聖も義もフェイスも私由来ではなくキリストご自身

プロテスタントは自分をセンターにおいて、私が律法を行うことではなく、キリストを信じることにより救われると説く(☞ルターの誤り)。その中心は自分。ゆえに私の信仰をもっと強めてくださいと求め、また逆境を経た人の信仰は素晴らしいと褒めそやす。ここにあるのは私だ。これをセルフ教と呼ぶ。よってキリスト教徒は常に私の状態が気になる。だからあゆみが安定しない。「アイ・マイ・ミー・マイン」のマトリックスに幽閉されている。

対して聖書(邦誤訳を当てにしないこと!)は何というか。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた御子のフェイス(信)のうち(in)です。-Gal 2:20

私は生きていない、が、肉において生きている私がいる。その私は御子のフェイスにあって生きているのだ。この私は「肉にある」、すなわち五感における私である。具体的には体(soma)と魂(pshche)としての私である。

フェイスはスピリット(霊)である(2Cor 4:13)。使徒信条告白~、われはナントカを信ず~、といった式文ではない。そのフェイスは御子のフェイス、すなわち御子の霊のうちに肉にあって生きる私が生かされている。いのちを与える霊となられたキリスト(1Cor 15:45)、御子のフェイスが私の霊の中で働き(エルゴン)、霊のうちから魂のうちへ、さらに死ぬべき体の中へとペネトレーションして(☞聖霊のペネトレーション)、私たちの肉において御子が現れる(☞聖霊は腹から流れ出る)。私の魂はナチュラル(五感)領域にある肉体とスーパーナチュラルな領域の霊の狭間にあって、つねにどちらのバイブレーションによってドライブされるかの選択を迫られている(☞デュアル・ワールドに生きる)。

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。-Rom 8:9

本来、この肉体はニュートラルである。ゆえにパウロはこう勧める:

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと仕分けしなさい。 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。-Rom 6:11-13

不義の道具として罪に委ねるか、義の道具として主に捧げるか。ボディをいかに管理するか、このところのメッセでも語っている通りである。私たちの責任はここまでである。いったん御霊に委ねれば、自動的にスーパーナチュラルな御子のフェイスがオンとなり、そのフェイスが私たちの魂と体をとおしてワークアウトされる(☞フェイスをワークアウトする)。私たちキリストの体はキリストの体性メモリーで生きるのだ。フェイスは私のものではない!

同様に義も聖も私のものではない。

神によってあなたがたはキリスト・イエスのうちに置かれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、贖いとなられたのです。-1Cor 1:30

この「なられた」は”ginomai”である(☞”ginomai”の秘密)。ヘブル語の”Haya”(I-AM)と同様に、存在生成活動を意味する(☞アバンダント・ライフへのポータル=ジーザス=)。現在、キリストは肉体の束縛を解かれて、いのちを与える霊となられた。

「最初の人アダムは生きる魂となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。-1Cor 15:45

ここの対比は重要。最初のアダムは物理領域に生成されたナチュラルな存在、最後のアダム(=キリスト)は霊の領域に存在するスーパーナチュラルな存在とされたのである。今やその霊と私たちの霊はひとつである。

しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。-1Cor 6:17

ここの「結びつく」は”kallao”、英語で”glue”である。私たちの霊と主の霊は離れがたく接着されている。ゆえに私たちの霊はすでに完全である。

天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊-Heb 12:23

この霊はエロヒムの霊、この霊を受けたものはYaHaWeHエロヒムの霊的DNAを組み込まれたニュークリーチャー。この霊こそが新しいアイデンティティであり、これからすべての天的なものが流れ出るのだ。聖も義もフェイスも、あらゆるYaHaWeHエロヒムのすべてがそこにすでにある。その方はHAYA ASHER HAYA=I-AM THAT I-AM=であるゆえに。そのI-AMが私にとってのXとなられる(ginomai)。ゆえにI-AM THAT I-AM X。このXに私たちのあらゆるニーズを代入することができる(☞I-AMのパワー)。これが「わたしの名にあって祈り求める」の意味である。

十字架はこのソースの切り替えの場である(☞十字架って何でしょう)。すでに終わったアダム系の私の痕跡が魂と体に残るゆえに、これを溶かされ、あるいは砕かれ、マインドがトランスフォームされるほどにキリスト系の新しい私(=霊)が体と魂を支配する。カギはマインドのリニューアル、私の言う霊感情観念複合体の解消にある(☞霊精神身体医学)。

肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。-Rom 8:5-6

自分のナントカに絶望した人は幸いである。自分のカントカをナントカしようと信仰に励む人々がキリスト教徒、あるいはクルシチャンである。真のフェイスは絶望から生まれる。なぜならすべては私のものではなく、キリストのものが私において実体化されるからだ(☞神をエミュレートする)。

いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ見ていないことのエビデンスである。-Heb 11:1(私訳)

キリスト教なる宗教体系、マトリックスをエクソダスし得た者は幸いである。残りたい向きはご自由にどうぞではあるが。

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