江行無題其九十八-銭?
- 2013/10/02 08:42
- Category: 漢詩
- Tag: 漢詩 銭珝
雨で朝は走れず。ゆったりと風呂に浸かること40分。このような時間がリッチな一日を約束してくれる。本日もト☆キ☆メ☆キを・・・。
さて、2013年もついに10月。この8日は寒露。秋は、やはり、漢詩の季節だ。
銭?の「江行無題一百首の其九十八」。まったりとした、否、実は左遷の旅物語を詠ったものなのだ。「二倍返し」などせずに、こうして左遷の旅をまったりと楽しむのが大人と言うものだ
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雨で朝は走れず。ゆったりと風呂に浸かること40分。このような時間がリッチな一日を約束してくれる。本日もト☆キ☆メ☆キを・・・。
さて、2013年もついに10月。この8日は寒露。秋は、やはり、漢詩の季節だ。
銭?の「江行無題一百首の其九十八」。まったりとした、否、実は左遷の旅物語を詠ったものなのだ。「二倍返し」などせずに、こうして左遷の旅をまったりと楽しむのが大人と言うものだ
秋は、やはり、詩の季節。なかでも月。木々の葉がさやさやと、冷たい空気の透明感溢れる情景が浮かぶ。このような絵画のような詩を詠みたい・・・。
地には季節が巡り、爽快な空の下、黄色くなった葉も散り、愁いを添える。輝く年月も過ぎ去るが、しかし世を離れた者は地から飛翔し、仙郷を想うのだ。
台風一過、今日の富士山・・・
※紈素=白い練り絹
禅者も漢詩をよく作った。一休禅師はあまりにも有名なので、今回は絶海中津(ぜつかいちゅうしん、1334-1405)を。
禅は鎌倉時代に剣道、花道、茶道などに吸収されて花開いた。その中心であった五山文学の第一人者。夢窓疎石の弟子、明に留学(33歳)、現地でも文名を馳せ、明の太祖にも詩を献じた。帰国後は相国寺第六世住持。四万十川源流の堂海森林公園に土佐出身の義堂周信と共にその銅像がある。清々とした生き方を詠っている。私もこの世で得るべきものはほとんど得てしまった(主は確かに求めるものをなんでも与えてくださった)。これからは喜捨、清々とすることがひとつの鍵になろう。
注:これは一部のみ
鳥は大気も自分の羽をも意識していない。ただ彼らのいのちの法則に乗って、大空を飛んでいるだけ。飛べることを誇りにも思わないし、自分が優れているとか、あるいは聖なる存在であるとかも思わない。魚も水を意識しないし、自分の能力がなんたるかの意識もない。ただいのちの法則に乗って自由に大海を泳ぐ。
人は健康なときには胃の存在を意識しない。自分の意識と関わりなく胃は黙々と食物を消化してくれる。肝臓や膵臓はその存在が意識された時にはすでに手遅れのことが多い。ふだんはまず意識されない。健やかさとは無意識の状態なのだ。ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』に、自分の手足を意識するとムカデはどうなるか、との問題提起がある。あの足をすべて意識で操作したらさぞや・・・。
クルシチャンも同じなのだ。自分の意識や計らいや行動によって聖化されようとか、成長しようとかしてもがく。あれをしたら、これをしたらと・・・。彼らの状態は手足の意識に目覚めたムカデと同じ運命を辿る。ニッポンキリスト教の病理サンプルを観れば、これ以上はもはやあえて言うまでもないだろう。
聖(Holiness)とは健やかさ(Wholeness)である。健やかさとは、霊・魂・体が有機的に統合され、いのちの法則のままに活動する状態、それは無意識の状態なのだ。この点についてはバイブル・カレッジの『御霊によるいのちの成長コース』で講義した。前にも紹介したが、その状態を、東大医学部生理学橋田邦彦(無適)教授は「全機」と称した。彼はかの戦争において文部大臣を務め、戦後、A級戦犯の訴追を受け、名誉を守るため服毒自殺した。彼は、また道元の『正法眼蔵』の研究でも有名だった。私の本でもこのブログでも何度も紹介しているが、その「現成公案」にこうある:
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心(しんじん)および他己(たこ)の身心をして脱落せしむるなり。悟せきの休かつなるあり、休かつなる悟せきを長出ならしむ。
