霊と魂の相克-フェイスの領域の拡大とマインドのリニューアルは比例する

イエスは地上に神(YHWH=I-AM)が人となって現出され、水の上を歩いたり、パンを増やしたり、病人をことごとく癒し、死者を生き返らせたり、自分の肉を食べ、血を飲めと言ってみたり・・・、こういった言葉に対して民衆は「だれがこんなことを聞いておられようか!」と反応した(John 6:60)。ある者たちは「イエスは気が狂ったと思った」ほどだ(Mark 3:21)。

つまりイエスの言動は五感の領域の経験から構築されたマトリックスから著しく逸脱するものであり、こういった事態は人の常識やパラダイムを揺すぶるのだ。そして人は自分の世界観やパラダイムに脅威を覚える場合、批判や攻撃性を見せる。

前回のメッセでも語ったが、私がやばいことを言っているのではなく、聖書なる書物自体が元々ヤバイことを証しているのだ。いわゆる歴史的キリスト教はその中の自分が受け入れることができる要素だけをつまみ食いして、いわゆる神学や文化や伝統を構築してきた。それはトランスフォームされていないマインド(この世の形に構成されたマインド、cf. Rom 8:2)でも受け入れられる要素だけに基づいて構築された体系(マトリックス)である。

たとえば、その体系の中では五つのパンで五千人を養うことは、神であるイエスにはできても、人間である自分たちには不可能とする。ところが聖書はこう語る-

あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:37-38

「ナザレのイエス」の称号は人間としてのイエスである[1]キリスト(=油注がれた者・メシア)は役割の称号である。。神は彼に油を注ぎ、彼とご一緒だったから、一連の出来事がガリラヤからユダヤ全土で起きたと言うわけ。神としてイエスがわざをなしたのであれば、なぜ神が一緒にいる必要がある?

そこで私たちにも無限の可能性が開かれる。イエスと同じ業、さらにはもっと大いなる業がなし得るとチャレンジする(John 14:12)。カギは聖霊と力を受け、神がご一緒であること。イエスは言われる―

わたしを信じる者はわたしと同じわざをなし、さらにそれよりも大いなるわざをなす。なぜなら私が父の元に行くからである。-John 14:12

根拠は、イエスが父の元に行くことである。そしてすでに行かれた。ゆえにこの聖句は今・ここで有効である! なぜ、イエスが父の元に行くことが根拠になるのであろう? それはイエスが御父の要求をすべて満たされたことの証明だからだ。しかも、そのイエスは今や私たちのうちに生きておられる。しかも、イエスと御父が一緒なのだ!(John 14:23) つまりうちに私たちは父・子・聖霊、すなわち最も高きエロヒムであるYHWHを内に住まわせる存在。われわれの霊はまさに天の御座と直結している。それは天と地を結ぶポータルである!

そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。-Col 2:10

「満ち満ちている」は「プレロー(pleroo)」、その意味はStrongによると

to make replete, that is, (literally) to cram (a net), level up (a hollow), or (figuratively) to furnish (or imbue, diffuse, influence), satisfy, execute (an office), finish (a period or task), verify (or coincide with a prediction), etc.: – accomplish, X after, (be) complete, end, expire, fill (up), fulfil, (be, make) full (come), fully preach, perfect, supply.

何に満ち満ちているのだろうか? Amplifiedによれば、

For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature].

And you are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature]. And He is the Head of all rule and authority [of every angelic principality and power].

キリストのうちには神の充満が形をとって住んでおり、そのキリストにあるあなた方も父・子・聖霊により充満されて、完全な霊的高みに至ると。つまり私たちは神の充満である! タイ焼きに餡子が充満しているように、私たちにも神格のすべてが充満している! そもそもエクレシアとはキリストの充満である(Eph 1:23)。ゆえに、イエスと同じわざがなし得るのだ。これがわたしが父のもとに行くからだの意味である。

ここで人は自分のパラダイムにチャレンジを受けて、不安を覚える。そこでいろいろと議論を始め、さらには攻撃すら行う。これがトランスフォームされていない私たちのアダム系マインドの性向であり、パイサイ人や律法学者がしばしば行ったことだ。かくしてイエスは悪霊に憑かれているとか、果ては狂っているとまで非難されている。神のものはかくのごとく生まれながらの人間の魂にとっては決して受け入れらない。それは彼らにとっては愚かなもの、狂っているものだから。[2]彼らの攻撃性の強さと彼らの内的不安とは正比例する内的に安息している人は性急な結論は出さないものだ(1Cor 4:5)。

生まれながら(Gk.魂的)の人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、霊のことは霊によってわきまえるものだからです。-1Cor 2:14

かくして私たちのマインドは神に敵対するか(=肉におかれた思い)、神に服するかのどちらかに置かれる(=霊におかれた思い)。もし自分の魂のマインドを変えることを拒むのであれば、それはすなわち十字架を拒絶することであるが、それ以上の霊的進歩は止まる[3]この場合、延々と他者を批判また攻撃する、否、しないと自分を保てなくなる。。もし十字架により自分の魂を否み、マインドのトランスフォーメーションを受けるのであれば、フェイスの領域は拡大され、さらに豊かな霊的領域に入りゆくことができる。「十字架は自我を砕き~」とか叫ぶ場ではない。御言葉の真理と自分のマインドのどちらを選択するかを問われる場なのだ。絶えざるトランスフォーメーションによってのみ、神の深みへと入り込むことができる。神の深み! それは奥義また神秘である。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、霊によって私たちに啓示されたのです。霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。-1Cor 2:9-10

 

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1 キリスト(=油注がれた者・メシア)は役割の称号である。
2 彼らの攻撃性の強さと彼らの内的不安とは正比例する内的に安息している人は性急な結論は出さないものだ(1Cor 4:5)。
3 この場合、延々と他者を批判また攻撃する、否、しないと自分を保てなくなる。

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