モチベーションがすべて
- 2015/12/04 08:36
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:意見, 信仰
- Tag:富
若い頃はカネが大きなモチベーションだった。クリスチャンではあったが、いわゆる「きよく・まずしく・うつくしく」といった宗教臭い生き方はまっぴらと思っていた。燃えた、そして稼いだ。それがプライドでもあり、パワーの源泉でもあった。若いうちはそれでよいのだ。カッコいい車に乗って彼女を作って、家を買って、家族を養って、と。若いうちはそれでいい。いや、そうであるべきなのだ。矢沢も言っている。若い頃はカネと女がすべて。しかし年を重ねると、カネは便利だが、それだけではないと分かるようになると。女との関係ももっとしっくりしたものになるとも。一度は目一杯稼ぐこと。
極私的には、人として「ひととおりのこと」を終えた今、カネはもはやモチベーションにならなくなった。つまり、カネそのものには燃えないのだ。いや、カネが不必要というのではない。神の国の拡大の為にはおおいに必要だ。つまりカネの位置づけが変わってしまったのだ。私は今、ケタを上げることを求めている。そしてすでに得ていることを知っている。すでに自分にとって必要な分はほんのわずかでよい。神の国の拡大のためにはケタを上げる必要がある。
FB創始者のザッカーバーグが持ち株の99%、5兆円を世界の子供たちのために寄付するとのこと。これ、実に爽快だ。英国のコリン・アーカートも、聖公会を辞め、自立的働きに入った頃は、完全に主に頼る生活を送りつつ、忠実に十分の一を捧げていたところ、ミニストリーが拡大し、本も売れた。そして今や、十分の一を自分のために残すようになった(お分かりですか?90%を捧げても豊かな生活ができるのだ!)。カネに憑かれて、自分のためにカネを取り置くことはその顔を卑しくする。カネはあっても貧相なのだ。
イエスはけっして貧しくはなかった。誕生の際、博士たちが献上した金(ゴールド)はどのくらいか?没薬と乳香も当時高級な香料だ。それらの価値は?イエスの上着はローマ兵が破って分けたが、下着は一枚織りであり、破ることなくクジ引きをした。一枚織りは高級品。宗教の霊から解かれよ、と何度も語っている。イエスは富んでおられたのに、私たちを富む者とするために貧しくなられたのだ(2Cor 8:9)。このコンテキストは物質的な富について語っている。はっきりと言う。貧困は呪いである。イエスはその呪いを終わらせた!持っている者はますます富むようになる。が、得るために得るではない。神の国の法則は、撒くことと刈ること。種をまかずに溜め込んでおいてどうして収穫があろうか。得るためには失うこと。
日本人はもともと清々しい、潔い、凛とした風格を持っていた。江戸を訪れた外国人は、ここはアジアではないと証言した。彼らから見れば、生活レベルは確かに低かったが、貧困はなかった。それが戦後、マモンに取り憑かれたニッポン人に堕し、実に卑しくなってしまった。捨てることを忘れてしまったからだ。捨てる。これはある意味、究極の美徳だ。イエスは自分を捨てた。だからすべてを得た。これこそがまことの富の得方。モチベーションのありか。これがすべてを決める。
富を得ようと苦労してはならない、かしこく思いとどまるがよい。
あなたの目をそれにとめると、それはない、富はたちまち自ら翼を生じて、わしのように天に飛び去るからだ。
物惜しみする人のパンを食べてはならない、そのごちそうをむさぼり願ってはならない。-Prov 23:4-6