わが幼かりし頃、フランケンシュタインを知って実に不思議に思った。生命って何なのだろう?フランケンシュタインのように、骨格や臓器や筋肉や皮膚を解剖学的に構成したら、その物体はいのちをもって生きるようになるだろうか?その物体と自分とは何がどう違うのだろうか?今、聖書的に言えば、霊が流れるか否かだ。この霊が肉体と魂を行き巡り、体・魂・霊が有機的に統合されて機能する。これが全機の状態だ。またこれがキリストを頭とする御体であるエクレシアの実際でもある。ここに人間の小賢しい意識作用が入るとすべては狂い出し、ついには破たんするのだ。
神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:26-29
アダムにある者は被造物としてのアダムのいのちの法則により、キリストにある者は非受造のキリストの復活のいのちの法則により生きる。いずれにしろ、全機の状態が展開する時には無意識。万法に証せらるる時には自己をわすれるのだ。これが心身脱落。なんと安楽な境地であろうか!この時には生死をも超えている。過去を顧みず、将来を想い謀らず、ただ今この時に生きる。まさに「今でしょ!」だ。これを道元は「瞬間撃滅、前後裁断せり」と言う。後悔や心配に押しつぶされそうな人々は今に安住できないからだ。
神の名は「ヤハウェ=在る者」。永遠の在なる方、BEING!だ。ゆえに私の本で書いたように、信仰とは「在るの実体化」なのだ。必要が満たされるとか、病が癒されるとかはすべて付録。在なる方が私の内に、まさに、今ここに生きてくださることの体験。これが道元も、旧約の聖徒たちすらも知り得なかった新約の私たちの特権である。これを知った者はますます自分の業をやめて安息に入る(Heb 4:3)。すなわち、キリストにあるアイドリング人生を送ることができる。なんという安楽にして快適な人生であろうか!おそらくこのような人が肉体を離れるときも、霊においては同じであろう。主の臨在を楽しんでいることにおいては。ただこの肉体の妨げがなくなるのだから、その歓喜はいかばかりのものであろうか!パウロも言うとおり(2Cor 5:4)、この意味で肉体の死は楽しみなのだ
■参考:
■追記:
「キリストにあるアイドリング」とは社会的義務を放棄して、怠けることではないので、一応、一言。働かざる者は食うべからず。このギョウカイ、勝手にトンデモな読み違いをして自滅する人々がいるのだ。ニーのように労働改造所において肉体は過酷な労働に苦しめられても、彼の魂はアイドリングしていたのだ。口が少し動いただけで、祈ったとして懲罰を受ける環境で、彼の霊は主の臨在に憩い、その魂はアイドリングしてその救いを享受していた。サタンは彼の肉体をボロボロになし得たが、彼の霊は解放され、その魂は主の臨在の中に守られていた。
世の中は「駕籠に乗る人・担ぐ人・そのまた草鞋を作る人」からなる。それぞれ肉体の在り方は異なるのが当然。文字通り怠惰をこよなく愛する私のように、仕事も遊びも区別なく、最小限のこの世との関わりで、まあ、主観的にはつねに遊んでいる人もいれば、重い肉体労働に従事する人もいる。いかなる形にせよ、この世との接触は避けられない。この物理的肉体を着ている以上、その接触によって世から肉体の糧を得るわけだが、どんな状況であれ、霊と魂は主の臨在を楽しむことができるのだ。
※紗窗=きれいなカーテンのある窓、蟋蟀=こおろぎ
8日は白露でした。ちなんで、旅先を想い、李白を意識しつつ、一首詠んでみました・・・。
下賀茂温泉の南楽、「花のおもてなしの宿」で「お・も・て・な・し」のプレゼンを観ていた。アレは自然でけっこうよかった。あの皇族のご婦人のフランス語のスピーチも。そこで漢詩も李白の「おもてなし」を詠んだものを・・・。美味い酒でもてなしを受けると、酔うほどに、そこが他郷であろうとも、あたかも故郷と区別がつかなくなるのだ。
*鬱金香=酒の名前
またぶり返してきてしまったようだ・・・。ニッポンでも竜巻が当たり前!?
バルコニーにて夏の午後の残日を惜しみつつ、まどろむ。が、日差しも、すでに秋だ・・・。