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野球は一回性の美学だ!

やはりイチロー、絵に描いたようなヒーローでした。一時は心が折れかけた、とまで弱音を吐いていましたが、さすが。若いダルは頼りなく、ハラハラで低血圧の私もやや上がりましたね。前回もイチローがキーマンでしたが、野球も一回性の美学。

追記:イチローの言葉、実にイイですね-

 ひとりひとりが向上心を持てば、リーダーなどは要らない。

哀しき正月模様/一言映画評

あの偽メールにひっかかった永田元議員が自殺。11月に未遂事件を起こしていたが、哀れである。東大→大蔵省→政界、と言う超エリート。功名心に突き動かされての大見栄を切ったが、振り上げた刀が自らを刺した。自分が見えなくなってしまったのか。しかしこれはニッポンキリスト教でも起きていること。あの『ふうけもん』しかり。そしてこちらの錚々たる面々しかり(→2009年新年のご挨拶@クリスチャントゥデイ)。ほとんど喜劇なのだが、野心や目立ちたがりで、モノが見えなくなることは実に怖いのだ。

派遣村で越年した人々。日比谷公園で炊き出し。さらに厚生労働省が講堂を公開。寿町ならば私もよく見た光景なのだが。そして昨日のテレビで初めて知ったが、企業の派遣社員の管理は、なんと、人事課ではなく、物品課だとか!?黙示録にあるバビロンでの商品リストには「人の魂」が最後に揚がられている。ここまで来ているのか・・・と。しかしこれはまだまだ序章。オバマの大統領就任式には200万人が参加するようだが、別に世界が変わるわけではない。"CHANGE"と称しつつ、これまでのひとつの流れが具体的な形をなすようになるだけだ。

時代のキーワードはフェイク。欺かれない者は幸いである。

 * * *

ファイル 672-1.jpgで、昨日観た映画。ディカプリオの『ワールド・オブ・ライズ』。CIAの工作員が裏工作を仕掛けるが、実は自分が仕掛けられていたと言う、何が真実で、何が偽りか、誰が敵で、誰が味方か、と言う心理サスペンスを味わえるアクション作品。これもフェイクの世界。そして世界で起きていること。それにしてもあの『タイタニック』のディカプリオがアイドルから脱皮し、実にいいオトコになって来ている。彼を楽しむこともこの映画のひとつの魅力。お薦めです。

追記:『グラディエイター』でマッチョ振りを見せたラッセル・クロウがメタボ体型になっていたが、これは役作りなのだろうか?もしそうならば、真の役者はスゴイ。この数日キムタクの『HERO』がやたらと目立っていたが、彼もメタボ役やれるようになって欲しいものだが・・・。

続・不条理

ある者は、不条理に飲み込まれて、自らの無力にあって、ただ涙を流す。
ある者は、不条理に戦いを挑み、歪んだ義憤にあって、破壊へと走る。
キリスト者は、キリストの不条理を思いつつ、自らの弱さにあって、「地上にとりなす者がいない」と言われる神の心を共有する。

同様に、御霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、御霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。御霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

ピカソ

ファイル 610-1.jpg私の好みはダ・ビンチ、コロー、フェルメールといった光を描く写実画。しかしピカソ展が東京ミッドタウンのサントリー美術館であるので、一度「生」を鑑賞しておこうかと(参考:Dr.Lukeの芸術論)。

初期の「青の時代」の自画像は何か強烈な孤独感で心が凍りそうな感覚を覚える。ちょっと意外だったのはキュビズムと新古典主義時代の「線」がとても美しいこと。女性の体の線などは実に綺麗だ。そして「ミノタウロスと牡牛」に入ると、一言、グロテスク。彼の自我の内面のエロスとヴァイオレンスを見つめた作品との事だが、ある種狂気と紙一重的なアブナさを覚える。晩年は数人の女性関係の葛藤を経験しつつ、自らの内なる欲望をひたすら昇華する「生のもがき」とも言えるほどに、作品を次々に描いたようだ。彼はこうして危うくも崩壊しそうな自我を保っていたのだろうか。戦争の不条理の中の葛藤から生まれた大作「ゲルニカ」は残念ながら見ることができなかった。

