道元とヤコブ-心は不可得-

道元は日本が生んだ天才である。白いキリスト教同様、白い哲学なども極めて浅薄である。道元の洞察はこの五感の領域を鋭く貫くのだ。道元の視点を持てば、自己実現とか、心の満足とか、自己啓発とか、こういったものを追及するむきは罠に落ちていることが分かる。少々前の記事を再掲して紹介しておこう。

一応断っておくが、キ業界の浅薄なむきは私が仏教とキリスト教のシンクレティズムだとかディスるが、仏教にはそもそも礼拝対象はないと言っていることを確認してほしい。現在の仏陀やナントカ如来、さらに死者や先祖を拝するのは逸脱である。仏教の本質は徹底した現実の認識論である。

「釋迦牟尼佛言、過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得。これ佛祖の參究なり。不可得裏に過去現在未來の窟籠を來せり。しかれども、自家の宿籠をもちゐきたれり。いはゆる自家といふは、心不可得なり。而今の思量分別は、心不可得なり。使得十二時の渾身、これ心不可得なり。佛の入室よりこのかた、心不可得を會取す。いまだ佛祖の入室あらざれば、心不可得の問取なし、道著なし、見聞せざるなり。經師論師のやから、聲聞覺のたぐひ、夢也未見在なり。」

これが私たちの心の実際だ。ヤコブも言っている:

御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。-James 1:23-24

私たちの心が実質を得るのはただ「わたしはある」と言う方に対峙すること-

主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。-2Cor 3:16-18

の時だけだ。われわれの心は主の姿を映すこと、そのためには徹底的に自分の空疎さを知ることが唯一の希望の道である。アダムはそもそもYHWHのイメージャーあるいはミラーとなるべく創造されたのだが失敗した。それをキリストが達成したのである。

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