iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: ニューエイジ

再度、私が愛読するDerek Princeを紹介しよう。

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。-John 10:9-10
Derekも言う通り、スーパーナチュラルに至るチャネルは種々ある。ニューエイジ[1] … Continue readingもそれらのチャネルを利用してスーパーナチュラル、すなわちスピリチュアル領域にアクセスする。むしろ、形骸化した宗教マトリックスに生きるキリスト教徒などより霊的感受性は高いと言ってよい。
が、真のいのち(ZOE)に至るポータル(門)はただひとつ、ジーザスである。この聖句はもちろんキリスト教でもよく使われるが、彼らがほとんど意識しない部分がある。それは「出入りして」だ。お分かりだろうか? きわめてアクティブな活動である。すなわち、この五感の領域と霊の領域を行き来するのだ!
今、フェイスとは願われるサブスタンス(実体)、まだ観測されていないことのエビデンス(現出)である。-Heb 11:1(私訳)
フェイスは、サブスタンス&エビデンス。サブスタンスとは霊的領域に存在し、エビデンスとはそれが五感の領域に現れることだ。われわれはこの物理的な時空連続体に生きるだけではない。霊の領域にもジーザスというポータルを通して入り込む。つまり、物理領域と霊の領域のデュアルワールドに生きているのだ。
「わたしはありてある」と最も高きエロヒムはモーセに対して御自身を現わされた。そしてその呼び名はיהוה(YHWH)。アブラハムらにはそのようには御自身を啓示されていない(Exo 3:14-15)。英語で言えば”I AM THAT I AM”。この後に”X”を代入することができるとメッセで語ってきている。Jehovah JireはYHWH・満たし、Johovah RaphaはYHWH・癒し・・・。
この”I AM”は הָיָה (HAYAH)、その意味は”to exist, that is, be or become, come to pass”(Strong)。つまり、存在・生成・活動である。「フェイスはI-AMの実体化である」とかつて私は書いた(☞『真理はあなたを自由にする』)。このI-AMをXとして、今・ここに「有らしめ・成らしめ・働かしめる」ことこそがフェイスである! ゆえに「わたしはある」(John 8:58)と宣言されたジーザスは言われた、「わたしの名にあって願うものは何でも与えられる」と(John 15:16)。
そして、ニュークリーチャーなるわれわれは、ZOEをインプラントされ、YHWHエロヒムの霊のDNAをインヒュージョンされたエロヒム属である。そのZOE、霊のいのちを、しかも豊かに受け、霊のサブスタンスとしての牧草を享受するのだ。まことにジーザスは霊・魂・体のすべてにおいてアバダントなライフに至る唯一のポータル、門である! [2] … Continue reading中でも魂の状態がカギであり、それはマインドのあり方によって規定される(Rom 12:2)。
愛する者よ、あなたの魂が繁栄(prosper)しているように、あなたがすべての面で繁栄し(prosper)、健康であるようにと祈っています。-3John 1:2
この夢芝居の舞台にいる間に、せいぜいアバンダント・ライフをエンジョイせよ!


- MSGタイトル:スペシャル・レクチャー:エロヒム属の新しい時代II
- 引用聖句:John 10:34-35;Ps 82:1-5 etc.
- 2020年5月31日(日)のセレブ
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13.00-17.00 - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

- MSGタイトル:スペシャル・レクチャー:エロヒム属の新しい時代 I
- 引用聖句:John 10:34-35;Ps 82:1-5 etc.
- 2020年5月17日(日)のセレブ(隔週実施を予定)
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13.00-17.00 - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

今回のメッセでもふれたが、この世界、さらに生命はバイブレーションだ[1] … Continue reading。
神(YHWHエロヒム)の霊が水の表を動いていた。-Gen 1:2
この「動いて」と訳された原語の意味は「バイブレーション・休息・孵化」である。また
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても、その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-Ps 19:2-5
この「響き」の原語の意味は「弦の振動」である。その「言葉」とは語り出された言葉であり、五感では感知できずとも、この世界において情報を交換しているのだ。
私が用いている、バイブレーション、シナジー効果、コヒーレンシーなどは元々すべて聖書の概念である。ニューエイジからゲットバックしているに過ぎない。キリスト教神学などのオツムのマトリックスの住人が知らないだけだ。
さて、今回、おもしろい記事があった。ニューエイジやキリスト教のものではない。れっきとしたScientific Americanの記事だ。
The Hippies Were Right: It’s All about Vibrations, Man! A new theory of consciousness
All things in our universe are constantly in motion, vibrating. Even objects that appear to be stationary are in fact vibrating, oscillating, resonating, at various frequencies. Resonance is a type of motion, characterized by oscillation between two states. And ultimately all matter is just vibrations of various underlying fields.
Pascal Fries, a German neurophysiologist with the Ernst Strüngmann Institute, has explored in his highly cited work over the last two decades the ways in which various electrical patterns, specifically, gamma, theta and beta waves, work together in the brain to produce the various types of human consciousness.

