思い込みの罪から解かれること(詩編19:13)

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。-詩編19:13

この「傲慢」と訳された単語は"zed"。その語根は"presume"、つまり「思い込み」。そこから"presumptuous"、すなわち「傲慢」となるわけ。高ぶりとか高慢は思い込みなのだ。

よくニッポンキ業界では「信仰は人それぞれ、互いの信仰を尊重し合って」とかのたまう人がいる。まあ、日本語の信仰の世界は確かにそうかもだが、フェイスは違う。それは霊的サブスタンスだ。

Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.-Heb 11:1

それはすでに存在している。「われはナントカを信ず~」とかやってる人は、自分の信条を宣言しているに過ぎない。それこそ「思い込み」なのだ。だからしばしば神から裏切られたと感じる。信じたのに癒されなかったあ~とか。まさにそれが傲慢の罪である。肉の思いは神に敵対し、自分勝手に誇るのだ。

なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。-ローマ8:7

彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで・・・-コロサイ2:18

フェイスは信念でもないし、信心でもないし、信条でもないし、教義でもない。それは霊的サブスタンス。それを実体化することがフェイスである。ヘブル11:1のDarby訳にはこうある-

Now faith is the substantiating of things hoped for, the conviction of things not seen. 

重力は距離の2乗に反比例する。キムさんすらもそれを認めざるを得ない。「3乗に反比例」ではロケットは飛ばないから。これが思い込みの罪、すなわち傲慢の罪だ。すべては法則による。霊の世界の法則も同じ。自分でいくら強く念じたところで、法則を外れるならばそれはナンセンス。霊的経験はすべてフェイスの法則に則るのだ(Rom 3:27)。

まことの遜りとは神の定めである法則に服すること、それはすなわち御言葉に服することに他ならないのだ。

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