御言葉は神のフェイスの実体と告白

神の御心においては天地の基が置かれる前から、創造も、キリストの贖罪も(Rev 13:8[1]この聖句の「世の初めから」が「ほふられた」にかかるか、「いのちの書に書かれて」にかかるかは議論がある。Alforfdなどはペテロ書(1Pet … Continue reading、私たちの選びも(Eph 1:4)、黙示録(完了形で書かれている)の完成も、すべては既定路線だった。それらは神の信仰においてはすでに成就しているのだ(Heb 4:3)。それらは神の信仰の実体であり(Heb 11:1)、時に従って(Gal 4:4)神が語り出すことにより、それぞれが時空間において現出し、成就した(Heb 11:3)。

そして今尚、継続されている。私たちはその神の信仰のうちに置かれている(cf.Gal 2:20)。だから私たちにおいて御言葉は必ず実現し、成就する。たとえそれらが人間の知恵には不可能であると思えても、だ。なぜなら神のフェイスだから! イエスは人間としてそのことを実証された。しかも同じ業を私たちにもせよ、さらにそれができると言われる(John 14:12)。

鍵は思い(nous=mind)がトランスフォーム(metamorphoo)され、神のフェイスと同じことを語ること。「告白」の原語は”homologeo”,i.e.homo=同一の、logeo=ことば(logos)。つまり「同じ事を語る」こと。「私の信仰だ!」などと主張することなく、神のフェイスに私のそれを飲み込んでいただくのだ。

生きているのはもはやわたしではなく、キリストである。今、肉(五感領域)にあって生きているわたしは、・・・御子のフェイスにあって(Gk.en=in)生きている。Gal 2:20

聖書を道徳や宗教の書として、あたかも清く・正しく・美しく生きるためのルールブックすることなどは愚かにして大いなる損失。それは単なるキリスト教なる宗教である。御言葉は神のフェイスの実体(Substance)であり、告白(Decree)であり、しかもこう書かれている:

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。-Isa 55:11

私たちが霊に反映あるいは共鳴された神のロゴスを霊により語り出すならば、それは必ず成就する。かくしてフェイスは僕として働くのだ(Luke 17:7-8)。フェイスは霊である。その霊を受けること、そして語り出すのだ(☞御霊で変調された言葉を語る)。

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

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1 この聖句の「世の初めから」が「ほふられた」にかかるか、「いのちの書に書かれて」にかかるかは議論がある。Alforfdなどはペテロ書(1Pet 1:20)などを根拠に前者にかける。邦訳の永井訳も同じ。

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