神は必要にではなく、フェイスに答える-今回のメッセで紹介したこの言葉、だれのものか忘れたが、鋭い指摘だ。「神は私の病気をいやしてくださると信じてます」とか、「神はいつか私を豊かなものとしてくださると信じてます」とかよく聞くが、しばしばそうならない。すると人は言う、「私はこんなに真剣に信じたのに、なぜならないのか。なぜ与えてくださらないのか」と。嗚呼、この言葉がすべてを証明している:私は信じたのに[1]☞プロテスタントの根本的誤りについてはこちらを・・・。
よく自分の信仰を云々する向きがある。自分には信仰があるとかないとか。あるいは自分が信仰によって何かを頂ける人間ではないとか、小さなものに過ぎないとか。あの人の信仰は偉大とか、純粋とか・・・。メッセも語ったがみな自意識過剰だ。
なぜなら、主は言われた:神のフェイスを持て(Mark 11:22-23)。またパウロも証している:生きているのはもはや私ではなくキリストである。肉にあって生きている私は…御子のフェイスによって生きる(Gal 2:20)。またこうもある:
これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として―事実そのとおりであるが―受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。-1Thess 2:13
この「言」はlogos、「働いている」はenergeo。そこでPassion Bibleでは-
And the word continues to be an energizing force in you who believe.
Mirror Bibleでは-
and so the truth energizes you from within, endorsing your faith.
とある。ロゴスはエネルギーであり、フォースである。内側に常に働くパワー(デュナミス)である。これがフェイスを裏書し、支持するのだ。お分かりであろうか? フェイスは神のフォースである! ここでニューエイジの映画『スターウォーズ』が連想されるであろうが、あのフォースはまさに聖書のフォースのパクリである[2] … Continue reading。
実はYHWHのフォースとしてのフェイスは私とは一切関係がない。よく自分の”信仰”に信仰を置こうとするミスを犯す傾向がある。私たちのフェイスはサブスタンス(Heb 11:1)。自分の”信仰”を見ていると罠に落ちるのだ。
それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にあって立つのではなく、神の力にあって立つためでした」-1Cor 2:5
信仰、もっと正確には信(pistis)-あえてフェイスと言っているが-とは実体(hupostasis)、サブスタンスだからだ。それは私とは関係なく存在する。そのサブスタンスそのものが信である(Heb 11:1)。世界はそのサブスタンスがフレーム化されたもの(Heb 11:3)。肉の目には目の前の五感の事実が霊のサブスタンスよりも現実感を伴う。それがリアリティだと思っている。しかしジーザスの目には霊のサブスタンスの方が五感の現実よりもリアルだったのだ。だから五つのパンで五千人を養うこともいとも容易いことだった。私たちも霊の目が開けると目の前の事象よりもサブスタンスの方がよりリアルになる。
私たちニュークリーチャーは天のポータルとして霊的領域のサブスタンスにアクセスし得る能力を得ている。キャッシュ・ディスペンサーのように、そこからいくらでも天の富を引き出せるのだ!
祈り求めているうちに、ふとサブスタンスに触れると、私たちは願っていたものを「得た」と分かる。たとえ、目の前には物理的には存在していなくてもだ。分かるから分かる。I know that I know. そのためにはくどくど長たらしく祈る必要もない(Matt 6:7)。ふと霊を開けば良いのだ。神の国は、<今・ここに>あるのだから。フェイスはNOW現象である!
キリスト教のあれこれのややこしい教えの体系を捨て去れば、見える。私たちは内側に神の国を得ている新創造だ。天の父はわたしの持っているものはすべてあなたのものだと言われる(Luke 15:31)。御子イエスは私たちが彼とおなじ業、さらにもっと大いなる業をなすと約束された(John 14:12)。聖霊はそのことを地上に現出させ、実際に行われる。
まことに私たちは神の国のパワーポイント、パワースポットなのだ!
References[+]
↑1 | ☞プロテスタントの根本的誤りについてはこちらを |
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↑2 | すでに述べているように、バイブレーション、シナジー効果、コヒーレンシーも元々聖書の概念である。特に日本語訳で読んでいるとこのようなジューシーな美味しい部分がみな落ちる。そして筋張った肉汁の抜けたステーキを食わされるのだ。ニューエイジからゲットバックせよ! |

Dr.Lukeの用語はニューエイジ的であるとのご批判があるようだ[1] … Continue reading。繰り返すが私が使っている用語は聖書(ヘブル語/ギリシャ語)の中にあるものである。
例えば、バイブレーション。これは創世記1章2節「神の霊が水の上を動いていた」(Gen 1:2)の原語は”râchaph”、その原義は”flutter”、つまり「振動」である。牝鶏が卵を抱えて孵化させることである。さらに安息するの意味もある。また詩編19編4節には「その響き」とあるが(Ps 19:4)、言語は”qav”、つまり「弦」の振動である。霊的生命も霊的言葉もエネルギーであり、それはバイブレーションなのだ。生きとし生けるものはすべてエネルギー体、すなわちバイブレーションである。
またスピリチュアル・シナジー効果。これもすでに述べているが、ギリシャ語”sunergeo”であり、これから英語の”synergy”ができた。元々聖書の単語であり、概念である。
さらにスピリチュアル・コヒーレンシー。コヒーレンシーとは波動の位相(山と谷)がそろうことを意味する。つまり振動がお互いに調和している状態である。これもニューエイジがよく使う。が、元々は聖書の単語である。コロサイ書1章17節(Col 1:17)にこうある-
彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている(口語訳)。
これもなんとも味気ない訳ではあるが、例えばCLVによれば-
and He is before all, and all has its cohesion in Him.
この”cohesion”とあるギリシャ語は”sunistaō ; sunistanō ; sunistēmi”で、”consist”や”subsist”と訳される。原語は”sun”+”histēmi”からなり、” to set together, that is, (by implication) to introduce (favorably), or (figuratively) to exhibit; intransitively to stand near, or (figuratively) to constitute: – approve, commend, consist, make, stand (with).” (Strong)である。Vincentはアタナシウスを引用している-
Cohere, in mutual dependence. Compare Act 27:28; Heb 1:3. For other meanings of the verb, see on Rom 3:5. Christ not only creates, but maintains in continuous stability and productiveness. “He, the All-powerful, All-holy Word of the Father, spreads His power over all things everywhere, enlightening things seen and unseen, holding and binding all together in Himself. Nothing is left empty of His presence, but to all things and through all, severally and collectively, He is the giver and sustainer of life…. He, the Wisdom of God, holds the universe in tune together. He it is who, binding all with each, and ordering all things by His will and pleasure, produces the perfect unity of nature and the harmonious reign of law. While He abides unmoved forever with the Father, He yet moves all things by His own appointment according to the Father’s will” (Athanasius).
まさにコヒーレンシーである。われわれはキリストのうちに溶け込み、霊的バイブレーションに浸され、そのバイブレーションと同位相/調和するとき、本来の被創造物のあり方を享受し得るのである。ワーシップも地上から盛り上げるものではなく、天から降りてくるものであり、天のバイブレーションが地において共鳴するのだ。この意味で、最近の聖霊派のタテノリ・ガチャガチャ系の傾向には違和感を禁じ得ない。
聖霊はわれわれのうちにおられ、またわれわれを包み、雌鶏が卵を孵化させるように守ってくださる。その霊的バイブレーションによりわれわれを温め、常に霊を生かしてくださる。そのうちに安息し、御霊のバイブレーションに共鳴することがコヒーレンシーである。神の霊とコヒーレンシーするならば、フェイスは自ずとうちに生じ、それを語りだすとき、天のリアリティー/サブスタンスがわれわれを通して地上に現出する。
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じフェイスの霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13
かくしてわれわれは-
人は口の結ぶ実によって腹を満たし/唇のもたらすものによって飽き足りる。-Prov 18:20
わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。-Isa 57:19
語り出されたフェイスの霊は必ずそのサブスタンスを生み出す。
語り出されたわたしの言葉は虚しく帰ることはない。必ず言い送ったことを成し遂げる。-Isa 55:11

感情はDNAを変える。911の際、コレクティブ・エモーションにより地磁気にスパイクが生じた・・など、最近のサイエンスにおける興味深い知見の数々。量子と精神の相互作用などもすでに紹介した。Max Planckも次のように語る:
聖書的にはスピリット&マインドは物質と相互作用する。私がバイブレーションとかポータルとかリゾナンスなどのニューエイジ用語を使用し、聖書信仰から離れていると批判するむきもあるようだが、実際は逆だ。いわゆるニューエイジがバイブルをパクリ、クリスチャンがオツムの空転現象的神学に落ちたのだ。かくしてキリスト教徒はジューシーさの抜けた筋張った味気のないステーキを食わされている。
実はジーザスこそが真のニューエイジを開始され、ニュークリーチャーを生み出したのだ。そのニュークリーチャーたるわれわれの有するポテンシャルは無限! 空疎なキリスト教のマトリックスからエクソダスせよ! 失ったものをゲットバックせよ! ジューシーなフェイスを!
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。-2Cor 5:17
実はクリスチャンこそ、真のニューエイジャーなのだ!
信じる者には不可能はない。-Jesus

