2015 is going...
- 2015/12/31 20:54
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:日記
- Tag:PHOTO
Dr.Luke的日々のココロ
ブログ・スクリプトをWord Pressにチェンジしました。明日(2017年3月10日)以降、このページは更新しません。新しいブログに移行します。
-DR.LUKE'S iDLE UTTERANCE(http://www.dr-luke.com/wp/)
なお、フレームは以前と同じです。
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-Dr.Luke's Spiritual Insight(本ブログ)
2015年12月
重い腰をあげて、ようやく年賀状を書き終えた。といっても手書きではないが・・・。漢詩を添えて軽く挨拶を、と。明日は大掃除の予定。こうしてまた行く年、来る年。いよいよ動乱の2016年を迎える・・・。
今や、信とは願うことの実質(実体)であり、見えない現実の証拠(立証)である(私訳)。-Heb 11:1
Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of realities not seen.(TLV)
Vincentは「こと」についてこう説いている:
Of things (πραγμάτων)
Πρᾶγμα is, strictly, a thing done; an accomplished fact. It introduces a wider conception than ἐλπιζομένων things hoped for; embracing not only future realities, but all that does not fall under the cognizance of the senses, whether past, present, or future.
それは「待ち望む」といった時間の要素を含む「こと」ではない。それはすでに成し遂げられている「こと」。「信仰があれば癒される」と期待する人は必ず裏切られる。そして「癒されないのは信仰がないと言うのか」と告発する。それはフェイスではない!大きな勘違い、しかも致命的。かくしてポセイドン・アドベンチャーの牧師モードに陥る。フェイスは時間を超える。そもそもこの五感の世界のものではない!それはシックスセンス。もっと言えば超能力だ。Are You with me? これを誤解すると、ニンジンぶら下げられて走らされるキリスト教に陥る。
このビデオは必見。フェイスのアキュミレーションについて説いている。
UPしました。
●タイトル:フェイスにより統治せよ
●聖書箇所:エゼキエル48:18;ルカ17:5-6など
●1月10日のセレブ(1月3日はランチョンですので、セレブはありません):
・場所:エスカル会館2F会議室
・時間:1300-1700
●Web:Kingdom Fellowship
●YouTube:Dr.Luke's KF_Channel
●セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。
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イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。
本日のメッセで紹介したが、ここでも・・・・。
矢沢が記者たちに、所詮人気商売だとか揶揄されたとき、一言。お前たちがいい学校出て、いい会社に入って、汗水流して、家族犠牲にして、一生かかって稼ぐカネ・・・、矢沢の2秒!
クリスチャンはこれを上回る。フェイスとは汗水流さず、都合のいい話。矢沢は2秒。われわれは0秒。すでに得ている。なぜ?だって、オレのオヤジはビリオネアだから!かくして
汗水流すな、フェイスを使え!
わたしたちは限度をこえて、他人の働きを誇るようなことはしない。ただ、あなたがたの信仰が成長するにつれて、わたしたちの働きの範囲があなたがたの中でますます大きくなることを望んでいる。-2Cor 10:15
信仰の成長の鍵は?これ、クリスチャンならばみな切望すること。で、我は●●を信ず!我は癒しを信ず!我はしるしと不思議を信ず!・・・・とやったところで疲れるだけ。神が嫌うもの-それは人の汗!(Eze 44:18) クリスチャンが一番弱い点は何か?それは罪意識だ。Sin-Consciouness! これにやられている人がいかに多いことか。これは霊の病気、浸潤型のガン細胞のようなもの。じわじわとわれわれの信仰を侵食する。逆に-
イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。-2Pet 1:1
「義によって」とあるのは「義をとおして」または「義にあって」が適切。私たちは信仰によって義とされた。が、神とキリストの義にあって信仰を授かったのだ。もっと言えば、義も信仰も神によって授かるもの。神は私たちに信仰を測り与えてくださっている(Rom 12:3)。義と信仰はキリストご自身である。ただ、私たちの罪意識がその流れを阻害する。あらゆる罪定めの感覚から解かれること。あなたは新生命体、ニュークリーチャーとして、神の前に完全とされ、罪のないものとみなされている。義意識(Righteous-Consciousness)に目覚めよ!すると自然にフェイスは増殖する。なにしろ、われわれのいのちはキリストとともに神のうちに隠されており、私たちはキリストと共に天の座にいる存在なのだ。はあ、とてもそんなおこがましいことは・・・と思う人は騙されている。それは謙遜とは言わない。真の謙遜とは神の言葉が啓示することをそのままに受け入れ、信じること!まことに
