フェイスは霊と物質の相互作用を生成する

かつてユリゲラーなどの超能力が話題になった。金属は力を入れずに曲がったり切れたりはしない、と私たちのマインドは思っている。根拠は常識、経験、サイエンス? が、それはマインドが作り出したマトリックス。一時脚光を浴びた清田益章氏(すでにクンではない、オッサンだ)、彼は言う(要旨のみ)-

だれもの心に「思い」が浮かぶがそれは泡のようにすぐに消える点のようなもの。「想い」は相手がいて、点と点を結ぶ線となる。さらに「願い」になるとこれが面を構成しアクションを起こす。そして「念」は今の心、さらに「祈り」へと発展する・・・。未来は「未だ来らず」の世界、人は今にしか生きられない。自分がスプーンを曲げる時、5分後のスプーンが切れた状況が心にありありと浮かび、実に豊かな世界を作る。その5分後の今を、この今に展開させるとスプーンは切れる・・・。

まさにフェイスの証。ヘブル11章1節のフェイスには定冠詞はない(Heb 11:1)。つまりクリスチャンのフェイスに限らないのだ。人は神の形に造られ、地を治めよ、と権威を委託された存在。地とはこの五感で感知する物理的世界だ。サイエンスによって幾分かは成就していると言えるが、逆にそのサイエンスのマトリックスに閉じ込められているのが現代人。よって清田氏の現象もインチキと見たくなる。

が、当初アダムが得ていたパワーはどれほどのものか。堕罪の結果、そのパワーは潜在化した。たまたま清田氏のようにそれが顕現するといわゆる超能力となる。それは、実は、決して「超」能力では、そもそもないのだ。アダムにとってはごく普通の能力だった・・・[1]このパワーについてはウォッチマン・ニーの”The Latent Power of the Soul“を参照されたい。

物理的時空間において五感の世界で聖書を読むと、「きよく・ただしく・まずしく・うつくしく・・・」のキリスト教という宗教体系が出来上がる。それは人のマインドが構成するマトリックス。その中で散々苦労するクルシチャンたちがほとんどの現状。キリストはアダムが失ったものをすべてゲットバックされた。血によりその代価を完全に支払われた。

否、アダムの原状復帰にとどまらず、彼が取り損なったいのちの木の実として、彼が神に至るにはわずかに足りない要素を埋めた。すなわち、われわれの霊は神から生まれた存在(☞エロヒム属の誕生)。それは神性を帯びている(2Pet 1:4)。私たちは神の性質をシェアする存在。神は肉をとおしてそれを現される(1Tim 3:16)。肉から生まれた私たちが神になるのではない。神性を有する霊が新しく誕生したのだ。霊から生まれるものは霊である[2] … Continue reading。私たち自身が「キリストにならいて」的生き方をしたところで、それは文字通りの猿真似。そうではなく、キリストご自身が生きるのだ(Gal 2:20)。ゆえに生きるとはキリストである(Phil 1:21)[3]神をエミュレートする。しかし肉にあって生きている私もいる。それは御子フェイスによって生きる。これがガラテヤ2:20の説くところ。

イエスは人としてすべてのことをなされた[4] … Continue reading。彼のうちにおられる父の言葉を語り、父のわざをなした。彼は自分からは何一つしていない。つまり彼のわざはすべて父なる神のわざ。

これと同じ霊的メカニズムが私たちにも働く。新しい生命体とされた私たちはキリストと同じアイデンティティーポジションアビリティインヘリタンスを有している。そのほとんどが現在は潜在化していしまっている。キリスト教なる宗教のマトリックスや自分の身体や生活の思い煩いなどによって窒息させられているのだ(Matt 13:6-8)。ゆえに覚醒せよ!(☞iPAIの覚醒) すでに得ているものに気づけ! それを使え! 清田氏も自分の中に埋もれているパワーに気がついたのだ[5]別にクリスチャンがスプーン曲げができるようになれと言うのではない。それは清田氏も言っているとおり、単なる趣味。

かくしてフェイスは物理的エンティティと霊的エンティティの相互作用と引き起こす。元々ダムのは土のチリから構成され、神のを吹き込むと生きるとなった(Gen 2:7)。魂は知・情・意からなるが、物質である体と霊の相互作用から生成したのだ(☞人間とは[6]このあたりはG.H.Pemberの”Earth’s Earliest Age“が詳しい。。イエスは水をぶどう酒に変え、パンを増やし、切断された耳を修復した。物質をフェイスにより操作したのだ(☞ナチュラルVs.スーパーナチュラル)。これがいわゆる超能力の正体である。ただし、清田君にしてもニューエイジャーにしても、その接点はクリスチャンとは異なる。われわれの接点、チャネル、ポータルはただイエスのみである。

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。-John 10:9

われわれはこの門を出入りするのだ。どこと、どこを? そう、物理的領域と霊的領域をである。かくしてフェイスによりわれわれはイエスと同じわざ、さらに大いなるわざができるのだ(John 14:12)。

霊的領域のサブスタンスを見よ。見たものはゲットできる。それは霊から生まれるフェイスによるのだ! フェイスはシックスセンス。五感の領域から解かれて、フェイスはすでになされている永遠の霊的サブスタンスをNOWizeする。これ私の造語だが、現在化だ。永遠の現在化。かつて『真理はあなたを自由にする』において、フェイスとは永遠の世界の霊的逆算I AMの実体化であると書いた。その現れをわれわれは経験する!

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1 このパワーについてはウォッチマン・ニーの”The Latent Power of the Soul“を参照されたい。
2 犬は犬を生む、猫は猫を生む。神は神を生む・・・というとかなり抵抗を覚えるだろう。えっ、神はただおひとりではないのか? これもエロヒムを神と訳したことによるトリックだ。エロヒムは霊的生命体。種々のエロヒムが存在するが、それらを創造したもっとも高きエロヒムがYHWH、いわゆる父・子・聖霊にいます「有りてある(I-AM)」なる三位一体の神である。つまりエロヒムはエロヒムを生むのだ。これがわれわれの霊である。神はご自分の霊を分け与えて(dispencing)下さった(1John 4:13)。
3 神をエミュレートする
4 使徒行伝10:38では、ナザレのイエスは神が共におられたので、あれだけのわざをなし得たと証言している。「ナザレのイエス」とは人としての存在を意味し、「神が共におられた」のは神として振る舞ったのではないことを示す。
5 別にクリスチャンがスプーン曲げができるようになれと言うのではない。それは清田氏も言っているとおり、単なる趣味。
6 このあたりはG.H.Pemberの”Earth’s Earliest Age“が詳しい。

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