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信仰による癒し

前から指摘しているとおり、このテーマはきわめてセンシティブで、感情的な反応が出る。ある人は、癒さないのは信仰がないと言うのか、と憤る。それはこの物理的時空間の中での経験をみて、それによって判断しているためだ。そして信仰は自分の何かによると思っているからだ。真理は、つまり御言葉は

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。-1Pet 2:24

この霊的サブスタンスを得るならば、つまり信仰を得るならば、物理的時空間にあるこの肉体に癒しが起こる。これは癒されない人がいる事実によって否定されることはない。なぜなら十字架の罪の赦しと病の癒しは永遠の現在にある不変のサブスタンスだから。この点、目に見える事実で、今日は癒しはないと結論することは大いなる損失。なぜなら神の言葉を否定するからだ。肉の思いは神に敵対するからだ(Rom 8:7)。そこで癒しの可能性はまったく消える。

しかし、この信仰を使うこと、あるいは信仰を解き放つことは、私たちのマインドの状態と密接に関係する。私たちは目の前の事実によって感情がクラッシュし、とても立てない状態に陥るからだ。これが肉の弱さだ。信仰を用いるとか言われても、魂は応答できなくなる。これは事実だ。イエスですら、ラザロの死に対して涙を流された。私たちはこの肉の弱さの中に制限されている。これが現在の経綸。イエスもそれを身をもって知ってくださっている。

しかし、騙されてはならない。信仰は本来肉の弱さを超える。ここで自分の確信とか、自分の感覚などと、信仰はまったく異なることに気がついた人は幸いだ。自分がもっとも弱くされている時にこそ、信仰は働く。いや、自分で働かせた意識もない。聖霊が語るのだ。それをただ聞くだけ。自分でアレコレするのではない。ただ聞くだけ。するとそのとおりになるのだ。信仰は私たちの肉の弱さの中で自由に働く。鍵は、ただ任せること。今、私が語られている言葉は、「トラスト・ミー」。

神の語られた言葉(レーマ)には不可能なことはありません。-Luke 1:37(原語)

イエスは私たちの弱さを知らない方ではない。十分知ってくださっている。が、そこに同情するだけではない。同情はその状態を肯定し、その人のアイデンティティーをそこにとどめおくことになる。彼はあわれみをもって、そこから引き出して下さる。同情(シンパシー)は力を生まないが、あわれみ(コンパッション)は力を生む。イエスの言葉を聞くことができれば幸いだ

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