霊の園を管理する

人はこの世界に自分の意志によらず生まれ、意志によらず去るという不条理に置かれている。その中を自分のオツムと肉体でサバイバルするのが人間の実存的状況(肉のあり方)。その努力を繰り返すうちに、いわゆる人生経験を積んで、個々の人生観とか価値観や美的センス、そしてリテラシーやスキルなどを獲得していく。

これがその人のアイデンティティーとなり、その物差しを他者にまた状況にあてがって、この人はどうの、この状況はどうのと言い出す。自分の物差しが絶対となるからだ。

しかし、これはあくまでもこの物理的時空間における話に過ぎない。イエスは決してそのような物差しによっては生きていなかったし、測ってもいない。彼は天の物差しに従っていたのだ。だから弟子たちに対してつねにフラストレーションを覚えていた。いつまで不信仰なあなたがたに我慢しなくてはならないのか!と。

またツロ・フェニキアの女が助けを求めてきたとき、犬に与えるパンはないと拒絶した。しかし、女が天の物差しを認め、それに服したがゆえに、イエスは女の願いを叶えた。その信仰を褒めつつ。彼は女がイエスのアイデンティティーとその物差しを見たことに喜びを覚えたのだ。ただ単に女が謙虚だったからとか、しおらしかったとか、純粋だったからではない。女が天に服し、天の法則を掴んだからだ。これが天の園を管理することのひとつの効力だ。

前に、癒しといじめのことに触れたとき、癒されないのは不信仰だからというのか、いじめっ子に立ち向かうことはかえって混乱をまねくし、いじめられる中で人は成長するものだと言われた向きがあった。これ、実に驚いた。未信者が言うのであればスルーだが、自分は御言葉を知っていると公言し、御言葉を人に語る立場の人の発言だったからだ。

はっきり言うが、これはこの物理的時空間における自分の経験と価値観によって事態をとらえ、アセスメントし、自分の能力とスキルによって解決をはかろうしているからに他ならない。天の園の管理および天の法則を何ら考慮していない。このような生き方こそがカインの道、レメクの誇りなのだ。

ところがしばしば癒しが起きないなどの形で神に裏切られたと感じるとき、「ポセイドン・アドベンチャー」の牧師メンタリティーに陥る。なぜ、神は癒さない、救わないのか。まだ犠牲を必要とするのか!と。カインの叫びだ。

クリスチャンの生き方はアベル(信仰による捧げ物)とセツの道(神の備え)にある。それは天の権威に服し、天の法則を用い、天の園を管理することによる生き方。天で与えられている自分の領域のサブスタンスを養い育て、それをこの物理的時空間に現出させるのだ。

つまり病気の癒しもいじめの問題も、その他この物理的時空間における森羅万象は、まず天の領域で処理するのだ。いくらこの物理的時空間の事態を分析し、あれこれ方策を講じても、それは対症療法に過ぎない。永遠にもぐらたたきゲームに陥る。

私たちクリスチャン一人ひとりにはそれぞれのキャパに従って天の園(=嗣業)が割り当てられている。信仰は割り当てられるものであり、自分でふり絞るものではない。そして天の園を管理する責任がある。どうやって?

霊の領域に入り、御言葉による祈りと賛美、そして礼拝によるのだ。下のイザヤ書にあるとおりだ。そこからまたこの物理的時空間に戻る。イエスは言われた、わたしは門である。わたしを信じる者はその門を出入りすると。

天の領域で問題が処理されると、私たちは「得た」とか「終わった」と分かる。理由は分からないが、分かる。これが信仰の瞬間。I Know That I Know.こうして天の権威を病気に対して、いじめに対し、さらにすべての私たちの人生に立ちふさがる山に対して行使するのだ。主は次の約束をくださった。

わたしは、あなたに天国のかぎ(複数形)を授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれており、あなたが地上で解くことは天でも解かれているであろう。-Matt 16:19(時制に注意)

決して天が地に従うのではない。天の事実、サブスタンスが地に現れるのだ。カインの道は地だけの価値観と能力・スキルや経験値で生きる生き方。それはセルフの道、いずれ破綻する。

というより、それに頑なにこだわる人は、実は神に裏切られることを恐れている。あるいはすでに裏切られたと感じているのだ。だから明け渡しができない。それは怖いことなのだ。ゆえに自分の能力・スキルを主張し、それに頼るほかなくなる。

彼らは確かに相当に勤勉に人並み以上に努力している。だから譲れないプライドがある。対して天のサブスタンスによって生きる人は安楽。努力もしない。天の園の果実を味わうだけだから。信じる者は自分のわざをやめて安息する。

アダムとエバは自分の感覚と価値観に従ってエデンの園を失った。その地を管理する義務を怠り、そのすべての木の実を享受する権利を失った。が、信じる者にはイエスの血によって天の園が贖い取られた。私たちはそれぞれ割り当てられた嗣業を天の園に所有している。そこに天のサブスタンスを植え、育て、養い、管理するのだ。

すでにそれらも神の信仰に含まれている。神が願われるように、天の法則に従って、感謝と賛美によって水を注ぎ、祈りにより養分を与え、サブスタンスを成長させるのだ。その園の広さ、つまり管理し得る領域のキャパ、そしてそこに育ったサブスタンスの質と量が、私たちの地上で享受する豊かさを決定する。私たちがその天の豊かさを享受することは私たちの喜び。そして御父の栄光。同時に私たちもその栄光に与るのだ。

私たちは自分の経験や自分の物差し、美的センスやスキルなどを放棄するほどに、天の園とサブスタンスがリアルになる。天の権威を行使する鍵は、いかに天の権威に服しているかにかかっている。服すれば服するほど、天の権威が、神の国の鍵がリアルに感じられるようになる。実感を覚えつつ、その効力に手応えを覚えるようになる。キテル、キテル、と。

目の前は何も変化しなくとも、その根っこはすでに腐れている。いちじくの木と同じように、いずれ木も枝葉も枯れる。私たちは目に見えるものによらず、見えないものによって歩む。が、それは何か心もとない経験ではない。実に手応えのある経験なのだ。イエスはラザロの甦りをきわめてリアルに感じていた。

神の国はリアルに到来している。影とか写しなどでは断じてない。神はサタンの権威に服する方でもない[1]神はサタンの権威に服しているとのたまうむきがあるのだが。。私たちは天の権威を、今、ここに、この物理的時空間に行使するのだ。天において御心がなるとおりに。そのためには天の園を管理し、その領域を広げ、そのサブスタンスをどれだけ養い育てることができているかが問われる。私たちの味わう豊かさと栄光はまさにこのことに比例するのだから。

天の園のサブスタンスはどのように解き放たれるか。それは語ることによる。神の国はイエスがなされたと同様に、語り出すことによって実体化される。私たちは信仰の霊を得た者は信じたなら語る。サタンは私たちが語ることをウザイと感じるのだ。だから私たちの口を塞ぎたい。

パウロに主は言われた、語り続けよ、と。イエスも語り続けた。すでに世はサタンの王国の言葉で満ちている。テレビ、ネット、映画、音楽、芸術などなど。天の園を管理し、サブスタンスを育たてたら、語ること。神は語ることにより創造された。原則は同じ。神は私たちの口の言葉の実を創造されるのだ。

GLORY BE TO GOD!

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1 神はサタンの権威に服しているとのたまうむきがあるのだが。

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