五感のスーツを着てYHWHのリアリティーに生きる

ここに物理的時空間がある。キリストにある新人類である私たちはその中に物質からなる肉体(=五感のスーツ)を着て生きている。同時に霊的世界がある。私たちの霊には聖霊により御子と御父が住まい(John 14:23)、ジーザスは御父に開く門である(John 10:7-9)。この物理的時空間が普通の人(=アダムにある人)にとってのリアリティーであり、霊的世界などはほとんどSFあるいはオカルトとされる。が、実はこの世界がこの物理的時空間を形成するのだ。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 1:3;11:3

「本質」はサブスタンス、「ことば」は共にレーマ、語り出されたことば、あるいは今語られつつあることば、だ。ロゴスはあえて言えば、「かつて語られた言葉」あるいは「書かれた言葉」と言える。つまり冷凍保存された言葉。が、聖霊が解凍するとき、今・ココにおける生の言葉として聞くことができる。永遠の世界が展開するのだ。これがレーマだ。

神が語れば、それは物質的世界の要素や事象を形成したり、変化したりする。生身の人間も水面を歩く。神はこの霊的世界からこの物理的時空間に介入されるお方。イエスご自身が神のサブスタンスの物質化(受肉)だったのだ。「見える世界」と「見えない世界」、あるいは「触れる世界」と「触れない世界」。あなたはどちらによりリアリティーを感じるだろうか。

ジーザスはナザレ時代の生活、すなわち30年間、普通の人間生活を送られた。ジーザスはこの30年間を、ただ無為に人として生きていたのではない。つねに霊的領域との接触にあって生きていたのだ。だから12歳ですでに自分の真の父を知っていた。彼の知識に律法学者も驚いた。それをどこから得たのであろうか? 霊的世界との関わりからである。家族からするとよほど不思議な子供だったと思う。

ジーザスは神のロゴスであり神のサブスタンス、その存在が神のフェイスにより、肉体化(物質化)された。同様に霊のサブスタンスがわれわれのフェイスにより物質化される。見えない世界が見える世界に介入するのだ。「見えない世界」と「見える世界」の接点に働くフェイス、すなわち願うサブスタンスとその現出の不思議さを深く感じる(Heb 11:1)。イエスが私たちに求めるところは、御心が天になるとおり、地にもなるように、だ。つまり「見えない世界」が「見える世界」に現れ出ることだ。そのために神は天を裂かれたのだから(Mark 1:10)。

クリスチャンはニュー・クリーチャー。ただの人ではない!(1Cor 3:3-4 [1]ここには「ただの」はない。「人ではない」が正確。われわれは人=ホモ・サピエンスではないのだ!)この二つの世界の狭間に生きる存在。クリスチャンが自身のアイデンティティーと居場所、そして権威と能力に目覚めたら、それは闇の王国にとっては恐るべき脅威であろう。だから、クリスチャンを目の前の世事や神学などで振り回して、その物質世界の日常性の中に幽閉しているのだ。この喩えの意味は明らかであろう。

イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」-Matt 13:3-9

物理的時空間の自然科学などの法則で生きるのか、霊的領域のフェイスの法則で生きるのか。実はこの法則を変更することはかなり心許なさを覚えるのだ。これまで慣れた縁(よすが)から手を離すことだから。ちょうど補助輪付き自転車から補助輪を外す時のように、だ。これは霊と魂の接点であるマインドによって決定される。マインドがトランスフォームされること。これはキリスト教の神学とか思想から自由だとか、自分なりのユニークな考え方や視点だとか、御言葉の解き明かしの切り口が新鮮だとか、そういったことととはまったく違う。それはあくまでも物理的時空間でのこと。鍵は霊的世界のサブスタンスを把握できるかどうかが問題なのだ。

これは終末を生きる私たちの緊急の課題であると思う。

この世の形に構成されてはなりません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、思いを新たにして自分を変えていだきなさい。-Rom 12:2(私訳)

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1 ここには「ただの」はない。「人ではない」が正確。われわれは人=ホモ・サピエンスではないのだ!

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