事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。-Prov 25:2
詳細はあすのメッセにて・・・
これ、ニューエイジでは「引き寄せの法則」などというが、真理である。いわゆるキリスト教の方が霊的法則に関しては無知というか、あえて避けている傾向がある。それで●●神学やxx神学でオツムだけの空転現象を起こしている。
主イエスの言葉はこうだ:あなたの信じたとおりになるように(Matt 8:13)。今の私たちが今の状態であるのは自分の信じていることの投影である。ヨブはそう証言している:自分の恐れていたことが起こった、と(Job 3:25)。よくガンに罹る人が言う言葉がある、恐れていたとおりになってしまったと・・・。まことにネガティブなフェイスの実体化だ。神がヨブを試みたのではない。すでに彼のフェイスに穴が空いていた。そこにサタンが付け入ったのだ。そこで神はむしろヨブを保護した。神はなぜこんなに正しい人を試みるのか、とか、この人が癒されないのは信仰がないというのか、とか・・・これらの告発はその人のフェイスの穴を証明していている。
では、何をどう信じるのか。一生懸命「使徒信条」を告白してもそれは意味がない。あなたのサブ・コンシャス(無意識)の層で信じていることがあなたのホントのフェイスなのだから。いわゆる聖書勉強をしたところで、この層に変革がなされないのであれば、裏切られるだけであろう。よく、自分はこんなに一生懸命に聖書を学んでいるのに、そしてそれを一生懸命告白ているのに、思わしい結果が得られない、とつぶやく向きがある。はっきりと言うが、あなたは本当には信じていないのだ。イエスの打たれた傷により癒された、と何度も繰り返しても、あなたのサブ・コンシャスの層がそれを信じていない。そこにフェイスが生きていない。ゆえに癒しは現れない。まことに
人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。-Luke 6:45
あなたのフェイスは何気に、ふと口にするその言葉に現れている。むしろ意識のタガが外れたとき、あなたのフェイスは現れる。だから真に信じている人は、ふと意識が離れるとき、癒しを受けるのだ。癒されるのはいつか、いつか・・・と絶えず意識している人は、逆になかなか癒しが現れない。あなたの意識がむしろ邪魔をsているのだ。自分にとっての世界は自分自身のフェイスの投影である。あなたが、世の中はこうこう・・・・とつぶやくとき、それはあなたの内的世界を表現しているのだ。あなたはあなた自身に向かってつぶやいているにすぎない。今のあなたの状態、あなたの人生、あなたの健康・・・これらはすべてのあなたの自身のフェイスの投影である。まことに信じたとおりになっているのだ。
では、そこから抜ける鍵は。すでに何度も繰り返しているが、アイデンティティー、ポジション、アビリティ、インヘリタンスに覚醒すること。意識の層だけでなく、無意識の層にまで聖霊のタッチを受けること。自然と、力を抜いている、何気な状態のときの自分の感情や言葉をよく観察すること。果たしてそれは御言葉の啓示にマッチしているかどうか。もし、いなかったら?ただちに、イエスの血をとり、悔い改めること。悔い改めとは後悔することではない。意識の向きを変えること。まずは意識的に御言葉の真理を選ぶ。このときに少なからず葛藤はある。が、聖霊に頼るのだ。それはスーパーナチュラル。このとき御霊は肉を処理してくださる(Gal 5:16-17)。究極的にサブ・コンシャスの層において御言葉が生きるとき、それは私のフェイスとなり、それが外側に反映される。まことにみ言葉どおりであると経験することになるのだ!
あなたの魂が繁栄しているように、あらゆることで繁栄するように-1John 1:3
本日、またひとつロックが外れた。宗教の霊により覆われていた。ルカ福音書17章。詳細は次回のメッセにて。
FBではすでに流したが、フランシスがちょっとワケの分からんことを言い出している。今年のクリスマスはシャレードであり、またある種の人々にとっては最後のクリスマスとなると・・・。
-The Pope Says This Christmas Is A ‘Charade’ And That For Some People ‘It May Be Their Last’
私も終末カルト牧師とかニッポンキリスト教徒らがディスっていたようだが(この連中は今頃どうしているだろうか?)、フランシスもすっかり終末モードに入った模様だ。かねてより言っているとおり、『文藝春秋』でも特集されていたようだが、ニッポンキリスト教はすでに生気を失っていることは誰の目にも明らかであろう。それはむしろ神のわざが現される条件なのだ。キリスト教は猿が人のモノマネをしているようなもの。繰り返すが、
クリスチャンよ、キリスト教を脱皮せよ、そして覚醒せよ!
最近知ったBill Winston。私の新著と全く同じことを・・・驚きとともにエンカレッジされたところ。
私たちは単に「罪許された罪人」ではない!そう信じている人は延々と罪責感と敗北感でのたうち回るだろう。その葛藤から解放されるために、礼拝出席厳守とか奉仕や伝道に邁進し、あるいは献身とか御言葉の追求とか、祈りとかデボーションとか・・・果てしなく自分のワザによって安心感を得ようとする。それがキリスト教なる宗教だ。それはそれでご自由にだが、聖書は何といっているか?
