Dr.Luke的『正法眼蔵生死』

メッセで少し紹介した道元の『正法眼蔵』。まことに鎌倉時代にこのような天才が存在したのだ。今、われわれが見ている仏教はおよそその本筋から逸脱したものである。

人類は善と悪を知る知識の木の実を食べて後、善か悪か、損か得か、生か死かという二元的価値観の中でさ迷うことになった。禅ではこの二元論を超える生き方を施行する。これが道元の表題の論。これを基督者的に書き換えると-

生死の中に基督あれば生死なし。又云く、生死の中に基督なければ生死にまどはず。

こころは、夾山、定山といはれしふたりの禪師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかに基督をもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。

生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、いのちの御霊の法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。

この生死はすなはち基督の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち基督の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて生死に著すれば、これも基督のいのちをうしなふなり、基督のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて基督のこころにいる。ただし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、基督のいへになげいれて、基督のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、基督ができる。たれの人か、こころにとどこほるべき。

基督ができるに、いとやすきみちあり。もろもろの惡をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを基督となづく。又ほかにたづぬることなかれ。

現代語に置き換えると-

私たちの生きること死ぬことにおいてキリストがおられれば、生死は問題ではなくなる。生と死の中に形だけのキリストを自己努力で求めることがなければ生死に惑うこともない。

これは夾山、定山と言われた禅師のことばである。道を開いた人の言葉であるから、虚しいものではない。生死から解放されたいと思う人、その願いをまず諦めよ。もし人が生きることそのもの以外にキリストを求めれば、まったく見当はずれのことをすることになる。ますます生死の問題を背負い込んで、解決の道を失ってしまうだろう。生きること死ぬことそのものに神の国があるのであって、生きること死ぬことを厭うべきでなく、神の国を他に願うべきでもない。この時に初めて生死のような二元的世界を離れることができる。

人は生きている状態から死に至ると考えることは間違っている。生とは一時の状態であって、その前と後があるのだ。だからいのちの御霊の法則の中には、(キリストを)生きることは(自己を)生きないこととなる。体の死も一時のことであり、その前と後の運命がある。そこで体が死んでも、それは決して滅びではない。生きることには生きることそれしかない。死ぬときは死ぬことしかない。だから、生きることそのものが生、死ぬ時がきたら、むしろ死を歓迎すべきである。嫌ったり、願ったりという二元的世界に生きることをするな。

私たちの生死とはキリストのいのちそのものである。普通の生活を嫌って捨てようとすれば、キリストのいのちを失うだろう。生死のような二元的価値感に拘泥すれば、またキリストのいのちを経験し損ない、キリストのいのちを阻害してしまう。何事も価値判断することなく、また愛着をとどめることがないとき、はじめてキリストのふところにとどまることができる。ただ自分の心をやりくりして思い図ったり、理屈をこねたりすることを止めなさい。自分の身も心もキリストの元に投げ入れるならば、キリストの肩から自然と行われて、これに従い行くとき、力を入れなくとも、心を消耗することもなく、自然と生死を離れて、内にキリストが形作られる。この時私たちの心には何もこだわりがなくなるのだ。

キリストが形作られるのにとても安らかな道がある。諸々の悪を生み出さず、生死にこだわる心もなく、人々のために憐れみを深くし、長上の人を敬い、下の人をあわれみ、すべてのことをめんどうだと感じる心もなく、自分勝手な願いをする心もなく、心に何のこだわりもなく、心配事もない。これがキリストの心である。これ以上のことをあれこれと追求することがないように。

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