CLIP:Report: Iran opens fire at and detains US cargo ship in Gulf
- 2015/04/30 21:08
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:社会
- Tag:イラン
Dr.Luke的日々のココロ
ブログ・スクリプトをWord Pressにチェンジしました。明日(2017年3月10日)以降、このページは更新しません。新しいブログに移行します。
-DR.LUKE'S iDLE UTTERANCE(http://www.dr-luke.com/wp/)
なお、フレームは以前と同じです。
また過去ログはこちらで一覧可能です。
-Dr.Luke's Spiritual Insight(本ブログ)
2015年04月
午後、公園を軽くジョッグしていると後ろから、「今、何時ですか~」と女の子の声がする。ふと立ち止まって振り返ると、ロングの可愛い子が。スマホで確認して教えてあげると、「ありがとうございます。おじさん、これからどこいくんですかぁ」と言うので、「公園を回るんだよ」と答えると、「一緒に行っていいですかぁ」とついてきた。
随分と人懐っこく、歩きながらいろいろ話しかけてくる。いわく、家ではひとりでつまらないので公園に来てる。小学4年で、いくつも転校しているらしい。いじめが原因だとか。母親は30歳で、結婚しないで自分を産んだけど、相手がDVで逃げ回っているというのだ。ママは大好きだけど、相手の男は大嫌い、ママはいま別の男と付き合っている、と。しばしベンチで腰掛けて話し、ひとりでは危ないから気をつけて帰ってね、と別れた。
いやはや、小学4年でこんな人生の荒波をかぶっているのだ。話し方も如才なく、プリクラを見せてくれたが、JK的な色気すら醸している。わが一番上の孫は小学1年。思わず境遇の違いに思いを馳せ、彼女の今後の人生のために天を見上げて祈った。これが現代のニッポンの、もしかするとごくありふれた光景なのかもしれない・・・。
著書でも述べたが、神の介入の仕方は二通りある。ひとつは摂理による介入。出会う人、出来事、些細な会話などを通して導きをしてくださる。もうひとつは直接的介入。いわゆる奇跡だ。自然法則を一時停止あるいは超えて神が御業をなさる。いずれにしろ神はこの物理的時空間に働きかけるお方なのだ。
極私的には、自然科学系の人間なので、創造主なる神は一度創造されたら、あとは自然法則に任せて、自然界や人間界をはるか遠くの御座から眺めているだけ、というスタンスだった。だからなかなか父なる神の心がわからなかった。しかし、最近、うれしいことに、父なる神がどのようなお方なのか、メッセでも語っているとおり、これが実に迫るのだ。
天は裂けている。そこから父なる神はイエスに対して「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と言われたが、同時にこの言葉は私たちに対しても語られている。ルカ15章にあるように、まだ遠くにいる弟息子に走り寄るお方なのだ。今回もその父の顧み(favour)を経験させていただいた。Stay in God's favour。これは実に幸いなことだ。Glory be to God!
主からのGO(承認)が出ましたので、出版に向けて動きます。今回はニッポンキリスト教の中のみでなく一般書店に並べます。3社に照会しましたが、いずれも編集者の感想は好評。世には聖書解説本が山ほどあるが、どれも結局よくわからない。本書はストレートに理解できるとのこと。変な神学だの伝統だの、先入観がない方がいいのです。御言葉でストレートの直球勝負をかけています。発売は10月下旬。ヨロシク!
・神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー
UPしました。
●タイトル:マインドをガードせよ
●聖書箇所:2コリント11:3;コロサイ3:2;1ペテロ5:7など
●5月3日のセレブ:
・場所:横浜技能文化会館(音楽室)
・時間:1300-1700
・Web:Kingdom Fellowship
いつものDr.Kさんがヘブル11:1について論じておられる。小生の論も取り上げてくださっているので、こちらでもちょっと触れておこう。
ーーー以下、コメント欄の再掲ーーー
小生の論を取り上げて下さり恐縮です。ヘブル11:1の"substance"は邦語ではたいてい「確信」としています。この訳はひじょうに主観的と言えます。「得た」と霊が直覚するとき、魂は「確信」するわけです。
個人訳の新和訳は「実体化」です。「実体化」は霊の機能である直覚(intuition)を指していると思います。
「実体」はまさに霊的領域の存在そのものを言うわけで、小生の論は、この存在を、後半の「証明」とか「立証」の部分で、五感で実体化できる物理的時空間に現出させること、と解した次第です。エターナル訳では「ばくろする」となっています。
ヘブル3:14(Heb 3:14)でも、「最初の確信」と訳されていますが、これは内にいますキリストのことですから、「実体」が適切でしょう。「確信」なるものは時として揺らぎますから。かといって自分の努力で絞り出すようなものではないわけです。
ではこのサブスタンスはどこに存在するのだろうか、という点ですが、神の御心あるいは神の信仰(Mark 11:22)の領域と感じております。マルコは「神を信じなさい」は不適です。創造が神の信仰を語り出すことによりなされたように、その神の信仰を持てというのですから、すごいです。
私たちの願いが神の御心に沿うならば、何でもかなえていただけるわけです(1John 5:14)。私たちの祈りは神の御心あるいは信仰の領域に、自分の願うサブスタンスを作り出すわけです。ちょうど子供が親に何かをねだる時、親の心の中でそれを与えようとする想念ができるような感じですね。時がくれば、実際に与えるわけです。これが「立証」、すなわちサブスタンスの現出です。アブラハムのソドムに対するとりなしの祈りなどは、まさに神の心にサブスタンスを生み出したわけです。あるいは神の心にあるサブスタンスをアブラハムが代弁したというべきか・・・。
いずれにしろ、この論点は深いし、本質的です。一歩誤ると自力信心に落ちて、クルシチャンが出来上がりますが。神はかなえてくれない~と。とにかく日本語で考えると罠にはまりますね。
追記:
>このサブスタンスも霊の機能のどこかにあるのではないか。(MKさん)
そうですね、サブスタンスを共有できたとき、「得た」と分かるのかもしれません。祈りで神に求めるとき、神の信仰の領域にサブスタンスが形成され、それはまた神によって修正されたりしつつ、私たちの霊の領域、あるいは信の領域にも形成される。それが見事に一致したとき、願いがかなうという経験になるのでしょう。
神は決して一方的にいわゆる御心を押し付けませんし、私たちの願いや意志を最大限尊重してもくださる。彫刻をするときに二人が共同しつつ、刻み上げるといったイメージでしょうか?
