主の喜びは主に責任を取っていただくこと
御父を喜ばせるとはいかなることか。宗教的に考えてはならない。
そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。-Mark 9:21-23
この場面について、ウォッチマン・ニーはこう説いている(”Ye SEARCH the SCRIPTURES“,pp.67-68, CFP, 1974):
父親の心は生半可な状態だった。主に近づいたものの、主を真に信じてはいなかったのだ。この父親の言葉は主の厳しい叱責を受けた。
私たちの主は人々が些細な要求をご自身にすることを好まれない。主は、人々が主になして下さるかどうかを尋ねること、あるいは主よ、あなたはなすべきです、と要求することはなんら意に介されない。しかし、この場面での父親の姿勢は、あなたにできるならばよいが、できなくても仕方ない、あなたのお弟子さんはできなかったのだから、あなたにできなくても当然だ、というものだった。
この姿勢に対して主は怒られ、なおもできればと言うのか、信じる者には何でもできる!と叱責された。この言葉を聞いて父親はただちに涙とともに叫んだ、「信じます!不信仰な私を助けてください」と。叱責と過ちの指摘を受けて、彼は主に立ち返った。
今や、彼は主を信じた。こうしてすべての責任を主に置いたのだ。なんと美しいシーンであろう!人の要求が大きければ大きいほど、主は幸福なのだ。要求が小さければ小さいほど、主は不満足を覚えられる。このような主の感受性に対して私たちは敏感であるべきだ。こうして福音書全体が主の栄光に満ちていることを知ることができる。
主を喜ばせる鍵は何か?すべての責任を主に置き、大きな求めをすることだ。私は信じました。主よ、今や、あなたがなさる番です、と!それは宗教ではない。
Thinking BIG,
Asking BIG,
Putting EVERYTHING on HIM,
then BELIEVING IN HIM!!!
It’s HIS PLEASURE!!!
GLORY BE TO GOD!!!
癒しの阻害要因についてDerek Princeがこう説いている。
フェイスがなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神が「ある(=YWHW)」こと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。-Heb 11:6
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