人類は自らの力で天に接近しようとしていわゆるバベルの塔を企て神に反逆し裁きを受けた。その呪いは言語の混乱(=バベル)だ。言語間の違いによる意思疎通の障害ばかりでなく、言語内においてすら理解し合うことが困難となった。同じ単語を聞いてもその意味や連想するモノが異なるのだ。これで最悪喧々諤々、まさにバカの壁。言語明瞭・意味不明。
言葉は実に不思議なもの。「ユーアーフール」と言われても日本人はさほど傷つかない。「あほちゃう」と言われても関東人はそれほどでもない。が、「お前はバカだ」と言われるとかなりクル。内容は同じなのだが、その言葉にまとわりつく「何か」がメンタルに影響するわけ。言葉は魂の無意識層のネットワークに刺激を与える。ある単語で過去のトラウマなどが呼び覚まされるのだ。
聖書の言葉も同じ。言葉によるマトリックスがいわゆる宗教体系を構築し、ニッポンキリスト教が出来上がる[1]ゆえに私はできる限りニッポンキリスト教用語は使わない。その用語に込められた意味や感情、さらには歴史などの影響を受けたくないからだ。。これは私が20年近く言っていることだ。日本語で考えるなと。もしジーザスが業界の牧師の説教を聞かれたら、わたしはそんなことを言っていないと言われるであろう。ちなみにある方が、「ジーザスはエイリアン」に対して大変な憤慨をされた。うーん、何故それほどに激するのかまったく不明。辞書でちょっと調べてみてほしい。ジーザスは「わたしは世の者ではない」と言われた。まさにエイリアン、つまり外来者でしょうに(笑) ここで彼が内的にイメージしたモノが推測できてしまうのだ。
言葉遊びしているとその自分のマインドに構築された言葉の体系、つまりマトリックスによって判断し、そこから生み出される感情がこのような見当はずれな反応を生み出す。その人のオツムの中の「エイリアン」が自ら憤慨するような意味を有しているに過ぎないのだ。つまり自分の内的イメージを投影してそれに憤慨しているわけ。サルが鏡に向かって激しているようなものだ。
いわゆる「言葉狩り」なる社会現象も同じ。「片手落ち」は禁句、「片落ち」が正しい。こちらは別にそのような意味を込めて使ってはいない。こうして社会は相互監視社会となり、窒息する。これが現在のニッポ ンキリスト教でも起きている現象なのだ。「ポータル」とか、「バイブレーション」とか、「共鳴」とか、こういった単語がニューエイジで多用されているゆえにアレルギーを起こしたり、攻撃してくる輩もいる。しかしこれらはすべて聖書の単語なのだ。
われわれは「信仰」という時、すでに日本語のマトリックスに落ちている。その回路に従って考えるのだ。するとオレの信仰にとやかく言われる筋合いはないとなる。 ピスティス、つまりフェイスはシックスセンス。それは五感を超えた聖霊により付与される霊的能力。そのセンサーによってわれわれはスーパーナチュラルな世界と関わる。そのサブスタンスはひとつだ。御霊はひとつ、フェイスはひとつ(Eph 4:5)。壁を超えるのはそれにフェイスによりダイレクトにタッチすることによる。
言葉の効能と限界をしっかりと線引きする必要がある。物理法則は数学という厳格にその外延と内包を定義された世界共通言語によって記述される。ゆえに言語の壁はない。そのかわり数学が分からない人にはまさにイッツ・グリークとなる。一方、フェイスはそれぞれの言語によって記述される。ゆえにいろいろと民族的・歴史的・習慣的・習俗的などのコンタミ(不純要素)が混ざる。これが種として成長し膨らむとそれぞれのキリスト教なる宗教体系が構築される。
当時もジーザスは「パリサイ人とサドカイ人のパン種に注意せよ」と言われた。パリサイ人は宗教者、サドカイ人は合理主義者を代表するが、その種が膨らむとフェイスをかき消す。これが今もなお、連綿と起きていることなのだ。われわれは完全にその種を抹殺することはできない。が、主は「それに気を付けよ」と言われた。少なくとも自らを正当化して、それを育てるような愚は避けたいものである。

