地獄でかの者の意志がなるごとく、地にもなるように

という祈りがあったとしたら、われわれが見ている世界でそれが成就していることは誰もが認めると思う。ナースが大量殺人を犯し、エリート行員が奥さんを殺し、逆のパターンも起こり、どこに安住の地があるのだろうか、と思わざるを得ない。地獄の門(ポータル)が開き、かの者の意志が忠実に実現しているのだ。対してクリスチャンはどうか? 自分の葛藤の解決やハッピネスの追求でほとんどエネルギーを消耗しているのが現状。いわゆるキリスト教は絶滅危惧種化して久しい。

私たちが見ている現実や世界観(パラダイム)は私たちの思い(mind)の産物だ。うつ病の治療法である認知療法の創始者ベックが言っているが、私たちはみなそれぞれ認知の歪みを有している[1]うつ病者の場合、未来・自分・世界の像が歪んでいるのだ。これをベックの三兆候と呼ぶ。。これが個々の人の内的世界観を作り上げ、それに従って言動としてアウトプットするとき、現実世界の事実が生じる。私たちは五感に基づいた教育、伝統、社会常識、科学知識などによりその内的世界観を何気に構築している。これがアダム系マトリックスであり、それぞれ人によって異なることからしばしば争いが起きる。

さらに深刻なのはしばしばこれが御言葉と対立するのだ。そのために神の国の現出を妨げる。御言葉のマトリックスこそが究極のリアリティー。十字架を取るとは、自らのアダム系の世界観否み、新しいキリスト系の世界観により上書きしてもらうことだ(☞霊の機能と魂・体との相互作用について)。

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ・・・2Cor 10:4-5

感情は思い(ヌース、nous)に従って反応し、それが意志決定を左右し、ついには行動として結晶化する。思いにこそ十字架を適用する必要がある。私たちの思いは神に敵対するか(=肉の思い)、神に服するか(=霊の思い)、その二者択一だ(Rom 8:6-7)。かくして思いの中にまで霊が浸透して、思いの書き換えが行われる。

またあなたがたが思いの霊において新しくされ-Eph 4:23

さて、主は復活した週の最初の日の晩に弟子たちに言われた:

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 
そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。 
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。-John 20:19-23

戸がしまっているのに入って来られ、おそらく仰天している弟子たちに平安を祈り、復活の証拠を示された。そして「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」と言われた[2] … Continue reading。父がイエスをつかわされたように、とはどういうこと?そして聖霊を吹きかけて、罪の赦しを弟子たちに委託したのだ。罪の赦しを委託されるということは、病の癒しをも委託されることに他ならない(Mark 2:9参照)。かくして聖霊のうちにある神の国の権威を得たのだ。

わたしは、あなたに天国の諸々のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、すでに天でもつながれており、あなたが地上で解くことは、すでに天でも解かれているであろう。-Matt 16:19(私訳)

この節は時制が重要。天ですでにつながれていること、すでに解かれていることを、地上でもつなぎ、また解くのだ。かくして地上にて、天で裁決されていることを具体的に執行するのが、天の門であり神の家であるエクレシアの役目となる。もしこの権威を用いて私たちがその役目を果たしたら地上で何が起きるのだろうか? 繰り返すが、現状をひっくり返してみればよい。具体的にはイエスご自身がなされたことそのものなのだ[3]これは必ずしもしるし・不思議だけをなすことではない。神の国は力(デュナミス)にあると共に(1Cor … Continue reading。くだらない神学論争をしている暇があったら、御父の完全なる体現者イエスを見よ!(John 14:9)そしてその通りに行うこと[4] … Continue reading

よく、主イエスは貧しく、見る影もなく、罪と病を知っていたから、その通りにクリスチャンも歩むべきだとする向きがある。カトリック系の自己憐憫投影型だが、これはまったく違う! 私たちが同一視するのは死(アダム系の終焉)と復活(キリスト系の開始)のイエスなのだ。終わったものは終わったままにしておけ。自我を十字架につけて~とかやって、古い存在を蘇らせてどうするわけって? 新しい復活の初穂キリストと私たちはひとつだから、私たちは新創造なのだ。

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1 うつ病者の場合、未来・自分・世界の像が歪んでいるのだ。これをベックの三兆候と呼ぶ。
2 このふたつの「つかわす」は単語が異なる。前者はapostellō、後者はpempō。しかしイエス自身、父が自分をつかわされたと言う時、この二つを交換的に用いているので、同じセンスとみてよい。
3 これは必ずしもしるし・不思議だけをなすことではない。神の国は力(デュナミス)にあると共に(1Cor 4:20)、聖霊にある義と平安と喜びなのだから(Rom 14:17)。
4 私には無理と思われた方はとんでもない勘違いをしていることに気が付くべきだ。イエス自身も自分では何もできないと言われているではないか!彼のうちにおられる父が業をしていると。だからマインドのトランスフォーメーションが必要なのだ。新創造として生きることを阻害しているのは、マインドのうちに構築された敵の要塞なのだ。自分を責めたり、改善しようとしたところで、まったくの見当はずれと知るべきであろう。

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