彼の抽象画は頭が"かき回される"ことによってある種の挑発を受けるのだ。私たちにとって当たり前の世界を疑ってみよ、あえて壊してみよ、そこに安住などするな、と彼は叫んでいるようだ。コローやフェルメールから受けるある種の日常の中の安堵感、満足感、充足感をあえて壊してしまいたいかのような、彼の内的葛藤の炎をぶつけられる感じだ。自然を愛でることを好む私の自我は、多分、彼の挑戦・挑発には耐えることができないだろう。そこまでに葛藤するエネルギーもすでにない。何でも言えることだが、何かを創造するためには一度全てを破壊し、更地から建て上げるだけのエネルギーが要るのだ。「林住記」に入ったDr.Lukeはやはり花鳥風月を愛でつつ、残された日々を淡々と歩もう。健やかに枯れることを願いつつ。

追記:五木寛之によると「林住記」は「燃えながら枯れていくエネルギー」なのだそうだ。なるほど。私もピカソほどではないが、まだ燃える部分もあるわけで

乱調・乱心・乱世・乱天候

CT問題はほぼ私の診立て通り、というか、それをはるかに上回るビョー的展開になりつつありますね。乱調の挙句、何ともな結末へと向かいつつあるようです(詳細は、いつもながら、ここでは話せませんが・・・)。

 * * *

小朝の元妻の泰葉さまがご乱心。元旦那を「金髪豚野郎」と罵倒し、谷村新司ともトラブッているようです。この人、実は鬱病でして、鬱病の人は被害妄想を抱いて、かなり粘着しますし、社会生活も乱れます。教科書どおりの絵に描いたような症状をみせています。

追記:小朝もついに黙っていられず、FAXをマスコミ各社に送り出したようだ。泥沼。ここはひとつ相手が何を言おうとも、グッと飲み込んで、「非はすべて自分にある」と見栄でもいいから切れば、男を上げるのだが・・・。ビョウキの女性、しかも元妻とガチンコはちょっと。洒脱なイメージの小朝なのだから。この点、若花田は偉かった。貴花田の言には無言のまま、すべてをあげてしまった。さらにはあの助さんか格さんを演じた二枚目俳優も、わけの分からん事をテレビでまくし立てる元妻に、やはり家から何から全部あげてしまった。そこそこ偉い。「捨ててこそ、浮かぶ瀬もあり」だ。
 
 * * *

株価がついに底抜け。26年ぶりの7,200円割れ。まさに乱世。実はこのような事態を正確に予言していた牧師がいる。Last Trumpet MinistriesDavid Mayerである。今回の乱世にも実はシカケ人がいるようだが、彼はあの911事件を数ヶ月前にNYの惨状を幻で見て、そのニュースレターで予告していた。今回も9月が危ないことを予告している。ぜひ過去の記事で確認されたい。元オカルチストであるだけに、その世界のダイナミクスを詳細に暴露している。何を隠そうワシントンはオカルトで動いているのだ。

追記:アイスランドの国有銀行が利払い不履行。地球上に600兆ドル(仮想の数字だが。植草氏によると実質原資はこの1/10だそうだ)のデリバティブがのた打ち回り、国家予算に匹敵する30兆円資産の銀行がつぶれるわけで、要するに国家をはるかに凌駕する仮想マネーを国家が制御することがすでにできなくなっているわけ。今後、国家とは何ぞや、国家の存在意義そのものが問われる時代になろう。新自由主義の崩壊の後、国家の存在意義を高めようとするならば、ある種の社会主義化になろう。果たして下の変数のどこにアジャストバーをおくべきか?