ヨブは息子たちが神を呪ったかもしれないと思って捧げ物を捧げていた。
この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job 1:5
一見きわめて信仰深いようであるが、彼の行動の根底には恐れがあるのだ。事実、彼は証ししている―
恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。-Job 3:25
まことにFEAR(恐れ)とは「False(偽りの) Expectation(期待が) Appearing(現れて) Real(現実となる)こと」である。恐れはサタンの領域と直結し、死のパワーを解放する。対してフェイスは神の領域と直結し、いのちのパワーを解放する。
恐れの霊を受けてしまうと祈りが働かない。恐れを動機とする”祈り”はすでに恐れの霊によってドライブされているからだ。これは誰もが経験したものと思うが、祈りが単なる言葉の繰り返しになって、サブスタンスにタッチする感覚がないのだ。このような場合、さらに事態を悪化させるのは、自己弁護だ。霊的書物をよく知っていたり、頭脳がけっこう高級な方々によくみられる兆候であるが、アレコレの用語を用いて、自分の状態を分析したり、事態をあたかも客観的に冷静に把握しているかのような素振りを作ってしまうのだ。
大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる。-Job 38:14
われわれは地であり、そこに次から次へと様々なスタンプが押される。もちろん神の印も押されるのだが、しばしば敵の印を押されてしまうのだ。病気や欠乏や人間関係の縺れなど・・・、これらはこの世の霊が生み出しているマトリックスである。が、それに同意するとき、それは動かし得ないリアリティーかのように私たちに迫る。そのような状態で祈っても祈りは天に突き抜けることなく、空転して地に落ちてしまうのだ。その印は衣装をとっかえひっかえするように見かけの表現を様々に変える。しばしば自分で自己弁護のためにその装いを厚くしてしまうのだ。これがマインドの罠、要するに自縄自縛状態。自分のマインドの中に自分を幽閉してしまう。こうして神のデュナミスの流入をブロックするのだ。
はっきり言おう、フェイスがなかったら、ないと言えばよい。とても自分の病気が癒されるとは信じられないと本心を語ってしまうのだ。不思議なもので本心に立ち返るとき、神のタッチを受けるのだ。
そこで、彼は本心に立ち返って言った。-Luke 15:17
この瞬間、あれほどに縺れていた蜘蛛の巣がサッと解けてしまう。自分でどんなにもがいても得られなかったものが、瞬間的に「得た!」と分かる。すると平安がさあーっと心に満ち、喜びがこみ上げてくる。これがフェイスの瞬間だ。理屈ではない、ただ分かる。I know that I know. 終わった、得た、開かれた、解かれた、癒された、と分かる。それは完了形。サブスタンスを得た瞬間である。あとは時系列の中でこの物理的時空間にそれが現出してくる。もちろん瞬時に現れる場合もある。神のわざはすでに天地創世の時に完成しており、それがこの五感領域に現出するのだ。
もっとも神のわざは天地創世の時に完成していたのだ。-Heb 4:3
霊的な書物をたくさん読み、あるいは聖書の知識などは豊かに得ている人が、しばしば悲惨な事態を経験する場合が多い。その時に外から見ていると原因が分かるのだ。何が敵の侵入を許すポイントであるのか。敵が付け込む隙、フェイスの穴が見える。それが敵が接近する足台となる。ヨブのケースで明らかだが、引き寄せの法則的に自ら招いているのだ[1]ニューエイジで言われる用語の実質は元々は聖書由来なのだ。彼らはわれわれの本来のフェイスをパクっているだけである。。霊的知識とか霊的書物、あるいはフェイスの偉人たちの黙想集や証集などは役に立たない。あなたのフェイスが問われている! これはある意味崖っぷちであり、フェイスの有無が文字通り命運を決める。フェイスはきわめて単純。むしろややこしいリクツなどは知らない方がよいだろう。自己を偽らず、飾らず、単純に受けるだけ。これがフェイスを生む培地。まことに
天国は幼子のものである。-Mark 10:14
聖書を学ぶことも大いなる罠になる。聖書を知っていることはひとつのこと、フェイスを用いるのは別のことである。聖書をよく知っていてもフェイスのない人は山ほどいるのだ。御言葉は啓示、啓示は霊的領域を顕わに見せてくれる。それは言葉(ロゴス)の指し示すリアリティーに入り込み、それに直接タッチすることだ。このとき、神のデュナミスが流れ込むのが分かる。身体反応や情緒的反応として文字通り経験できるのだ。霊的サブスタンスが五感の領域であるこの物理的時空間に現出する。
それを聞いて、わたしの内臓は震え/その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び/わたしの立っているところは揺れ動いた。-Hab 3:16
これがフェイスのパワー。その意味で聖書の知識というマトリックスからも解かれる必要があるのだ。聖書を介して単なる知識ではなく、啓示を得ること、それはすなわち霊的領域のサブスタンスをゲットし、そのリアリティーに触れることだ。そのために霊をチューニングし、鋭敏にする必要がある。まことに神のバイブレーションにより地を柔らかくほぐされ[2]創世記1章2節の「神の霊が動いていた」の原意は、リラックスして振動しているだ。つまりバイブレーションである(☞詳細はこちらを)。、聖霊によるレーマを聞くことができる者は幸いである。

ニューエイジ系サイエンティストによるプレゼン。ガンが3分で消失するエコー画像。ニューエイジ系の人の方が経験的にフェイスの使い方を知っている。彼は言う、すでにそれは起きていると信じること。IT’S ALREADY HAPPENED!
Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. –Heb 11:1
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ見ていないことの現出である(私訳)
私の著書にも書いたが、この聖句のfaithには定冠詞がない。つまりシックスセンスとしての一般的フェイス。ニューエイジ系の人たちもそれを用いる。それは霊的領域のサブスタンスをこの物理的領域に現出させるパワーなのだ。問題はそのチャネルとそのサブスタンスが何か? もちろんわれわれはポータルたるジーザスであり、もっとも高きエロヒムなるYHWHが成し遂げられた永遠のサブスタンスである。
verily, I am saying to you that whosoever may be saying to this mountain, ‘Be picked up and cast into the sea,’ and may not be doubting in his heart, but should be believing that what he is speaking is occurring, it shall be his, whatsoever he may be saying.”―Mark 11:23
時制に注意してほしいが(日本語ではニュアンスが難しい)、「心で疑わされ(受動態)つつあることなく、語っていることがすでに生起しつつあることを信じ続けているならば」とでもなろうか。あえて言えば、つねにソレが現在において生じていることを現在において信じていると。ポイントは永遠のNOW、つまり「今でしょ!」なのだ[1]このセリフは10年以上前からブログで指摘していた(☞前後裁断、今に生きる)。林先生に見事に持っていかれた感じだ(笑)。。
フェイスにより発せられた言葉、ヘブル語の”dabar”にはリアリティーを変えるパワーがある。”dabar”はmatter、つまり実質・本質そのものなのだ。だからDNAをも変えることができる。あなたを閉じ込めているマトリックスから解かれよ!
References[+]
↑1 | このセリフは10年以上前からブログで指摘していた(☞前後裁断、今に生きる)。林先生に見事に持っていかれた感じだ(笑)。 |
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以前、朝のジョッギング中、池の水鳥が一斉に飛び立った。えっと思うまもなく、ズドンと地震が。横浜で震度4。直下型だ。彼らは感知するのだ。彼らにはそのような能力、パワーがある。知性はないだろうが、本能が機能しているのだ。動物はその本能によって生きている。それが人間の能力をはるかに超えることは衆知のことであろう。
精神分析の岸田秀氏は、人間は本能が壊れたため、知性によって幻想の中に生きるはめになったと言っているが[1] … Continue reading、まことにそのとおり。要するに現実から遊離し、ブレインのマトリックスに生きている。たとえば動物の生殖行動はあくまでも子孫維持のためだが、人間は必ずしもそうではない。だから人間の性行動は多かれ少なかれ倒錯している。
では、クリスチャンは何によって生きるわけ? 義人はフェイスで生きる、聖書に明確に書いてある。しかし、しかしだ、キリスト教徒の多くは、実はこう思っている:それは理想論。現実はそんなに甘くない。見てみよ、世は混乱、キリスト教界もスキャンダルだらけ、信じたってガンで死ぬ人もいっぱいいるではないか。所詮、カネがなかったら生きられない。フェイスで腹が満たされるのか。いい加減、現実を直視してみろよ。Dr.Lukeは最近、おかしくないか?
実は、こういった声があることは私の霊が感知している。彼らは自分で勝手に作り上げた「信仰で生きる」の幻想を追っかけているに過ぎない[2] … Continue reading。この業界を覆っている霊はこのようなものである。
しかし、逆に質問しよう:そういうあなたは何によって生きているのだろうか? 才能? カネ? 会社? 地位? 学歴? 人間関係? 社会保障?・・・人はそれぞれに何かによって生きているのだ。それが当たり前になりすぎて、自分では意識できないほどに。あなたは無意識的に何かによって生きているのだ! が、ときにそれが崩される瞬間が来る。その時、人は動揺し、混乱し、恐れと不安に見舞われる。その時、自分が頼っていた物の正体が分かる。もし、キリストにのみよるのであれば、それはけっして揺るがされない(Rom 9:33)。
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。-Matt 7:24-25
この岩とは、いわずもがな、キリストである(1Cor 10:4)。かつて『真理はあなたを自由にする』において、「フェイスはI-AMの実体化だ」と書いた。まことにそのとおり。イエスはご自分を「エゴ・エイミー」、すなわち「わたしはある」と言われた。そう、I-AMだと言われたのだ[3] … Continue reading。御子は神のサブスタンスの現出(Heb 1:3)。その方をsubstanciation、実体化すること。これがフェイス。
霊的法則(フェイスの法則)は物理的法則を超える(Rom 8:27)。重力の法則に飛行の法則が打ち勝つように、フェイスの法則は物理的法則を支配する。ないものがあるようになる。神はないものをあると呼ばれるお方(Rom 4:17)。主は「その神のフェイスを持て」と言われるのだ(Mark 11:22)。神はフェイスを語り出して創造のみわざをされた。原則は同じ。われわれもフェイスを語り出すのだ。
神のバイブレーションは全地に満ちている(Ps 19:4)。そのバイブレーションと私たちの霊を共鳴させること。これがフェイス。フェイスはバイブレートする霊である[4] … Continue reading。そのバイブレーションが私たちのマインドに言語化あるいは映像化されるとき、それを語り出す。するとそれが現出するのだ。
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じフェイスの霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13
おいおい、Dr.Lukeはニューエイジかグノーシスにはまっているのではないか?と言われるむきがあることももちろん承知。が、イエスはそのようにしてみわざをしたであろう。Are you with me? キリスト教徒はオツムだけの、肉汁の抜けた筋張ったステーキを食わされている。ニューエイジの方がよほど霊的法則を知っている。
繰り返すが、ヘブル11章1節のフェイスには定冠詞がない! 彼らはそのシックスセンスであるフェイスを、間違った方向とチャネルを通して使っているのだ。ゆえに、ナントカ神学とかカントカ主義などよりも、元ニューエイジや悪魔礼拝をしていた人々の証は霊的世界に関して実に学びとなるのだ。何度も繰り返そう―
キリスト教なる宗教のマトリックスから解放されよ!
References[+]
↑1 | 人間は自然界を観察し、その法則を見出し、予測し、コントロールすることによって心の安定を保つ。自然そのものと直接にコンタクトすることのリスクを回避するためにサイエンスやテクノロジーを生み出したのだ(☞科学と信仰)。 |
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↑2 | すでに日本語の「信仰」なる単語が不適切であることは何度も指摘している。原語はピスティス(Gk)、エミュナ(Heb)であり(☞Emunahの奥義)、日本語で理解する信仰とはかなり異なる内包を有する。聖書の真理は日本語で考えてはならない。御言葉は御言葉により定義するのだ。 |
↑3 | I-AMとはYHWH、それは最高のエロヒム、父子聖霊にいますお方の固有名詞であり、LORDとか主と訳すべきものではない。現代聖書では御名が隠されている。御名の回復が急務である。 |
↑4 | 創世記1章2節、神の霊が水の上を「動いていた」の原語は、「振動していた」。つまりバイブレーションだ。卵を孵化させるときに雌鶏は熱を与えるが、熱とはバイブレーションに他ならない。 |

