癒しの現れの差は何によるか

不思議なことに、いかなる難病もスッと癒されてしまう人と、信仰に励みつつもなぜか癒されない人が分かれる。この差は何によるのだろうか。前者は別に何の努力もしていないが、自然と癒される。後者はガンバってもガンバっても状態が変わらない。神は不公平なのか? 実際、しばしばこのように訴える人が出るのだ。

この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである。-Matt 13:15

霊的領域においてはすでに「イエスの打たれた傷により癒された」。これが真理、サブスタンス。このサブスタンスを得て、自分の物理的身体において立証すること、これがサブスタンスの実体化。すでに書いたが、ウォッチマン・ニーは、祈りが叶えられることは二段階からなると説いている。まず霊的にサブスタンスを把握する、つまり霊的にゲットする。次に物理的にそれを所有する。

霊的にゲットするために重要なのは霊だ。昨日のご婦人のようにマインドを経由せず、直にレーマが霊にタッチするとき、それは光となり、信仰となる。それが得られるならば、あとは感謝と賛美で水を注いで、そのサブスタンスを育てる。すると神の時と方法において、それが実体化される。

信仰は、神は必ず癒して下さるだろう、ではない!これは希望であり、願いだ。信仰は、すでに得た、つまり今、ここで、だ。永遠の現在におけるサブスタンスが、時系列の中にいる私たちのNOWに切り込むのだ。神のパワー、デュナミスが流れ込む。二千年前の事実が時空間を超えて、私のものとなる。つまり元々信仰はスーパーナチュラル。

霊の再生や、神との交わり、魂の造り変えなど、それ自体がスーパーナチュラル。自分の聖書の知識や経験を得れば得るほど、人は誇り高ぶり、マインドを肥厚化する。これがこのマタイの節にある「鈍くなり」の意味だ。Strongによるとこうある:

pakh-oo’-no
From a derivative of G4078 (meaning thick); to thicken, that is, (by implication) to fatten (figuratively stupefy or render callous): – wax gross.

厚くワックスを塗られていること。まさにマインドが肥厚化することだ。肌にも皮脂がベッタリだと、ローションを塗っても浸透しない。まず厚く積もった皮脂を除く必要があるのだ。ここでのポイントは、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心で悟り、悔い改めること。”自分の”が鍵だ。私のメッセを聞いて分かったツモリになっても、無意味だ。あなたが自分の霊で掴む必要がある。

この意味で受動的な人はダメ。ワーシップも手を上げ、声を上げ、自分の内側から捧げる必要がある。天の国は激しく襲うのだ。霊的には図々しくなる方がよろしい。ワーシップの中におられる霊に自ら叫び、自ら手を伸ばして掴むこと。この節の「悔い改め」と訳された単語は普通の悔い改め(メタノイヤ)ではない。”epistrephō”であり、Thayerによれば、

Thayer Definition:
1) transitively
1a) to turn to
1a1) to the worship of the true God
1b) to cause to return, to bring back
1b1) to the love and obedience of God
1b2) to the love for the children
1b3) to love wisdom and righteousness

神への賛美に向き直ること、だ。自分から目を離し、神へと向き変えること。癒しを受けた人の証を聞くとき、重要な共通点が見られる。それは自分を忘れている時に癒しが起きていることだ。ワーシップなり御言葉なりに夢中になって、自分の症状や病状を忘れている時、勝手に何かが起きる。本人もそれが何かは分からない。ところが気づいてみると、苦痛や痛みが消えてしまっている。自分の症状を見つめて、いつ癒されるか、まだか、まだか、とやっている人は・・・以下略。

ポイントが分かるだろうか?エピストレフォーするとき、神の霊が働き、デュナミスが流れ込むのだ。マインドが自意識ではなく、神意識になるとき、神の霊と共鳴し、魂も体も天と共振する。この時、神の国のサブスタンスが実体化される。五感に基づく自分から離れる時間が積もることに比例して神のわざは進む。

それは神の栄光の中に入っている時間だ。神による造り変え(トランスフォーメーション)も、癒しも、必要の満たしも、すべては神の臨在と栄光の中でなされるのだ(2Cor 3:18;Phil 4:19)。前にも書いたが、神の栄光はカボド、それは重さ。神に触れられることはヘビーなのだ。

全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。-Ps 100:1-5

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