参考:http://www.kingdomfellowship.com/cgi-bin/ttt_patio/patio.cgi?mode=view&no=16

 * * *

で、何と天候までもが乱天。5時半ごろ、田端駅でのこと。物凄いで大雨と共に、何と雹がバラバラと。ところが横浜に変えるとカラッと雨の降った後もない。この時期に雹・・・。何だかヤバイ昨今ではある。要するにあらゆる領域がビョーキ。

 * * *

で、ついでに。講義の合間に女子学生と会話。3人でパックの「玄米茶」を飲んでいた。めずらしく思って、「へえ、そんなのあるんだ。でもみんなで飲んでるって、流行ってるわけ?」と聞くと、「ううん、ダイエットにいいって」。「そうなんだぁ、ダイエットならぼくが教えてあげるけどね。でも、それっておいしいの?」。するとひとりが、自分の飲んでいたストローの刺さったパックを出して、「センセイも飲んでみる」とニコっと。小生「あ、あ、ありがとう。でも、いいよ、気持ちだけね」と。最近の子はこういったことに屈託がないというか・・・。

所感

いよいよ金融混乱の収拾は今週が山場。G7からG20へと対応を拡大しているが、はたして・・・。
 
 * * *

三浦和義氏のかぶっていた帽子にあるロゴ"PEACE POT MICRODOT"が、「みなさん、さようなら」と言うジャーゴンとか。各単語がドラッグの隠語であることは知っていたが、全体としてこんな意味を持つとは。

しかし、三浦氏は演技性乃至虚言性人格障害と推測されるが、最後まで自分のスタンスを貫いたようなある種の「潔さ」を感じてしまう。彼は決して相手の思惑に屈したくなかったのだろう。これは意志と意志のぶつかり合いであり、彼は自らの死によって相手の意志を拒絶し、真実を永遠に封印してしまった。最後まで演技者三浦和義を演じ切った感じだ。

 * * *

ファイル 564-1.jpg先週は流れたが、今週金曜日は前々からの予定通り、平賀マリカ(オフィシャルサイトは工事中→http://www.marica.co.jp/)のJAZZ LIVEを六本木サテンドールにて。思えば若い頃はJAZZなんて退屈だったが、この年齢になると味が分かる。ライブハウスの雰囲気もたまらなくイイし。

下のクリップはKojiさんが紹介しているDiana Krallと彼女のダンナのジョイントで"Crazy"。彼女も若く、ややふっくらとしていて、実にチャーミング。

 * * *

付録:自衛隊で異常な格闘訓練で隊員が死亡とかで騒いでおりますが(→記事)、戦時においては異常も正常もないわけで、とにかく相手を殺す事がすべて。私の知人のご兄弟が自衛隊におられるのですが、自衛隊は気の毒ですね、ますます萎縮し、手足を縛られたままで。戦闘能力はゼロでしょう。(なお、私は戦争を肯定しているわけではありませんので)

ちなみにこちらは極真会館松井章圭館長の100人組み手。フルコンタクトです。

私が興味を抱くヒト

ファイル 534-1.jpgクリスチャン政治家だそうです。兵器オタク。私と同じ学年です。リンカーンでしたか、男は40を超えたら顔に責任を持て、と。今回の総裁選では刺身のツマでしたが、ぜひガンバムってもらいたい。が、ホンネは、ニッポンキリスト教徒ばかりの政治が行われることは実に怖い・・・・。

ところで…。このブログをお読みいただいた方から、今後もこれを続けて欲しいなあとの声をいただいております。何らかの形でこのお声にお応えできないかなと思っています。乞うご期待!なんちゃって

重ねて、皆さまありがとうございました。また街で見かけたら声をかけてくださいね。怖くないです。安心してください(笑)

だそうですから、ぜひ声をかけてあげましょう(笑)

