聖書は読むというよりは聞くものである

よく言われる「聖書勉強」とか「バイブルスタディ」というお勤め。特に前者は日本語ではなく、おそらくカンコク系の用語だ[1] … Continue reading。とても好きになれない。なぜ?御言葉は読むというよりは聞くものだ。それも変な解き明かしとか解釈を入れず、そのままに、聞くこと。御言葉はいじるべきではない。

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉(ロゴス)とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。 ・・・これは確実で、そのまま受けいれるに足る言葉(ロゴス)である。 -1テモテ4:6-9

たとえば、生まれつきの盲人の癒しでは、イエスは唾を吐き、泥をこねて、彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗えと命じた。なぜ? その意味を問うことは不要。ただ、その時には主はそうされたのだ。そして大事な点は、彼が主の言葉を聞き、目が見えないままにそれに従ったこと。このイエスの言葉(レーマ)に自分を預けたのだ。これが鍵。聞いたことに従うこと

鍵はイエスという存在=AM=、サブスタンスをとらえること。この方は癒すお方(Exo 15:26)。真実なお方(Deut 32:4)。ご自分の言葉を裏切らないお方(Num 23:19)。昔も、今も、永遠に変わらないお方(Heb 13:8)。信仰はそのサブスタンスをとらえる(Heb 11:1)。そして語り出すのだ(2Cor 4:13)。サブスタンスを語り出すとき、それはレーマとしてこの物理的時空間の中でわざをなす(Isa 55:11)。われわれは言葉を語り出すことにより、あるいは呼ぶことにより、地を従わせるのだ(Gen 1:28)。

よく言われる、「持っている者はますます豊かに・・・」の聖句には「聞く者は」が落ちている。「持っている者で聞く者はますます豊かに・・・」である。また主は言われた-

よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。-ヨハネ5:25

聞く者は生きる。なぜならサブスタンスであるフェイスは聞くことから生じるからだ。

したがって、信仰は聞くことによるのであり、キリストの言葉(レーマ)を聞くことによるのである。 -ローマ10:17

そのためには、まず右の耳たぶ(聞くこと)に、続いて右手の親指(行うこと)、最後に右足の親指(歩み)に血を塗っていただくのだ(Lev 8:23)。すると油(聖霊)が塗られる(Lev 8:30)。人は常に何かを聞いている。五感の音声だけでなく、思いの中の声をもだ。どの声に従うか、それがあなたの行動そして人生を決定するのだ。かくして主は言われた、

あなたがたは何をどう聞くかによくよく注意せよ、と。

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1 一応、聖書を勉強したり研究することを否定しているわけではないので。問題は聴くことなくして、勉強や研究しても、と言うことですので、そこんとこヨロシク。

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