時空間を超える信仰の領域を味わう
- 2015/07/15 08:48
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:サブスタンス
今朝の走りはサイコー。今が走りには一番イイ季節だ
さて、聖書の真理は物理的時空間を超える。昨日の記事で、もしDr.Lukeが逝ってしまったと言うむきがあれば、そもそも聖書が逝っているのだ。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・・秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。-Eph 1:4-10
ここには時空間を超えた世界と、時空間の中での出来事が啓示されている。Are U with me? クリスチャンが自分の気分や環境などの地的な事象で振り回されるのは、このふたつの世界の違いが理解できていないからだ。すでにすべては完成している。
あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。-Ps 139:16
ここの「からだ」と訳された単語は"golem"、英語では"substance, yet being unperfect"。つまり「胎児」とするわけ。だが、文脈から見ると、体に限らないことが分かる。私の本質、私の人生、私のすべてが、ことごとく神の書に書かれている。それは神の信仰、すなわちサブスタンスなのだ。これが物理的時空間において時系列的に現出する。ゆえにイエスは「神の信仰を持て」と言われた(Mark 11:22)。神は永遠のはじめ(John 1:1)、つまり物理的時空間がまだ造られる前から、私たちをキリストにあって愛により選び、そのすべてを見透されたのだ。私たちの人生とは神の信仰の立証と言える。
信仰とは望んでいる事柄の実体(サブスタンス)であり、見ていない事の立証である。-私訳、Heb 11:1
ウォッチマン・ニーはこれを「霊的に得ること」と「実際的に経験すること」と言っていることは前にも紹介した。霊的サブスタンスを掴むならば、時系列の中でそれが現出するのだ。
私たちがキリストとともに十字架で死んで、キリストとともに復活した。これって、物理的時空間を超えた経験であろう?なんで二千年前に私がいるわけ?昨日の記事に違和感を覚えた人は、この真理を経験することはできない。われわれクリスチャンは物理的時空間を超えた存在だから。自分のマインドを"神"とする人々には決して味わえない祝福があるのだ。これが「秘められた計画」だ。だからパウロはこう奨励している。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、理解(原語)の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。-Eph 1:17-19
追記:このメッセージはグッド。信仰はNOW。すでに十字架で成就している真理をNOWとすること。
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