・サイト→http://www.ishiba.com/

武蔵野の野辺に朽ちぬとも・・・

ファイル 439-1.jpg

身はたとひ、武蔵野の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂

これは安政の大獄で死罪とされた吉田松陰の言葉。三島由紀夫にも通じる日本人の心である。私も吉田や三島のように、日本人でありたいと願うが、ニッポン人であることを嫌悪する。同様に私はクリスチャン(キリスト者)ではあるが、ニッポンキリスト教徒であることは嫌悪する。

日本への警告』において宮内学氏がきわめて秀逸な発言をされている。ひとつは「ネット亡国論」。匿名性に隠れた誹謗中傷の卑劣な行為が"当たり前"になりつつある今日、あきらかにニッポンの内部の腐敗と崩壊を促進している。もし「2ちゃんねる」の管理人西村博之氏が、一部で言われている某筋の「工作員」だっとしたら、実に巧妙な仕業である。そしてきわめて悪魔の性質に合致している。参加者自身が悪魔によって弄ばれていることに気がついていない病識の欠如。ニッポンは彼の出現によって崩壊へのカウントダウンを早めた。

もうひとつは、「ダンテとゲーテ」、似て非なるふたりの違い。共にテーマは真理の探究と魂の遍歴を描くも、その本質において、致命的な相違があることを宮内氏は指摘される。ひじょうに怖いのは今のニッポンがゲーテの落とし子であること。宮内氏は指摘する:

そして、現代人はゲーテの子である。ダンテを古臭い中世人と卑下しながら、ゲーテとともに人間の可能性を謳歌し、その挙句に、メフィストフェレスに魂を売ったのである。真理は一粒の涙とともに来たることを知らずして、(「神曲」煉獄篇5歌106)絶え間ない努力と才能によって強奪できるものと信じている。

個々人がどちらの文学者を好むのか、それは人の自由である。また、現代人がゲーテ的人生観を持とうが、それが即破滅という訳ではない。しかしながら、一つだけ注意すべきことがある。ダンテの地獄篇27歌にあるように、真理をもし努力と才能によって奪い取らんとするのならば、悪魔にも努力と才能があることである。才能は才能に対して盲目である。ファウスト的人生観は、最後の最後には、悪魔の才にひっかかる。

この最後の警鐘は、すでにニッポンにあっては成就している。三島もその危険性を感知して、彼の場合は、人間の努力と才能を超えた絶対性を天皇に求めたのであろう。彼も別の意味で罠に落ちたと言えるが。

そして『文藝春秋八月号』においては、次のような記事があった。例のアキバ事件の加藤を英雄視するネットに生息する若者に対して、

若者よ、殺人犯を英雄にするな

と呼びかける記事がある!?何ということ、このような記事を日本の知性の象徴である同誌が掲載する必要があるのが、現代ニッポンだ。また続いて

貧困大国ニッポン-ホワイトカラーも没落する-
 もう限界だ。このままでは社会の土台が崩れる

と警鐘を鳴らす記事もある。著者は前にニッポンにもスラム街ができると指摘した人物。私的に診ればすでに土台は崩れている(現在完了形)のだ。かつてペリーが浦賀に来た時の日誌で、当時の日本社会のモラルの高さと清潔さ秩序正しさなどの美徳に驚嘆し、「日本を開国し、欧米化することは、果たしてこの国にとって幸福なのだろうか」と書いていることは前にも紹介した。当時、日本には貧しい人々は多かったが、貧困はなかったのだ。このふたつの違いが分かるでしょうか?今日のニッポン、すでにあらゆる精神性を破壊され、貧困の極みに追い詰められている。いわゆる経済的な貧困は、実は内なる精神の貧困の現れに過ぎない。

朝のジョッギングの際も、つらつらとニッポンの行く末を祈りつつ、主は今この国にご自身の正義の御手を置こうとされている事を感じた。悪は、腐敗の極み、行き着くところまで行く必要があるのだ。ニッポンキリスト教も同様。否、ニッポン社会以上に正義の主の御手が置かれるだろう。それはゲシュタルト崩壊をもたらす。否、主が起こされるのではなく、起こすのは人間自身である。その時、まことの主の心に安息して残される少数の者は幸いである。

