彼が何を語り、何をなされたか。彼こそが完全な真理、御父の体現者、御国の現出をもたらしたのだから。英国のColin Urquhartは言っている、イエスの愛は病んでいる人にsympathyを覚えたのでなく、compassionを覚えたと*1。sympathyからは奇跡的癒しは起きないが、compassionからは起きると。よくニッポンキリスト教で「弱者や病者に寄り添う」といった表現がなされるが、これはsympathy。対してイエスは彼らの虚弱や病気をcompassionにより具体的に癒された。目に見て、手で触れる形で!この二つは宗教と神の国の違いを決定的に明らかにする。

昔、「同情するなら金をくれ」なるセリフが流行った。今は、「同情するより力(デュナミス)を与えよ」と言うべき時なのだろう。

*1:sympathyは実は自己憐憫の投影なのだ。だからもっともらしく見えるが、巧妙な偽りで、力はない。なお、symapathyは同情、compassionは憐れみ、と一応訳しておきたい。

日々キリストにありて

ファイル 4700-1.jpeg


ニール・アンダーソンによる黙想


 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります(ヨハネ7:17)。

 神の御心を知ることは20世紀のみの課題ではありません。キリストの時代の人々もそれでもがいていました。ある人々はイエスのことを「良い人である」と評し、また他の人々は「民衆を惑わしている」(ヨハネ7:12)と言いました。これらの人々はイエスが自分を真理に導くことを知り得たのでしょうか?
 機会をえては、イエスは神聖な導きの基準を設定しました。彼の最初の訓戒は「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」(ヨハネ7:16,17)でした。神の御心を知る本質的な前提は、イエスによれば、御父の御旨を行う意思があることです。
 神の御心とは何でしょうか?イエスを信じる者たちにとっての神の御心は、悪しき者に打ち勝ちキリストのうちに生きることであり、神が召した者として完全に確立されることです。主の祈りの最初の言葉に注意してください:「天の父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ6:9,10)。この祈りを祈るとき、私たちは天において現在なされている御心が地に行われることを求めるのです。明らかに神の御心は天においては完全に行われていますが、地では不完全です。
 そのことがいかなることであるかを知らずして、あなたは神の御心に完全に明け渡すことができますか?神の御心以上に自分の意志を保留してはいないでしょうか?あなたに対する神の御心は善であり、受け入れ易いものであり、完全であることを本当に信じていますか?(ローマ12:2)もし神が神であられるならば、あなたは神を主と呼ぶのですから、神はあなたの人生においてご自身の意志を行使する権利を持っておられるのではないでしょうか?

 父よ、あなたの御心が、天に行われるとおり、私の思い、言葉、行いの中に、今日という日に行われますように。

TODAY'S CELEBRATION 【Jan 25, 2015】

UPしました。

●タイトル:神の御業は栄光の中で
●聖書箇所:イザヤ57:19;ヘブル13:15;2コリント4:13など

●Living in the Glory:






■お詫びとお知らせ:
現在、セレブの場所は公開しておりません。収容人数の関係もあり、すでに手狭になりつつありまして、今、新しいチャペルを祈り求めているところです。備えができましたらお知らせ致します。なお、すでにお知らせしておりますが、以前の東神奈川のチャペルは兄弟たちに明け渡しておりますので、Dr.Lukeはそこにはおりませんので、ご注意ください。

ある姉妹の癒しの証

1月14日にその姉妹のご主人からメールが入った。「心臓が肥大して水が溜まるなんてことが本当にあるのですか?」と。私、「多分心膜炎でしょう」。ご主人、「どのくらいで治りますか?」私、「専門でないので分かりません。でも祈りで直ちに癒されますよ!」

で、そのご主人は4日間ひたすら祈ったとのこと。そして病院で検査すると、X線写真のビフォー&アフターを見せてくれながら医師が一言、完治してますね・・・・。姉妹は思わず「ハレルヤっ!」と叫びそうになったが、場所柄抑えたとか・・・。この御夫妻は前に書いたが、ふたりともほとんど死に至ったことがある方々。ご主人は重症の肺炎で、奥さんはDOAで病院に運び込まれたのだ。本日伺って兄弟姉妹が励まされた証。

付録:姉妹いわく、自分がお父さんにこんなに愛されていたなんて、と。これも御心が天になるごとく地にもなるように成就、すなわち神の国の地上での現出の一コマではある。なお、念の為に、彼女がどのような医学的処置を受けたかは不明。単純に祈りだけの結果か、医学的処置の効果もあるのかは別に吟味が必要。

AD70年にイエスは聖徒たちと再臨した

いつもの再建主義の富井氏の論。AD70年の"最初の"再臨のことについてだ。「すべての聖徒たち」とは「旧約のクリスチャンたちのこと」だとするようだ。加えてAD70年に再臨があった外部証拠はないが、聖書は自己完結だから、外部証拠は不要とも。面白いです。

tomi 2015/01/25(日) 02:54

紀元70年のイエスの再臨時に聖徒も随行していた

Q.「すべての聖徒たちも主とともに来る」という箇所がありますが、もしポスト・ミレが正しい場合、これは紀元70年に実現したということになります。
 
A.

山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。(ゼカリヤ14・5)

アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。(ユダ14)

紀元70年にこの箇所は成就しました。

これらの聖徒は、旧約時代のクリスチャンです。

旧約時代におもにイスラエル人がクリスチャンになりました。

(ここでクリスチャンというのは、「来るべき約束のメシアを信じる人々」の意味)

その数は膨大でした。

イスラエル人は、海外でも伝道活動をしましたので、真のメシアを信じる人々は海外にもいたでしょう。

では、彼らはいつ主とともになったのでしょうか。

主といっしょに来るからには一緒になった時期があります。

それが、復活と昇天です。

イエスが十字架にかかられ、その後復活したときに、旧約時代の聖徒も復活しました。

彼らの一部がエルサレムに現れたと記されています。

そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現われた。(マタイ27・53)

彼らは、その後イエスとともに昇天したのでしょう。

そして、紀元70年になるまで、天にいた。

紀元70年、イエスが旧約時代を終わらせ、イスラエルを裁くために来られたときに、彼らも同行した。

それを示す外部資料はありません。

しかし、聖書は外部資料を必要としない。

「聖書は聖書によって解釈する」のが原則ですから。

だから、われわれは、紀元70年にイエスの再臨があったときに、旧約時代のクリスチャンたちもいっしょに裁くために来たと考えるべきです。

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