よくニューエイジ系では”mind over matter”という。物質を精神でコントロールできるというわけ。確かにアダムに対する神の当初の委託は
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。-Gen 1:28
この「地を従わせよ」の原語はStrongによると
kâbash
kaw-bash’
A primitive root; to tread down; hence negatively to disregard; positively to conquer, subjugate, violate: – bring into bondage, force, keep under, subdue, bring into subjection.
と、かなり強い意味がある。力づく的な要素もあるのだ。で、地(ertz)を征服せよ、服従させよ、束縛せよ、足下に置け・・・など。これってどういうこと? 地面を従わせる? はあ? 「地」の意味はかなり広範であり、Strongによれば、地面の他に国々、道路、荒地、そして世界の意味がある。イエスは言われた、御心が天になるとおり、地にもなるように祈れと。そして神の国は激しく襲われているとも(Matt 11:12)。KJVでは”suffer violence”、要するに暴力的なのだ。まことに創世記の命令と対応する。
マルコで足萎えを家の屋根をぶち抜いてイエスの赦しと癒しを受ける行為などまさにバイオレント(Mark 2:4)。盲人の目につばでこねた泥塗りたくり、目も空いてないままにシロアムの池に行って洗えと命じたイエス。メッセでも語っているがシロアムの池は急階段を降りるのだ。はあ、主よ、なんと過酷な要求をされますか?・・・と私たちのマインドは考える。これなどもまさにバイオレント。
あるいは異邦の女が娘の癒しを求めた際、犬に与えるパンはないと言われたイエス。が、その言葉をとってイエスの真意に応じた女。これがフェイスだ。現在のキリスト教のなよなよした自己憐憫的な光景とはまったく相反する。イエスは実にバイオレントかつダイナミックだったのだ。
地を従わせよ!
この命令は実にバイオレントかつダイナミックな命令であり、天を裂いて地に介入されたイエスの行為を見れば、いわゆる「きよく・ただしく・まずしく・うつくしく」といったキリスト教のイメージとは全く異なることが分かる。ツタの絡まるチャペルで乙女が祈りを捧げる・・・といったお上品なものではないのだ。天のサブスタンスをそのまんま地にもたらすこと。それはきわめて力づくの行為。もちろん肉のものではないが・・・。
神の国のパワー、すなわちデゥナミスはダイナマイトの語源。それは炸裂、さらには爆発するのだ! ぶち抜くパワーだ。覚醒せよ、このデュナミスに! 罪、病、欠乏、絶望、束縛・・・これらのおよそ天に相応しくないものを爆破するのだ。そして天の要素、義、健康、豊かさ、希望、解放・・・をもたらすこと。これが福音の力(Rom 1:16)。それはまことに天地創世の時に完成していた神のみわざのNOWise(今・ここに化)である。それは”mind over matter”ではなく、”spirit over matter”である。