絵画と音楽と数学と(Dr.Luke的芸術論)

ファイル 434-1.jpg

コロー展はよかった。初期の写実性を追及した(1)作品よりも中期以降の彼の自然の解釈(3)が入った作品の方が私の好みであるが、やはり光の描き方が鍵である。私たちは絵を描くとき、輪郭を"線"で描くが、元々そのような"線"は存在しない。それは脳が作り出したものに過ぎず、あるのは光だけ。レオナルド・ダ・ビンチは光で輪郭を表現する手法を編み出したが、コローも同じ手法を用いている。木の枝枝の描き方も経年的に変化している。また『真珠の女』はまさに彼のモナリザである(実は真珠は描かれていないのだ。額の飾りが真珠に見えたので、そう命名されたらしい)。

要するに初期風景画は割と単調であり、あまり面白みがないが、中期以降は、例えば周囲を鬱蒼と茂る森の木々の陰を描き込んで、その木立の切れ目に向かって光を描いて私たちの目を誘導し、最後の木立の切れ目に明るい光の向こうの広い空間をイメージさせると言った手法の絵が多い。彼自身も、「私はまず影の部分から描く。それは影こそが人の心を惹きつけるものであるから」と言っている。また作品全体がややアンニュイと言うか、メランコリックな感じがする。つまり欝系なのだ。その欝系の中に明るい部分を何か希望の光のような感じで描いている。

と・・・まあ、あまり能書きは書いても仕方ないわけで、ぜひご自分の目でご覧になることをお薦めする。実にリッチな時間を堪能できた。何か美味い食べ物を食べたような、充実感と言うか満足感を味えた。

さて、コローの『青いドレスの女』にしても、そのドレスの質感が実に真に迫るわけで、思わず惹き込まれる。私たちはこの質感をクオリアと称するが、絵画も、特にダ・ビンチやコローやターナーあたりは、このクロリアの表現をキャンバス上の絵の具で試みたと言えるかと思う。これが絵画の面白いところ。私たちは光でモノを見ているが、それを一旦絵の具に落とし、その絵の具で反射する光を見て、改めてそのクオリアを感じて、画家が得た感動を追体験しているわけ(3)。

絵画はもちろんリアリティそのものではない。が、そこに表現された「何か」は画家の内部で画家の情緒に触れたものであり(2)、さらに創作表現活動と言う過程を通して、情報処理され、ペインティングされたものだ。しかし、その「何か」は画家個人を超えてある種の普遍性を有しており、よって私ごときの心にも届くわけ。そこで画家の魂と私の魂が、時間と空間を越えて共鳴し、「何か」を共有する。それはある種の波動の共鳴とも言えよう。画家がその時に触れたリアリティによって、内なる感動の波動を得、それをキャンバスに表現することによって、そのメディアを通して、私の心に波動を生む(4)。写真はレンズに写るリアリティであるが、それでもカメラマンの心がその中にたたみ込まれる。絵画になるとそのたたみ込まれる要素がますます多くなる。その意味で絵画は見る者によって感じ方のスペクトルが広がる。これが絵画の魅力と言える。

そこでこの「何か」を共有し得ると言うことは、私の脳とコローの脳にある種のコモンな部分が存在することを意味する。そのコモンな部分が、絵画を媒体として同じ反応/活動をするゆえに、同じクオリアを生み、同じ感動を生み出す(まったく同じかどうかは証明できないが・・・)。実は、これは数学でも言えること。多変数複素関数論の岡潔は、「数学は情緒の満足である」と喝破した。公理論的に整然と組み立てられた数学は、論理的には誤りがなくとも、感動がない。しかし数学者が感動しつつ、その内面で経験した「何か」を数式によって表現し、それに触れた時、やはりこちらもその「何か」による感動を経験できる(2)。多分、この経験は絵画でも音楽でも同じものであろう(5)。