今やキリスト・イエスにある者は新創造である。-2Cor 5:17
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。-2Cor 5:21
新創造とは文字通り、新生命体、New Creature、New Race、Neo-Homosapienceだ。十字架は新しい人類を創造した場である。はあ~?自分のどこが新しいって???と感じる人は五感の人、つまり肉の人。それは五感を超えた世界のリアリティー、サブスタンス。しかももっとすごいことを聖書は語っている。私たちは信仰により義とされた(Rom 3:22)。義とはキリスト(1Cor 1:30)。いわゆる義認の教理だ。が、それにとどまっていない。私たちのアイデンティティーそのものが義、しかも神の義なのだ!これはスーパーナチュラルな事実だ。
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。-2Cor 5:21
Are you with me? 私たちはキリストにあって神の義とされている!繰り返すが、神の義、だ!わたしが神の義である!キリストは今やいのちを与える霊として物理的に束縛されていない(1Cor 15:45)。すなわちキリストの領域においてとは、もちろん霊の領域。私たちは霊の領域と物理的領域の狭間に置かれている。だからイエスという門、ポータルを通して、出たり・入ったりするのだ!(John 10:9) 繰り返すが、出たり、入ったりする!何処と何処を?See?
自分がどうのこうのを延々と繰り返す人々は、自分のアイデンティティーを知らない。五感の領域であれこれやりくりするのみで、真の自分を見出していない。何度も繰り返しているが、アイデンティティー、ポジション、アビリティ、そしてインヘリタンスに覚醒すること!それはフェイスの覚醒。メッセでも語ったが、信じる者は人ではないのだ。
相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。-1Cor 3:3
原文には「ただの」はない。邦語訳はこういう勝手な解釈を入れるゆえに、日本語の世界で考えてニッポンキリスト教が生まれることは何度も指摘している。肉の人とは、すわなち、人として歩むことだ。はあ?人として歩む、当たり前でしょう、私は人ですから・・・という人はご自由にだ。が、私たちは人、すなわちホモサピエンスではない!ネオ・ホモサピエンス。新種なのだ。ここは神学の問題でもなく、むしろ生命現象の問題。キリスト教なる宗教から解かれよ!そして覚醒せよ!
30年近く走っているこの森。今朝、ふと新しい小径を発見した。いつも見ていた。が、見ていなかったのだ。これが大脳の不思議。リアリティーはまことにブレインが作り出すもの。シーザーは、人は見たいことを見て、聞きたいことを聞くと指摘したが(認知の選択的透過性)、聖書も同じ。われわれは理解している、知っていると思い込んでいるが、実はまったく理解してもいないし、知ってもいない。 鍵は見ること。見たらやばいのだ、この本は。五感で読むな。この物理的世界に引きずり下ろすな。決して魂によっては理解できない。たとえば、私たちのいのちはキリストとともに神のうちに隠されている。これ、どういうこと?マジでわかれば、やばい。霊のことは霊によって解く。
今朝、またマインドのロックが外れた。すると神の声が実に明瞭に聞こえるのだ。それは波動。バイブレーション。
天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。 昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。-Ps 19:2-5
この「響き」の原語は”qav"、その意味は弦。つまりバイブレーション。この神のバイブレーションに私たちの霊が共鳴するとき、昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送るのだ。この「知識」はいわゆるオツムの知識ではない。神の創造は互いにバイブレーションを放ち、互いに共鳴しつつ、そこにことばと知識の交換が行われている。私たちの霊もその共鳴に参加することができるのだ。しかしこの世の喧騒に巻き込まれたり、目の前の事象にのめり込むとその共鳴は消える。
霊が研ぎ澄まされて、その微妙にして玄妙な霊の波動、バイブレーションを受けるならば、それはレーマとして私たちの霊に焼き付けられ、マインドがそれを解釈し、語り出す。するとそれはいずれ実体化される。ちょうどマインドはカメラのシャッターのようなもの、霊はレンズ、そして私たちの心はフィルムだ。先に病気の症状や問題の解決策を求めるのは罠。これでもがくクルシチャンたちが実に多い。が、マインドのシャッターが開けるとき、光が差し込み、レベレーションを受けるならばすべての病気や問題は解かれる。それがフェイス。サブスタンスだ。
フェイスがあればすべてのことは可能。なぜ、フェイスはサブスタンスそのものだから。そのサブスタンスをもたらす神のレーマに不可能はない。神のレーマにわれわれの霊がどれだけ共鳴することができるか、ここにすべての秘訣がある。