引き寄せの法則はニューエイジの用語だが、その霊的法則は聖書がオリジナルである。人は自分の心を言葉に投影してそのとおりを得るのだ。つまり自分にとっての現実は自分の心が作り出している(☞プライベート・リアリティーはマインドが作る)。
人は心にあることを口が語る。何気に語るそのことばがまことの、あなたのそして私のフェイスの表現である。以前、きわめて厳しい事態を通られた方が再び同様の状況にあることを知った。前の時は、エゼキエルの妻のごとく、神が求めるものは取り去られてもやむなしとのニュアンスのことを、すでにその数年前に書いておられた。それが繰り返されようとしている。
フェイスの穴だ。心にある恐れを御言葉によって外見を修飾しているのだ。そこを突かれた。絵に書いたようなハッピーかつ模範的な、だれもが羨むクリスチャンホーム。私も私の家族もその子のことを知っている。幼い頃一緒に遊んだ。人情としてはまことに痛々しい。が、盗み、滅ぼし、殺す者はあの者である。ヨブも自分が試みに会う以前に、恐れから捧げ物を捧げていた。
この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job1:5
FEAR(恐れ)とは霊であり、その侵入を許すと、False (偽りの) Expectation (期待が) Appearing (現出して) Real (現実となる)。かくしてヨブは告白する―
自分の恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった。-Job 3:25
神は決して私たちを試みることはない。
試みられる時、誰も、自分は神に試みられていると言ってはならない。神は諸悪の試みを受け得ない方であるし、自身誰をも試みたりはなさならからである。各自が自分の欲望によって引きずり出され、誘い出されて、試みられているのである。-James 1:13-14
「誘い出され」の意味は罠にはまること。「欲望」とあるのはいわゆる快楽を求めるようなことだけではない。それは肉の思い。恐れや不安なども含まれる。肉の思いは神に敵対するのだ(Rom 8:7)。恐れや不安をいだくとき、それはサタンの領域と直結し、死の霊の流れを招き、神の恵みや力(デゥナミス)の流れの障害となる。繰り返すが、もっとも主が言われた教えは「恐るな!」だ。ややこしい霊的形成がどうのこうのではないのだ。フェイスはシンプル。求めよ、聞け、信じよ、そして語れ!
人は自分の心の中にあるものが”IT(それ)”を招いているのだ。次々に不幸に見舞われる人。何度も男に貢いでは騙される女。何をやっても惨めになる男。病気に病気の辛酸を舐めるもの。それは神の訓練でもないし、それによって練られるわけでもない。前にイジメの問題で、相手に立ち向かえと指摘した時に、S氏が抗議してきた。立ち向かえなどは混乱を招くだけ、イジメられる中で人は成長するのだ! 巧妙な偽りである。偽りを語るならば必ずそのとおりの試みを受ける。フェイスの穴を突かれるからだ。
しばしば人はヨブの言葉を以って事態を正当化する。神は与え、また神は取られる、と。が、この発言は迷いの中にあるヨブの心の吐露である。それは神に冤罪を被せること。現にヨブは塵灰を被って、完全に悔い改めであろう。自分は無知をもって神の経綸を暗くしていた、と。神を有責者としてはならない。
何を守るよりも、自分の心を守れ。そこから命のすべてが湧き上がる。-Prov 4:23
マインドのマトリックスを書き換えよ。再度指摘する、神に服し、悪魔に立ち向かえ。悪魔は逃げ去る!(James 4:7) 悪魔こそが盗み、滅ぼし、殺す者。イエスはその者のわざを滅ぼすために来られた。神はいのちを与え、しかも豊かに与える神である(John 10:10;1Cor 15:45)。


このふたつ表向きは実によく似ている。が、本質的にはニューエイジはキリストの否定。しかし、神学オツムで空回りするキリスト教徒よりは霊的世界との触れ方は深い。キリスト教徒は肉汁の抜けた筋張ったステーキを食わされているが、ジューシーな部分はニューエイジに取られている。われわれはそれをゲットバックする必要がある[1] … Continue reading。
さて、David Ickeなる人物を知っている人は、最近ではけっこう多いと思う。英国人、サッカー選手に憧れるもリューマチで挫折。その後BBCキャスターとして活躍するが、原稿を読まされるだけの仕事に飽き飽き。緑の党の広告塔となり、BBCを解雇され、90年代の初期に霊的覚醒を経験。
その後、世界を巡る間に爬虫類伝説が各地にあることに気づき、世界のエシュタブリッシュメントはスメールの子孫である爬虫類人類(レプタリアン)であると指摘。彼らがいわゆるシェイプシフトする動画などもYouTubeにはころがっている。日本では大田龍氏と親交が深かった。一時は故小石泉牧師とも交流があった模様。
彼の論はきわめて興味深い。いわく、人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)。この大海の意識はさらに高次元の霊的なエンティティとつながっている。
ところがこの肉体の中に閉じ込められている間に五感によって作られた偽りのリアリティーのカプセルの中に束縛されている。人は恐れによって自分の中に閉じ篭っているのだ。それが場を作り、そこにはある種のエネルギーが存在する。
それを生み出すのが爬虫類脳、つまり私の言うところの大脳辺縁系だ。ここを刺激されると人間は弱くされる。自己保存するための闘争が世では繰り広げられているが、それはこの爬虫類脳を刺激されて、マニュピレートされた結果だ。彼はここでマニュピレートする存在をイルミナティとかメーソンと言うわけ。
レプテリアンが存在するかどうかはわからないが、これはきわめて面白い。ある意味私が指摘しているとおりなのだ。人は欺かれている[2] 誰に?Ickeの言うようなエスタブリッシュメントというよりは、霊的な存在による(Eph … Continue reading。人は爬虫類脳である大脳辺縁系を刺激され、恐れや情欲によって振り回されているのだ。
内的な世界モデルは自分の内面を投影したものであり(☞鏡像原理)、よって人により世界をどう把握するかはテンデンバラバラ。一応その最大公約数的な部分が常識とされるわけだが、この常識というやつが危ない。特にニッポンのものはやばい。さらに危ないのがニッポンキリスト教のそれだ。大衆は自分の作り上げたそのカプセルに閉じ篭って生きている。結果、彼らはマスメディアなどにより容易にMCされている。
ただし、Ickeはニューエイジ[3] Icke自身はニューエイジは逃避的であるとしている。つまり自身がニューエイジとの自覚はないようだ。。彼はイエスをも陰謀によって創作された”神”の幻想であるとする。繰り返すが、ニューエイジは聖書のパクリ。サタンは独創性はない。ゆえに神を真似るだけ。「引き寄せの法則」とか「願望物質化の法則」などはその最たる例だ。
われわれがある種の霊的なオーラを発していることは明らか。真に御霊に満たされているクリスチャンの醸す雰囲気は普通とは異なる。その霊的な場に人々が引き寄せられることは当然。イエスも多くの、特に虐げられた人々を吸引した。
また私たちのマインドには創造する力があることはバベルの塔の件で神が証言している。彼らが思い巡らすことは妨げられることはないと(Gen 11:6)。そして言葉にもその力があることは何度も書いている。
われわれはこの物理的世界と霊的世界の狭間に生きている。神と悪魔と人は三角関係のダイナミックスに置かれている。諸霊の影響を受けているのが世の中の人々、そしてオツムだけのキリスト教徒だ。彼らは霊の世界、あるいは霊の場を知らない。その場の振動(波動)がこの物理的世界に現出するのだ。
中東情勢も、個人の経験も、みな原則はひとつ。われわれのフェイスによる言葉はその霊の場に波動を起こす。フェイスによって霊の場の波動、すなわちサブスタンスをこの世界に現出させる(Heb 11:1)。
イエスは内にいます父の言葉をご自身の霊の波動としてとらえ、それを語り出された。これが死者を生かし、水をワインに変え、癒しやしるし・不思議をなしたのだ。物質界も場の波動であり、霊的世界も場の波動。そのふたつの領域を結ぶのがわれわれの言葉だ。内なる霊の波動による言葉を語り出すとき、それは何かを生じる。
Ickeも言っている、マインドのトランスフォーメーションこそが鍵だ、と。目の前の世界、現象を変えるのではなく、自分の内が変われば自ずと世界も変わると。まことにそのとおり。小さな自分というカプセルから飛び出せ!船から水面に一歩を踏み出したペテロのように。神のレーマがあれば水面も固体化するのだ!
神の語りだされた言葉(レーマ)には不可能はない。-Luke 1:37
最後に、クリスチャニティとニューエイジの決定的相違は何か?十字架の有無である。そして霊的領域にアクセスするポータルの違い。われわれはもちろんジーザスのみだ。
わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。-John 10:9