フィールズ賞を取った小平邦彦氏は、「数学は仏師が木の中に埋もれている仏像を掘り出すのと同じだ」と言っている。仏師にとっては、その木の中にア・プリオリに埋め込まれた仏像を発見し、無駄な部分を削いで行くだけなのだ。そこには自分の作為がない。人の作為があるものは醜悪である。数学も同じ。作為があると興醒めする。音楽も多分、何も意図せずにふと生み出された旋律がむしろ感動を生むのだろう。如何にも、と言った風な作品はしらけるだけだ。そのア・プリオリな像とは、多分神が埋め込んだのだ。

コローはいのちを表現したいと願っていたらしい。自然の前では自分などは無力の極みであるとし、自然と一体となる画風を目指した。このゆえか、何か癒しを味わうことができるのだ。自他の経験した「何か」の共有。それを提供し得る芸術家たち。その手法やテクニックを持つ彼らがうらやましいが、とりあえず私も受信者としては、その波動を享受することはできる。絵画もサイエンスも、それぞれ自然との関わりの一形態であり、信仰とは生ける神との関わりそのものなのだ。それを表現する者はそれなりの賜物を持つ者であるが、自然や神ご自身の波動を味わう事は誰でも可能なのだ。ポイントは誰にもよらず、自身の感性を大切にすることだ(3)。

【注】つらつらと思いつくままに感想を書いたが、下書きをして夕食を取り、お茶を飲みながらコローの解説本をぱらぱらしていたら、何と、上に書いたような事をコロー自身が語っているではないか。対応する箇所とコローの言葉を紹介したい。

(1)自然は永遠の美である。一度で作られたものはすべて、形態がより純粋でより気が利いていると私は気づいた・・・。われわれはどれほど自然に基づいて厳格でなくてはならず、急いで作ったクロッキーに満足してはいけないかも分かる。

(2)最初に感じた印象を決して失わずに・・・。芸術における美とは、われわれが自然の外観から受け取った印象の中に浸された真実である。どうということもない場所を見ていて私は胸を衝かれる。模倣を追及しているにもかかわらず、私は自分を捉えた感動を片時も失うことがない。現実は芸術の一部であり、感情は芸術を完全なものとする。

(3)いにしえの巨匠たち、あるいは同時代の巨匠たちから学んだことから完全に離れて、素朴さをもって、あなたの個人的な感情に従い、自然を解釈しなければならない。私は目も心も使って解釈する。

(4)私は自然の震えを描こうと努めている。私は自然のすべてのニュアンスをつかみとり、それによって生命のイリュージョンまでも生み出せるように絶えず努力している。私のカンバスを見た人が、それは動かぬものだが、描かれた物が動いているような印象をもってくれることを願う。

(5)絵を見る者の感性が絵と調和して振動するようにしなくてはならない。つまり「自然の形態の下に隠された感興」を描くこと。

ファイル 434-2.jpg

・・・芸術とは、自然そのものを描くことでなくてはならないが、とりわけ自然が内に隠すものと個々人がそこで発見するものとを描き出さなくてはならないのである。(ヴァンサン・ポマレッド)

(わが大学の同僚のレクチャーがあるようだ・・・)

参考

純愛人生ストーリー

ファイル 429-1.jpg

ようやく走れた。やや蒸しているが、気持ちはイイ・・・。

で、この画像、昨日電車の中で見た広告。読んでいたら、思わず泣けてしまった・・・。ニッポンキリスト教によく見られる、旦那がどうのこうのと、夫婦問題でブツブツ言ってるおばちゃんたちに読ませたい。

ボディビルへの憧憬

警告:人によっては、アレルギー反応を起こすかも・・・(でも、この頃まではまだカッコよかった。ドリアン・イェーツあたりからはちょっとキモイ・・・クリックは自己責任でヨロシク)

こちらは古のシュワちゃん・・・

Salt's Summer Live 2008 in Nara

ファイル 426-1.jpg楽しみです・・・・。

参考:Salt's World(flash)

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