チリでは火山、ネパールでは大地震。これはニッポンも来ますね。3.11の時のようにピンポイントでは語られてませんが・・・。
彼はいわゆる教団や基金に一切頼ることなく、すなわち給料を得ることも、ファンドを立ち上げることもなく、5つの孤児院を運営した。一時に2千人を養ったとされる。
あるとき、400人の子供のための給食の原資が尽きた。空っぽの器を見つめつつ、みなで天を見上げつつ手をつないで祈った。すると馬車が門のところに停車した。ある運動会のために弁当を用意したのだが、雨で中止となったのだ。パンと温かい牛乳が振舞われた・・・。
ミューラー自身は一切の財産を所有しなかった。しかし、50ポンドの資金から初めて、忠実に主に捧げているうちに、ついに年に2千から3千ポンドを捧げることができるようになった。ちなみに現在に当てはめると、当時の1ポンドは3万円程度。
ミューラーは祈りをすべてノートに開始日とかなえられた日を記録していた。かくして生涯で5万回の神の答えを得たと証している。ある時には瞬時に、あるときには20年、30年かかって。ある救いのケースでは彼の死後に・・・。神は生きておられ、真実である。彼はこのことを証明したかったのだ。
時代は下って、ウォッチマン・ニーも彼の影響を深く受けている。あるとき、ニーは2ドルしか手元になくなってしまった。月曜日には150ドルがどうしても必要なのだ。が、金曜日の夜、友人のために1ドルを捧げた。土曜日には物貰いに、一旦は50セントを与えようと思ったが、神は全額と言われ、彼はすべてを手放した。その瞬間、言いようのない解放感が彼の心を包んだ。もはや自分を支えるのは神だけだ!そして日曜日にメッセージの奉仕に与った。
はたして月曜日・・・。なんと為替で彼の元に150ドル+αが送金されてきた。手数料はαで賄えたため、150ドルきっかりが彼の手元に残った。これで彼は唯一の船に乗れたのだった。
Glory Be to God!!!
あるクリスチャンの船長が彼を乗船させたときの事。ミューラーは船長にこう申し出た。
「船長、伝えたいことがあります。どうしてもカナダのケベックに土曜日の午後までに到着していないとなりません。」
「それは不可能ですよ」と彼は答えた。
するとミューラーは言った、
「わかりました。この船がケベックに土曜日までに着くことができないなら、神は別の方法を何らかのかたちでみつけられるでしょう。私は57年の間、ただの一度も説教奉仕の約束を破ったことがないのですから。さあ、海図の広げてある下の部屋に行って祈りましょう。」
船長はこの神の人を見つめ、もしかしたら精神病院のお世話になっているだろうか、と思わず考えた。
「ミューラー先生、この霧がどれだけ濃いのかご存知ですか?」
「いいえ、私はどれだけ霧が濃いかではなく、生ける神に目をとめているのです。神は、私の生活のあらゆる状況を支配しておられるのです。」とミューラーは答えた。
それから彼は、もっとも単純な祈りを捧げた。その後で船長が祈ろうとすると、ミューラーは彼の肩に手を置いて、祈らなくてもいいと言った。そしてこう説明した。
「第一に、君は主が御業をなされると信じていない。第二に、私はすでに主が祈りに応えてくださったと信じている。だから君が祈らなくてはならない理由はどこにもない。」
船長がミューラーを見つめていると、彼は続けた、
「船長、私が主を知るようになってから、もう57年になりますが、主が私の祈りを聞かれなかった日は、一日もありません。船長、さあ、立ちましょう。扉を開いてご覧なさい。霧はもうなくなっています。」
立って扉を開くと、確かに濃霧は消え去っていた。
土曜日の午後、ジョージ・ミューラーはケベックに到着し、予定通りに奉仕することができたのだった。
何でも祈り求めたことはすでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。-Mark 11:24
追記:天のサブスタンスに生きる人は地の人からは精神病院行きと見えるのだ・・・。
UPしました。
-Kingdom Fellowship Podcast
●タイトル:偽りを拒絶し広いところに立つ
●聖書箇所:2コリント3:15-18;6:11-13;詩篇18:19など
●4月26日のセレブ:
参加ご希望の方はこちらまでどうぞ:info@kingdomfellowship.com
●お知らせ:Podcastも新規投稿ができませんので、新しいブログに移転いたします。