私の意志と御父の意志-孤児の霊から解かれよ!

しばしばキリスト教徒は、私の願いではなくあなたの願いがなりますようにと祈る。が、心の中にはある種の疎外感が残りつつ・・・。疎外感は孤児の霊の兆候。

神学論争するつもりはないが、私の意志と神の意志、これら二つを対立関係においてしまう。いわく、バプテスマのヨハネは、自分は衰え、あの方は栄えると言った。よって私たちは衰えるのだと。またゲッセマネの園で主が祈られたように、私の意志ではなく、あなたの意志がなるように、と。これが自我を十字架で否むことだと。

これらははっきり言って宗教だ。ヨハネは旧約の終わり、ゲッセマネにおいては主は自分の役割をすでに知っておられたのだ。

これらのクルシチャンは父を知らない。それは孤児の霊のなせるワザなのだ。孤児は絶えず父の認知を求め、あれこれと気を回して、歓心を買おうとする。自分の業やあり方によって受け入れられようとする。かくして十字架で自己を否むと称して、自己疎外に陥り、ついには消耗するのだ。なんの喜びも得られないままに。

が、父は私たちに、何を求めるのか?と言われる。イエスも盲人に対して、「わたしに何をしてほしいのか」とあえて問うた。私たちは率直に自分がほしいものを求めるのだ、イエスの名にあって(In Jesus’ Name)。すると何でも与えられる、と主は約束された。それは私たちの喜びが満ちるためだ! 私たちが喜ぶことは父の栄光なのだ。これが真の父と子の関係である。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。-ヨハネ15:11

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。-マタイ7:11

与えることは父の喜び、受けることは私たちの喜びである。私の意志を申し上げるとき、父の心の中にそれは置かれ、また父は私たちの最善を与えようと意志される。この私の意志と父の意志が絶妙に組み込まれて、サブスタンスが形成される。私が真に欲しいモノがわかり、父と私たちがそのサブスタンスを共有するとき、私たちは「得た」と分かるのだ。これが信仰の瞬間だ。するとあとは時間の流れの中でそれは実体化される。神の方法とタイミングに従って。

私たちはその実体化の時を楽しみにしつつ待つのだ。忍耐をもって、と言うと、これまた宗教の霊に憑かれた人は歯を食いしばるイメージを持つが、これも違う。私たちは確実に願ったものを得ることが出来る。ゆえに心待ちにその時を待つのだ[1] … Continue reading。大いなる期待をもって。もう、すでに得たから、得るのだ。すでに得たのだから、歯を食いしばる必要はない。父は富んだお方、寛容であり、慈愛に満ち、与えることを喜ばれるお方。なぜ、その方に対して、歯を食いしばる必要があろうか。

神は私の意志を最大限尊重される。次の約束は真実である。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。-Phil 4:6

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに-Eph 3:20

 

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1 これはちょうど当選した宝くじの券を持っているのと同じだ。現ナマはなくても、すでにそれを得ているのだ。だから引き換える日を心待ちにするのだ。

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