日本語で「信仰」と聞くと、「信じて仰ぐ」とそれぞれのオツムに構築されたマトリックス回路が作動する。仏教とも神道でも何かを信じて仰いでいる。ゆえに、オレの信仰、あなたの信仰・・・、それぞれの信仰を大切にとなるのが一般的。かくして信仰を論じると、けっこう一部のプライドを刺激するようだ。この単語自体が日本語マトリックスなのだ。わたしはあえてフェイスと言う。
さて視力と言ったとき、オレの視力、あなたの視力とはならないであろう。それは与えられたセンサー、機能、能力。確かに視力の良し悪しはあるが、視力とは物理 的サブスタンスである電磁波をキャッチし、内的に実体化する能力。これは万人に共通。同じようにピスティス、すなわちフェイスも霊的サブスタンスをキャッ チし、実体化する能力なのだ。
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じフェイスの霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor4:13
つまりフェイスとは霊である!オツムで聖句をアレコレいじくって、その読解や解き明かしをするのではない。それは単なるオツムのマトリックス。霊的サブスタンスを知るのは霊。フェイスは霊的領域へのチャネル、ポータル。ヘブル11章1節の「フェイス」には定冠詞がないことに注意と何度も指摘している(Heb 11:1)。ニューエイジも フェイスを用いている。ただわれわれとはチャネル、ポータルが異なるのだ。われわれのそれはジーザス。
フェイスにより語り出された言葉、つまりレーマは霊であり、いのちである(John 6:63)。語り出された神の言葉は無益に帰ることはない、必ず何かを成し遂げる(Isa 55:11)。フェイスはわれわれの僕(しもべ)、私たちが命じたことを忠実に行ってくれる(Luke 17:8-9)。ある姉妹がある事について祈ると主の油塗と平安が与えられた。すると思い煩いとか不安や恐れが消失 した。祈りが通ったことは分かった・・・けど、私自身も何かしなくてよいのでしょうか?と言われた。僕は忠実に言うことを聞いてくれるのだ(Luke 17:6)。
ポイントは、誰の言葉をどう聞いて、どう語り出すか。ジーザスは内なる父の言葉を聞いてそのとおりを行った。またそれを語り出した。それだけ。彼のわざ は、聞いて、語り、行う、これだけ。私たちも同じ。ややこしいナントカ神学とかカントカ主義とか、そのようなマトリックスに絡め取られないこと。マインドが透明であれば明確に内なる神の声を聞くことができる。
「フェイスは僕である」にはまたぞろ異論があるようだ。「信仰」を日本語マトリックスで考えるむきは特にであろう。弟子たちが「神のわざを行うためには何を したらよいでしょうか?」と尋ねると、ジーザスは「父が遣わされた者を信じること、これが神のわざである」と答えた。ここで日本語マトリックスは、「ふー ん、行いではなく、信仰が大切なんだ」と考える・・・。
が、よく読んでほしい、ジーザスはそんなことを言っていない!信じること、つまりフェイスが神のわざだと言っているのだ。See? 人は何かせねば、と考 える。神はわたしがする、と答える。これがフェイス。フェイスは私の何かではない。神のわざ、つまりスーパーナチュラル。だからジーザスは「神のフェイスを持て」と言われる(Mark 11:22)。私たちのために何かを成してくだ さるのは神ご自身であると。自分で「信じます、信じます」とやって裏切られたと感じる者がけっこういるが、とんでもなく勘違いしているゆえだ。
フェイスは霊であり、神のわざであり、スーパーナチュラル。キリスト教の「使徒信条」云々とかのレベルではない。昔、近視の私は視力検査の際、あらかじめ 視力検査表を「リサツクケテヘコ」と暗記して、それを答えたものだ。何を言いたいか分かりますよね?これがキリスト教なる宗教。
マトリックスを離脱せよ。霊的センサーとキリストのマインドをアクティベーションせよ。「リサツクケテヘコ」は不要になる!

改めて・・・こういった色物に騙されないように! 映画もあるとか。
しかし、ことば社はプライドというものはないのかね。アメリカのベストセラーの後追いで。元はサンマークでしょうに。山本太郎の爪の垢でも煎じて飲めと言いたいが。それにこんな映画で感動した~ってニッポンキリスト教徒もねぇ・・・。綿アメばかり舐めてると糖体質で霊的に必ず蝕まれるよ!
あえて時間を弄するまでもないので、こちらの指摘を参照されたい。識別力がなくなりつつある時代。こういった人もまだいるわけで、一安心。
しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。-1テモテ4:1
–『神の小屋 The Shack』書評―失われつつある福音主義クリスチャンの識別力 byアルバート・モーラー(南部バプテスト神学大学 学長)
英国の友人Jarrod Cooper(King of Kings, Majestyの作者)の言葉がぴったりだ。
今日のために世(ニッポンキ業界はすでに世)で人気を得るよりも、永遠のために神と同意すべきである。

しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。-1Cor 6:17
私たちはキリストの体の一部。先のJill博士やIckeの宇宙の中の一部である意識が個人的なカプセルから解放する論とも共通する。念押ししておくと、私は彼らの主張をすべて良しとしているわけではない。彼らはイエスを認めていない。きわめてニューエイジ的である[1] … Continue reading。
が、一面の真理を述べていることは否定できない。スピリチュアルな要素を排除した神学オツムや儀式などでがんじがらめになったキリスト教徒よりもはるかに魅力がある。前にも言ったが、それはジューシーさを失った筋だらけのステーキのようなものだ。
個人の葛藤や不安や恐れから解放される鍵は何か。それは自分が個ではないこと、キリストの身体の構成要素であり、キリストのマインドとキリストのいのちを共有している存在であることを知ることだ。私という意識は左脳が生み出す。それはシーケンシャルな論理の鎖であり、a=bかつb=cならばa=c、と流れる。
しかし神はあえてこの論理の鎖を断ち切る。イエスの立ち居振る舞いを見れば明らかであろ。世の知者を辱めるために。学者はどこにいるのか。あなたは創造の神秘を知っているか、と神は迫るのだ。私は2014年12月に上げられた時、こう迫られた。自分の小さなカプセル(舟)を脱し、神の霊という大海に一歩を足を踏み出せと。
イエスを誘惑するときにサタンは世の栄華をすべて見せた。私もこれがビジュアルかつヴィヴィッドに見えている。世のすべてが見えてしまった。それは限りない憧憬を生むものではなく、私の足の下にあった。私ははるかに高いところに上げられていた。だから世が、そしてその歴史が一望できたのだ。私はそれを見下ろしていた。どのくらいの時間が流れたのかわからなかったが、とにかく一瞬にしてすべてが見えた。そして今も見えている。
同時に、私は限りない神の霊の中に置かれていた。私は神と完全にひとつ、天地を創造されたお方が父であると、父の愛と暖かさとその胸に抱かれる安心感と満足感を感じた、否、感じている。私は包まれている。この全宇宙の創造者によって。私の霊と神とはひとつ。私は確かに私の意識を有しているが、私は全体の中の一部。これを知るとき、個人としてのあれこれは一切消え去る。私の、私が、私は・・・果てしない私の意識は消え去るのだ。
私たちのうちに神はいまし、私たちは神のうちに存在する。大海なる神の霊の中に浮かび、身を任せている。神が私の父であり、イエスは長兄であり、聖霊が私をつくりかえて下さる。狭いマインドから解かれること。左脳の束縛から解放されること。あえて脳卒中になるまでもない。
自分を解き放つ経験は、特にワーシップにおいて容易になされる。ワーシップの流れに完全に身を任せ、左脳を手放すこと。セレブにおいてはこれを行っている。私のメッセージが目的ではないのだ。それは付録。左脳が解かれれば、異言も自然と発せられる。内なる霊の波動をそのまま直接に音声にして解放するのだ。それは知性をバイパスして内なる霊が直接に神に祈る。私の知性は何を祈っているかわからなくても神はご存知である。聖書の勉強とか、御言葉の解き明かしとか、それは別に不要とは言わないが、霊の経験なくしては無意味だ。聖書オタクをつくるだけ。
霊が開かれること、霊を解き放つこと、神の霊に浸ること。このとき、3時間半のセレブは一瞬である。
References[+]
↑1 | ニューエイジとクリスチャンの違いは、十字架を経ているか否か。彼らはもろもろのチャネルをとおして、霊的領域とコンタクトするが、クリスチャンはジーザスをポータルとする。⇒ニューエイジの問題点について |
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これ、ニューエイジの用語。しかし真理である。私たちの置かれているリアリティーはしばしば自分のマインドが作り出したものだ。自分はこんな努力しているのに、なんでいつもこんな目に遭うのか、あるいは貧困から這い上がれない・・・。逆に、宝くじの高額当選を何度も経験する人もいる。彼らは別に功徳を積んでいるわけでもないし、努力しているわけでもない。カネが勝手に追いかけてくるのだ。それはあなたのサブコンシャスが招いている。
ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。 ・・・この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。ーヨブ記1:1-5
ヨブはまことに引き寄せの法則を実証した。前にも書いたが、神が彼を試みるためにあの災難に落としたのではない。あるいは罪を裁くためとか、彼の人格を練り上げるためとか・・・。そういった宗教的なマインド自体が、実は、ヨブの災難を招き寄せるのだ。神は彼をあらゆる面で富ませていた。ところがヨブの側にすでにフェイスの穴が開いていたのだ。神はサタンを制限して、むしろ彼を守ったのだ。なぜ神はヨブの災難を許したのか、と人はよく問う。それは神の問題ではない。GOD IS ALWAYS GOOD! ヨブが信じた通りになったのだ。
わたしの恐れるものが、わたしに臨み、わたしの恐れおののくものが、わが身に及ぶ。-Job 3:25
ある方の子供さんが深刻な病にあったのだが、ご本人が言うに、すでに数年前にその子を失うかもしれないと不安を覚えていたが、自分はその子を主に捧げていたと。ヨブとまったく同じだ。根底にあるのはフェイスではなく、恐れだ。スタートが恐れなのだ。それは、実は主に対する捧げ物ではない。しかもそれを書いてしまっている。病状とか状況を事細かに書いてしまっている。恐れやその事態を定着してしまうだけだ。語り出された言葉にはそのとおりの事態を生むパワーがある。アブラハムがヨセフを失ったと思った時のことばを引いているのだが、御言葉を完全に誤解しておられる。その事態は神の御心であるかのようなニュアンスであるが、これはトリック。これではフェイスを使いようもない。
あなたが宣告することは成就し/歩む道には光が輝くことだろう。ーヨブ記22:28
繰り返すが、フェイスは条件ではない。フェイスは願うことのサブスタンス、実体(Heb 11:1)。つまり癒しそのものなのだ。その方の文章からはすでに失うことを既定路線としてしまっている。まことに引き寄せの法則のトラップにはまっておられるのだが、本人は多分気がついていない。私の知り合いが何気にアドバイスしたところ、拒絶されてしまったと言っていた。この業界では名のある人だからプライドもあるだろう。完全にマインドが作り出したマトリックスの世界に幽閉されているのだ。これでは聖霊も働く余地がなくなる。
恐れ=FEARとはFalse Expectation Appears Realだ。フェイスと恐れは互いに背反する。だからイエスは口を酸っぱくして繰り返し「恐れるな!」と言った。恐れる者には愛が全うされていない、恐れには懲罰が伴うとヨハネも言っている。(1John 4:18)。まことにモンテーニュの証しするとおりである。

Gregg Braden、ニューサイエンスのパイオニア、ややニューエイジ系ではあるが、この報告は面白い。ガンが3分で消失。カギは「すでに起きた」と信じること。つまりフェイス。ヘブル11:1のフェイスの定義には定冠詞はない。つまり一般的能力、シックスセンスとしてのフェイスであり、それは人類誰もが潜在的に有する能力。それにより時空を超えた領域のサブスタンスにタッチできる。
ニューエイジ系の人の方がそれを実践しているが、キリスト教徒はオツムだけ。いつも言うが、ナントカ神学だの、カントカ主義だの、肉汁の抜けた筋張ったステーキを食わされている。だからパサパサして魅力がない。問題はニューエイジャーと我々の違い、すなわちポータルの違い。彼らはいろいろなチャネルを用いるが、わわれわれのポータルはジーザス。それを通して、【出入り】するのだ。どこと、どこを?
ガンを恐れるな!むしろtake dominion!われわれにはすでに神の国の諸々のカギ(複数形)が与えられているのだ。ジーザスこそが真のニューエイジを開き、われわれこそが真のニューエイジャーなのだから。繰り返すが、恐れ(FEAR)とは、False Expectation Appearing Realだから。実はかつての私は花粉を恐れていた。この時期、外気に当たることが恐かった。そのとおりに苦しんだ。このトリックに気づいたら花粉症は消失したのだ。