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神の意志と私の意志

しばしばキリスト教徒はこの二つを対立関係においてしまう。いわく、バプテスマのヨハネは、自分は衰え、あの方は栄えると言った。よって私たちは衰えるのだと。またゲッセマネの園で主が祈られたように、私の意志ではなく、あなたの意志がなるように、と。これが自我を十字架で否むことだと。これらははっきり言って宗教だ。ヨハネは旧約の終わり、ゲッセマネにおいては主は自分の役割をすでに知っておられたのだ。

これらのクルシチャンは父を知らない。下にリンクした孤児の霊のなせるワザなのだ。孤児は絶えず父の認知を求め、あれこれと気を回して、歓心を買おうとする。自分の業やあり方によって受け入れられようとする。かくして十字架で自己を否むと称して、自己疎外に陥り、ついには消耗するのだ。なんの喜びも得られないままに。父は私たちに何を求めるのか?と言われる。私たちは率直に自分がほしいものを求めるのだ、イエスの名によって。何でも与えられると主は約束された。それは私たちの喜びが満ちるためだ!私たちが喜ぶことは父の栄光なのだ。これが真の父と子の関係である。

私の意志を申し上げるとき、父の心の中にそれは置かれ、また父は私たちの最善を与えようと意志される。この私の意志と父の意志が絶妙に組み込まれて、サブスタンスが形成される。私が真に欲しいモノがわかり、父と私たちがそのサブスタンスを共有するとき、私たちは「得た」と分かるのだ。これが信仰の瞬間だ。するとあとは時間の流れの中でそれは実体化される。神の方法とタイミングに従って。私たちはその実体化の時を楽しみにしつつ待つのだ。忍耐をもって、と言うと、これまた宗教の霊に憑かれた人は歯を食いしばるイメージを持つが、これも違う。私たちは確実に願ったものを得ることが出来る。ゆえに心待ちにその時を待つのだ。大いなる期待をもって。もう、すでに得たから、得るのだ。すでに得たのだから、歯を食いしばる必要はない。父は富んだお方、寛容であり、慈愛に満ち、与えることを喜ばれるお方。なぜ、その方に対して、歯を食いしばる必要があろうか。

神は私の意志を最大限尊重される。次の約束は真実である。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。-Phil 4:6

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに-Eph 3:20

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