「AD70年に再臨が起きた」と再建主義者は説くが・・・

次の再建主義富井氏の論、ほぼ同意だ。「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」を区別すべきではないこと。天と地の権威は主イエスにあること、エクレシアが天の法廷の裁決を地上で執行すべきこと、すべてが新しくされたこと。

が、理解できないのは、AD70年がその境である点。AD70年に主が再臨された?! すべてが新しくされたことは万物が改まったことであり、それがAD70年の再臨だとするわけだ。それ以降は千年期に入っているとする。

が、現状はとてもそれに似つかわしくない[1]これは彼によれば、イルミナティなどが終末的光景を演出しているためだとする。ゆえにイルミナティなどを駆逐すべきであると。。それは法的現実を地上の現実にするためにエクレシアが実際化する必要がある。なるほど、ほぼ私が言っていることと同じだ。ヘブル書(Heb 11:1)には「フェイスとはサブスタンシエイション(実体化)」とある(Darby訳)。

極私的に理解できないのは-

  1. あの(The)5000人に向けて主を遣わして下さると言ったのだから、彼らが生きている間に主が再臨しないとペテロは彼らを騙したことになる、と言うわけだ。そこでAD70年の旧約の神殿崩壊が主の再臨であると結論される・・・か? なにゆえに、神殿崩壊=再臨???
  2. 更に彼の論では、千年期に入って全世界が福音化された暁に再度主は肉体をもって再臨されると。これでは再再臨だ。AD70年の”再臨”は霊の再臨とでも言うのであろうか? そもそも主は聖霊が来られるときわたし(と御父)もいるようになると言われた(John 14:18;14:23;16:16)。聖霊はジーザスを証しする霊であり、御父と御子を、つまり三位一体の神(YHWH)を私たちのうちに生かすのだ。肉体では地上にはいないがリアルに私たちのうちにいのちを与える霊としておられる(1Cor 15:45;2Cor 13:5)。
  3. AD70年の再臨には史的証拠はないが、それは不要、聖書が書いているのでそのとおりだとする(@別記事にて[2]ちなみに彼は当時のクリスチャンは携挙されたとも主張している。)。しかし、聖書が書いているのではなく、彼(再建主義などのいわゆるポストミレ)がそう解釈しているのだ、と極私的には考える次第。事実、富井氏も「われわれは、紀元70年における神殿崩壊においてイエスは再臨されたと考えるべきである。」と言っている。「考えるべき」と。
  4. 現在、われわれの霊は新しい創造、スーパーナチュラルなニュー・クリーチャー、エロヒム属であり、われわれはYHWH家のメンバー[3] … Continue readingである。が、現肉体はうちに罪(Sin)を宿す旧創造のもの(Rom 7:17)。パウロも体は罪の故に死んでいるが、なお滅ぶべき体に御霊はいのちを与えると言っている(Rom 8:10-11)。それは肉(flesh)の構成要素であり、朽ちるものは御国を受け継ぐことはないし、肉は御国に入れないのだ(1Cor 15:50)。ゆえに現在が千年期であることはない。
  5. 以上より、万物が物理的にも改まるのはAD70年ではあり得ず、来たるべき再臨の時であると結論される。その時には瞬間的に私たちは変えられる(1Cor 15:51-53)。そのとき死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる! 今、われわれは死なないものを着ているだろうか? 否! ゆえに再臨はこれから起きるべきなのだ。

というわけで、彼もスーパーナチュラルなどを唱え出したので大いに共鳴する/したい点は多々あるが、なぜかこの辺りになると彼のマトリックスに違和感を覚えてしまうところである。

なお、AD70年の神殿崩壊が黙示録やマタイの終末予言の成就であるとするためには、黙示録がAD70年前に書かれている必要が生じる。通常はAD95年あたりとするが、再建主義ではAD60年代とする。この点については次の記事を参照されたい。

いずれにせよ、いつも思うが、同じ書を読みながらこれほど大きな差異が生じるとは、人の内的マトリックスの構成のあり方は、外部情報の取り入れ方(認知の選択的透過性)によっていかようにもなり得ることを証明しているのだ。

参考記事:

われわれには世界を所有する権利がある

tomi 2018/03/13(火) 23:35

われわれには世界を所有する権利がある


さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた(使徒の働き8・14-17)

この箇所から「聖霊のバプテスマ」を「第2の恵み」として受けるべきだと考えることはできない。

教会によっては「洗礼だけではだめだ。聖霊のバプテスマを受けなければならない」と教えるところがある。

21世紀に生きるわれわれは、イエスを信じたら聖霊のバプテスマをも受けたのである。

しかし、紀元1世紀の人々は御名による水のバプテスマを受けただけで、聖霊のバプテスマを受けていない人がいた。

なぜならば、ペンテコステまで聖霊のバプテスマは教会に起こらなかったからである。

使徒行伝2章に記されているペンテコステ以降、クリスチャンには例外なく、聖霊のバプテスマが起きるようになった。

この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。(エペ1・13)

「救いの福音を聞き、またそれを信じた」ならば、「約束の聖霊をもって証印を押され」るようになった。

現代において、真の信仰を持つクリスチャンであるにもかかわらず、聖霊を受けていないなどという人はいない。

ことさらに「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」を分けて考え、「信仰による救いのほかに特別な体験が必要だ」と考えるべきではない。

2.

しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。
このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。(使徒の働き3・18-21)

これは、イエスの昇天後の、ユダヤ人に向けて言われた言葉である。

「あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるため」

つまり「昇天され、今、天におられるイエスは再び来られる」と言っている。

このペテロの説教によって5000人が救われた。

しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。(使徒の働き4・4)

さて、もし再臨が、われわれの未来に起こると考えるならば、「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです」という約束は成就しなかったということになる。

ペテロは5000人の回心者を裏切ったことになる。

「イエスを主が遣わしてくださるのだから悔い改めて、神に立ち返れ」と言われたのに、イエスは来られなかったと。

彼らの希望は無残に裏切られたと。

ペテロは、この説教において、紀元1世紀のユダヤ人のもとにイエスが再臨されると言ったのだ。

われわれは、紀元70年における神殿崩壊においてイエスは再臨されたと考えるべきである。

紀元70年に、旧約のシステムが崩壊し、新しいシステムが始まった。

このときに「主の御前から回復の時が来て」、「神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時」がやってきた。

世界は、紀元70年において回復し、万物は改まったのである。

栄光のイスラエルは回復した。

南北に分裂し、その後捕囚にあってちりぢりになったイスラエルの民は再びイエスによって集められた。

真のメシアであるイエスを王とするイスラエルは復活した。

ペテロの説教によって回心した人々は、裏切られなかった。

イスラエルだけではなく、万物が回復した。

ここで「万物の改まる時」の「改まる」は原語でapokatastasisであるが、これは、「回復」という意味である。

紀元70年において「万物は回復した」のである。

エデンの園においてサタンに奪われた世界の主権は、神のもとに戻り、第2のアダムであるキリストが支配者となった。

それ以来、キリストは世界を「法的に」支配しておられる。

つまり、世界の所有権はキリストの御手に入った。

それゆえ、キリストの御体である教会(エクレシア)は、世界において勝利し、「実際的に」支配するようになる。

紀元69年の世界と紀元70年の世界はまったく違う。

昇天前のキリストが言われた王権宣言は、紀元70年において完全化され本格化された。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28・18)

われわれは「万物が回復した」状態の中で生きている。

3.

ある人は「これが千年王国ですか?戦争と悲惨と罪に満ちたこの世界が回復された世界?笑わせないでください」というかもしれない。

回復されたのは「法的」である。

紀元70年におきたことは「法的回復」である。

アパートの所有権を手に入れても、実際に、まだ居住者がいれば、そのアパートを壊して、マンションを建てることはできない。

実際に所有するには、アパートの住民をすべて引っ越しさせ、空にする必要がある。

この「法的現実の実際化」は教会(エクレシア)に委ねられている。

われわれは、努力してアパートの実際的な管理権を獲得しなければならない。

クリスチャンの使命は、これである。

神はヨシュアとカレブに「行ってカナンを占領しなさい。私はその地をあなたがに与えたのだから」と言われた。

「法的に所有権があなたがたに移転したのだから、行って自分の努力によって、実際的に所有しなさい、」と言われたのである。

福音伝道とは、神の民を集め、地球を元通りに神の所有に変えるために行われるべきものである。

単に「天国への切符」を与えるためではない。

われわれが戦えば、必ず勝つのである。

われわれには世界を所有する権利があり、義務がある。

 

 

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1 これは彼によれば、イルミナティなどが終末的光景を演出しているためだとする。ゆえにイルミナティなどを駆逐すべきであると。
2 ちなみに彼は当時のクリスチャンは携挙されたとも主張している。
3 もちろん父・子・聖霊とは異なる。同じ家族でも親と子は別人格だ。ちなみにローカルチャーチのウィットネス・リーは、神性と人性を混ぜ合わせて人が神格を持たない神になると言う。これは東方教会の神化とも通じるが、無理がある。エロヒムを神と訳したことから生じるムリのある論だ。エロヒムは霊的生命体の総称であり、それを創造された最も高きエロヒムがいわゆる父・子・聖霊のYHWHである。YHWHは創造主の固有名詞であり、(LORD)と訳すことは不適である。固有名詞は訳すべきではない。

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